ケレンの森-2-
わけもわからないまま異世界に放り出され、牢獄に収監されたことと拷問に対する恐怖による精神の摩耗、そして三日間の徹夜に加えてほぼ馬上で過ごした身体的疲労。それに、森での全力疾走が書き加えられた明人の心肺機能は限界点に達しようとしていた。そもそも足腰に負担を強いられていたのにここまで走ってこられたのは脅威に対する無意識の抵抗に他ならない。火事場の馬鹿力とでも称すべきだが、風前の灯火は消える瞬間にこそもっとも美しく燃えるものだ。
膝に手をついて呼吸を整えながら後ろを振り返る。薄暗がりと鳥が飛び立つ際に起こる葉擦れの音以外には、明人自身の激しい呼吸が聞こえるのみだ。ひとまず、撒いたらしい。
「ざ、ざまぁ見ろ」
つぶやいた憎まれ口は暗い森に消えていく。ゲームや物語のなかでは、魔法使いというものは体力がないものだ。単純な身体能力では劣っているかわりに多彩な魔法で仲間を援護し、主力ともなって頼りにされる。魔法で足止めを食らわなければ、容易に逃げ切れるものなのだ。
しかしいざ逃げてみると、今度は別の問題が生じる。
明人はこの森について詳しくない。当然初めて来た場所であるので、迷子になる危険性が非常に高い。これまではジュゼッカが、集落から得た地図に従って先導してくれていたわけで、彼女と離れてしまった今は、自分の勘だけが頼りになるのだ。
この森は人が踏みしめた道が存在していて、それが一般的なコースになっている。アルザラッハの調査隊も、アルザハ方面からではなく、街道から出発して基本となる道を作成していたのだが、毎回謎の行方不明が起こるので森のすべてに到達できているわけではなかった。どうやら森の北側に行方不明が頻発するらしいのだが、現時点で明人には関係がない。
このコースにさえ出てしまえば、それに沿ってアルザハにたどり着けるはずだが、まずそこに到達できるかが問題である。コンパスなど持っていないし、太陽や星も見えないので方向感覚も皆無だ。そもそもこの世界の星座は、明人のいた世界とはまったく異なる。
それ以外にも問題はある。今現在、金髪の魔導師の姿は見えていないが、仮に明人を見失ったとすれば、ジュゼッカらのほうへ引き返してしまうこともありうる。それではわざわざ明人が逃げ出した意味がないのだ。明人は、完全に撒いてしまってはいけなかったのである。
「一応、だいたいの方向はわかるから、少し戻ってみようか……」
その、だいたいの方向とやらも、信憑性は薄い。完全にまっすぐ突き進むということはありえないし、来た道を完璧にたどるということも不可能であろう。だいたい、というのはこの際、希望的観測が多分に含まれている。
本当に戻っていいものか、明人は一瞬だけ迷ったが、すぐに引き返すことを決断した。ジュゼッカに存分に戦ってもらうために走ったのだ。本当に魔導師がジュゼッカの元へ戻ってしまったら、囮は逃走になり、我が身かわいさに逃げ出しただけになってしまうではないか。
そう思って歩き出そうとした瞬間、火球が明人の左側面を通過していった。先にあった木へ衝突して、炭化しながら木が倒される。
「な……」
声をあげる間もなく、第二撃が明人の、今度は右側面を通過する。姿は見えないが、追ってきている!
「やばい、やばいやばいやばい」
踵を返してまた全力疾走を開始する。撒いてなどいない、確実にこちらの位置を把握している。道はまっすぐ続いているので、そのまま突き進むわけにはいかない。背を向けている分、回避ができなくなるのでジグザグに走るしかない。
「うわっ!!」
方向転換したのが幸いだった。元いた場所が炎の塊に襲われたのだ。しかしこの叫び声が、明人の命運を決めた。
「な、なんで……!?」
目の前に豪奢な金の首飾りと高価な絹の衣装に身を包んだ若者が立っていた。よく手入れされた金髪をかきあげて、片頬だけで笑って見せる。
「なんでもなにもないだろう。僕は魔導師だよ?魔力源をたどるなんて簡単だ」
「な、なに?」
明人の計算違いは二つあった。一つは、魔導師、というよりは魔法を使える者すべてが、ある程度の魔力反応に対する察知能力があるということだった。この世界の生物にはすべてに魔力というものがあり、強弱の差はあれど、それは魔力反応として探知される。魔導師は特にこれに対する探知能力に秀で、また隠密能力にも優れる。明人には理解できないことだが、この世界の野生動物たちにも電磁波や赤外線といったもののほかに魔力源を察知して行動している。それは危機回避能力として本能的に備わっているものなのだ。
だがこの世界の人間ではない明人に、魔力など備わっていようはずがなく、魔力源を探知、などということに思い至ることはない。
「(まさか俺にも魔力ってのがあって、魔法が使えるのか?)」
この危機的状況において、魔法が使えるかもしれない、という可能性に心躍ったのは、やはり憧れがあったからだろうか。そんな明人の心情を知ってか、金髪の魔導師は無慈悲であった。
「しかし貴様の魔力反応はとてつもなく小さいねぇ。まるで兎か猫のようだ」
「……」
「それとも少しは魔力反応を抑えることができるのかな?惜しい惜しい」
「ピーナッツ野郎……」
忌々しくつぶやいたが、迫力には欠けている。
「でも、なんで俺の前にいるんだ。確かに後ろにいたはずなのに……」
「あっははははは!アルザハの風とは僕のことさ」
その二つ名にはなんの感銘も受けないが、明人を驚愕させたのは、金髪の魔導師の魔法である。二つ目の計算違いは、金髪の魔導師が瞬速を使えたことである。簡単にいえば早く動ける魔法で、直線的であり、一度に移動できる距離は一メートルから四メートルほどで、かつ、術の行使中は他の行動がまったく起こせず、さらに移動直後にタイムラグが生じるという様々な欠点を有しているが、単純に移動したり、間合いを詰めたり、回避することにおいてはトップクラスの上位魔法に属する。燃費もそれほど悪くないので、彼が二つ名をいただくには相応しいといえる。
金髪の魔導師は最初から、ある程度明人を逃がしてやるつもりだったのだ。捕まえるならば最初から瞬速を使えばよいだけであるのに、そうしなかったのは、単に弄んでいるだけなのだ。
「まぁあの女を助けようとしてるんだろうが、無駄だったな。せいぜい僕に遊ばれてくれよ」
「くそ、このピーナッツ野郎、アーモンドだったか」
その貶しかたも正しいかわからないが、つまり、予想外に実力者だった、ということを言いたかったのであろう。
「口は災いの元だな。さっきも悲鳴をあげなければ、もう少し追いかけっこができたのだが」
「……」
「それにしても奇妙な格好だ。貴様も貴族なのか?まさかな」
「うるせぇ」
「まぁいいか。ほら、うまく避けろよ」
そう言って、金髪の魔導師は無造作に腕を振るった。手のひらに収まるサイズの火球が、明人の足もとで炸裂する。跳びあがって避け、さらに足もとでオレンジ色の光が破裂しては消え、放射線状にはじけていった。
まるで金髪の魔導師に操られてダンスをしているかのようだった。そのステップは無様で、不格好で、大仰で粗野だった。
「悪くない足運びだ、見世物としては。優雅さと華麗さが足りないので社交場では披露するなよ」
もっとも、そんな機会もなかろうが。金髪の魔導師は不愉快な笑声をあげて「見世物」を観ている。
この「ピーナッツ野郎」にはなんとしても負けたくないが、いかんせん、魔法を使われては明人に勝機が存在するはずもない。無様なダンスを披露して見世物になるしかないのだ。
「お」
しかし明人の右腕は腰にあった剣を澱みない動作で抜いていた。一体成型でできた鉄の片手剣。刃渡り五〇センチと、剣としてはずいぶん短い部類で短剣とでも称すべき、警備隊の一般支給品。無論、明人は剣などを扱ったことはなく、おそらくこの世界の素人以下であろう。負けん気だけが、明人に剣を抜かせていたのである。どうせ避けつづけることはできないのだ。ならば、攻撃して活路を見出すほうがまだ可能性があるように思えた。
明人は全力で襲いかかった。肉体の疲労はピークに達していたが、死んで眠るよりも、生きて大いびきをかくほうがいいに決まっている。振りかぶって、剣を魔導師に振り下ろす。
しかしそこに魔導師の姿はなく、一メートルほどの右に瞬間移動していた。
「うおお!!」
横なぎに払うも、また魔導師は消えて、さらに二メートル後方にいる。
無理だ。瞬間移動できる人間に、瞬間移動ができない人間がどうして勝てるだろう。明人は絶望の黒いしみが心を侵蝕していくのを感じた。
◇◇◇
黒髪の魔導師に驚きと、彼らしくもない称賛の念が湧きあがっている。小さな炎の塊が二十数個、ジュゼッカめがけてなだれ込んでいったが、いずれも致命傷には及ばない。美貌の女兵士はその美しさに似合わず、剣の素養を示していたのだ。しかしすべてを防ぎきっているわけではない。彼女の甲冑は、上半身をほぼ覆い、下半身も同様である。ただ女性用に軽量化されて、耐久性能は男性用のそれに著しく劣るものの、鋼でできているために一般兵士よりもはるかに恵まれている。上級兵士というべき彼女の鎧は、このとき火傷を防ぐためのものでしかないようだった。撃ち漏らした火球は五つ、左肩、左胸、右胸、右膝、左上腕部。
直撃した際の衝撃は、我々の感覚でいうところのゴムボールが当たったのに等しい。火球の真価は衝撃ではなく炎上させることにあるので、激痛を覚えずともこの際関係がない。さらに鋼鉄の鎧によって熱もある程度防がれているし、燃えるということもありえないが、それでも熱伝導によって高温になるのであまり直撃されると軽い火傷を負うことはあるだろう。実際、五つもの火球を浴びた鎧は熱を持って、ジュゼッカはサウナのような暑苦しさを味わっている。
「素晴らしいな。是非、その腕を私のために振るってもらいたいものだ」
黒髪の魔導師はこのとき、称賛の言葉を惜しまなかった。
「それに、よくよく見るといい女だ。傍に置きたいな」
ジュゼッカが嫌悪感を抱くのに充分すぎる台詞を吐いた。緑色の目の持ち主はまっすぐに拒絶を訴えて、いかにして黒髪の魔導師の攻勢に対処するか思考を巡らせている。考えられる選択肢は三つ。
一、このまま防御を続けて魔力が尽きるのを待つ。
二、防御を捨てて白兵戦に持ち込む。
三、勝ち目なしとして逃走する。
実質、二つしかない選択肢の一つ目については、見通しが立たないのが難点であった。おそらくジュゼッカらと出会う前にも、彼らは魔力を消費しているであろうが、仮にも魔導師たる者、並の測量ではきくまい。明確に数値化されているならばともかく、正確に把握するのは不可能だ。
二については、賭けというべきだ。防御を捨てる、とは彼の魔法の直撃を受けるということで、しかもそれを受けつつも前進して肉薄せねばならない。おそらく、鎧は保つだろうが、ジュゼッカの肉体が先に音をあげるだろう。全身に大やけどを負うとなれば、生命に危険が及ぶ。回避しながら、というのはあまりにも酷だ。女性用で軽量化されているとはいえ、鎧は鎧、運動能力はかなり低下しているのである。
三については考慮するに及ばない。これを選択した時点で、彼女は彼女でなくなってしまうであろう。肉体的にも、精神的にも。
ジュゼッカは剣を構えて、身じろぎもしない。切れる呼吸を整えることに努め、機を窺っているようだ。
「どうした、私のものになる気になったのか」
「……私があなたの所有物になることは天地がひっくり返るよりありえません。主はただ一人」
「なら、力ずくでひっくり返すとしよう」
大言壮語は、無数の火球によって構成されている。古来より人間が文明を持って栄えるにいたったのは火を扱い、利用できたからだとされている。多くの魔法使いが、というよりは人間が火の魔法を得意とするゆえんだ。魔導師のなかにもこれを突き詰めている者がいて、黒髪の魔導師も金髪の魔導師も、この手の魔法については巧者であるといえる。
ただ、ジュゼッカのほうも巧者であるといえる。それは剣技よりもむしろ「魔法を扱う剣士」として有能だ。
絶妙のタイミングだった。黒髪の魔導師が腕を振るって、無数の火球がまさに流星の瞬きを見せる、その瞬間、ジュゼッカは走りだした。火球は光芒となってジュゼッカを貫かんとする。
「むうっ!?」
黒髪の魔導師は驚愕し、次に焦燥を覚えた。ジュゼッカは、唯一守られていない顔面を左腕で防御するだけで、突撃してくる。そして直撃した鎧に弾かれた火球は、奇妙に雲散している。
結果的に、彼女は二を選択したのだ。勝算には賭けの要素が大きいが、これがもっとも確率としては高いように思われたのだ。
ジュゼッカは腕を突き出した。それだけで、黒髪の魔導師の大腿部を貫けるはずだ。
「な、に……!!!」
ジュゼッカの剣は、空中で停止している。力は入れているのに、その先へ進まないのだ。細かな網目状の靄のようなものが、彼女の剣を受け止めている。
剣をはじき返されて体勢を崩されたところに、巨大な火球が放たれる。片手では間に合わない。剣を放って両腕で防いで、上空に逸らした。熱伝導が著しく、ジュゼッカは大急ぎで腕の装甲を取り外さねばならなかった。
黒髪の魔導師が展開したのは、魔力で編まれた防護壁であった。本来、魔法は現象を起こすものであって、物質に直接変換したりするのを不得手とする。だからこそ岩壁や水を発生させたりできる魔導師が重宝されて大魔導師などと呼ばれるのだが、黒髪の魔導師が発生させたのは、高密度の魔力そのものであった。
鉄は魔力をきわめて通しにくい。黒髪の魔導師はその特性を利用したのだ。高密度の魔力は鉄との反発を生み、侵入を阻止する。もちろん魔力を通しやすいものには効果は期待できず、これを自動防御システムとして、対剣士用にしていたのである。
ジュゼッカは慄然とした。魔導師が高位の魔法使いであることは疑いないが、実際目の当たりにすると、敵対することを後悔したくなる。だからこそ国は魔導師にある程度の権力を与え、一般人と身分を分けることで魔導師たちに騎士道精神ともいうべき、弱者を守るという観念を持つようにしているのだが、しかしジュゼッカが彼と相対しているのは、その特権意識が生んだものであろう。弱者を守る、ということは自分たちは強者ということで、なぜ弱者に媚びねばならないのか、弱者は強者に平伏するから弱者なのだ、という考えにいたったのだ。
一方で、黒髪の魔導師にもジュゼッカに対する称賛、というよりは恐怖心を抱いていた。鉄は魔力を通しにくい。が、まったく通らないというわけではない。ジュゼッカは魔力を自らの甲冑に通し、熱伝導率を低下させ、硬度、耐久性を上昇させていたのだ。物質が新たに作られたわけではなく、分子結合力を高めてその性能を変化させた、ということである。木や、衣類ならばともかく、鋼鉄にそれができる人間を、黒髪の魔導師は王族の親衛隊しか知らなかった。
しかしジュゼッカは魔法に関しては未熟で、これが普段成功した確率は五割にも満たない。生命の危機に瀕して、集中が極限にまで高まった結果であろう。一対一になったことも幸運だった。明人を守りながらでは注意が分散し、このような芸当は成功しなかったに違いない。そして二度続けて成功するとはどうしても思えなかった。
「ふ、ふふ、驚いたぞ。ますます欲しくなった」
そうとは露知らず、黒髪の魔導師はこれからどうするか、思案しなくてはならなかった。なにしろ、展開した防護壁は魔力そのものであるから、燃費が非常に悪く、カウンターで相手を一撃のもとに倒すためのものだ。そのカウンターが鎧に魔力を通す、という一流の業で防がれてしまった以上、それを圧倒するほどの威力か、もしくは数で押すしかない。
だがそれを支える魔力は、彼には残っていなかった。
「私はアルザハに帰る。どうだ、ついてこい」
声が上ずるのを制御するのに苦労する。
「……お断りします」
「だが君の力は惜しい。なんなら、騎士団に推薦することもできるぞ。私にはコネクションがある」
「お断りします、と申し上げたはずです」
「しかしわざわざこの森を通過するということは尋常ではあるまい」
「……」
沈黙はすなわち肯定であった。
「私が城へ届け出れば、どちらにせよ君たちの命運は尽きる」
「ならば、あなたを打ち倒すまでです」
ジュゼッカの瞳には断固たる決意と、決死の覚悟があった。
「その様子だと、もう魔力が残っていないようですね。あの障壁は魔力そのもの。著しく消耗するはず」
ぎくり、と黒髪の魔導師は肩をふるわせた。状況証拠として充分だった。魔力が残っているのなら引きこもうとするより殺してしまったほうがよいだろうし、万が一本当に引き込もうとしているのなら、今少し力の差を見せつける必要があろう。
「魔導師ならばかなりの確度で魔力源を追えるはずだ。言いなさい。金髪の魔導師がどこにいるのか。さもなくば、二度と首都を歩けないようにしてやる」
ジュゼッカにしてもあのような芸当が二度続けて成功するとは思えず、相手が見せた弱気を利用させてもらって、逆にはったりをかけたのである。ジュゼッカが一歩踏み出すと、魔導師は目に見えて狼狽し、観念した。
魔力障壁という意外な手で防がれたものの、彼女は最終的に賭けに勝ったのである。




