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異世界の夜-3-

 三度目の日の出だ。疾走して疲れ果てた馬を労う暇もなく、新しい精悍な駿馬へ乗り換えて、二人は街道をひたすら西へ走っている。当然ながら、街道は一直線というわけにはいかない。地形の関係上、曲がりくねっているわけだが、直進できるものなら時間は大幅に短縮できていたことだろう。

 集落は途中に二つあった。そのいずれにもフィルブランドとのかかわりが深い人間が少なからずいて、彼らは黙って力を貸してくれたのだ。食糧、水、替えの馬、一時の休憩所としてベッドを提供したり、甲斐甲斐しいというべきだった。ジュゼッカ曰く、


「ツキミさまの御威光は遠く離れていても素晴らしいのだ」


 ということだが、どこか狂信者めいた感覚が、明人には不気味ではあった。

 明人を辟易させるものは、なにも馬の躍動ばかりではない。食糧にしても、パンとそれのお供に、保存がきくように用意された干し肉、つまりジャーキーやベーコンであり、腹を満たすよりもカロリーの摂取自体を目的としている。そもそも満腹状態で馬に乗れば確実に酔うものだし、追われる身としては相応の食事といえるだろう。そしてなにより明人を閉口させたのは、排便であった。

 明人の感覚でいえば、水洗の公衆便所があって当然で、コンビニエンスストアなどでも便所は借りることができた。しかしこの世界ではそうはいかないのだ。

 街道は一応、整備されていて、ならされているが、だからといって設備までがそうであるとは限らない。首都まで行けば下水道が整備されていて便所には困らないが、それ以外の場所、この街道においては違う。屋外で排泄するしかないのだ。だから用を足すときには穴を掘ってそこに排便するか、川に流すかする。


「きちんと埋めてください。肉食の動物が寄ってきますから」


 などと年頃の女性に言われたときには、赤面するしかなかった。ジュゼッカとしては、至極当然のことで、その臭いを嗅ぎつけて野生動物たちが獲物を求めてやってくるのである。確かにはばかるようなことではあるが、それを口にしたところでなんら、恥ずべきことではなかった。そもそもジュゼッカらがいた集落にも下水道などはなく、便所はほとんどが汲み取り式か、さもなくば排便用の木の桶に直接入れて、始末していたのだから。


 ところで、肉食の動物が寄ってくるという話だったが、どうも明人が想像しているものとは違うらしい。それは「目と呼べるものが二つだけではなく、魔力を持つもの」。魔獣とか幻獣とかいうそれは、魔法を行使して人間を狩るものだというのだ。虎や狼、ハイエナのようなものを想像していた明人に、この世界はやはり自分のいた世界とはまったく違うのだということを再認識させた。時代や生活ばかりではなく環境、生態系、文化、そのものが異なっているこの世界に、なにを間違ってしまったか迷い込んだ。もし全知全能の超越神がいたとして、この異世界にもその全知全能が及ぶのだろうか。及ぶのだとすれば可及的速やかに間違いを正して、月見明人という異分子を元の世界に戻し、反対に及ばないのだとすれば全知全能の看板を下ろしてもらうほかない。もっとも、全知全能ならばそもそも間違いなど犯さないのだが、ならばこの世界に来なければならなかった理由でもあるというのか。


 アルザハの目と鼻の先、というところまで来て、ジュゼッカは休憩を提案した。街道に沿って向かっているものの、いまだ追手は街道を封鎖している様子はない。ここまで来れば追手の危険はひとまずはないものと言えるはずであった。

 アルザハの東側には深い森があって、街道はこれを迂回するようにできているが、万全を期してジュゼッカはこの森を通過することを選択した。首都アルザハは周囲を高さ七メートルほどの石壁が守っていて、東西南北四ヶ所に門がある。当然、この森を抜けると東門に出るわけだが、この門は暗黙の諒解的に警備が薄い。なにしろ二人が抜けようとしている森は日が昇っていても薄暗く、常に湿気を帯びている。一説には、ぬしとなる魔獣がこの森を管理しているということだが、詳細はアルザラッハの王室ですら不明である、としている。調査隊がこれまでに幾度も森に入っているが、そのいずれもが、多大な犠牲を強いられていた。

 そんな森は、アルザハからは難所であるが、街道からは問題なく通過できる。この森はアルザラッハ王室が、民衆がアルザハから出るのを阻止しているのだ、などという怪談めいた話まで作られるほどだが、表面に表れている事実を考えれば無理からぬことであった。先の調査隊の例もあって、森を通過するというのをアルザラッハの国民は忌避しているので、警備が自然と薄くなっていったというわけだ。

 もちろん、それを読んで、警備隊は東門に包囲網を布いているかもしれないが、それならばそれで森まで後退してしびれを切らして追ってきたところをすり抜けることも、森から正門にまで迂回することもできよう。いずれにしても、正面から堂々と行って開けた場所で包囲されるよりはよっぽど活路が見出せるというものだ。


「アーキット殿の衣服は、いったいなにでできているのですか?」

「なにって、ナイロンだけど」

「ナイロン?なにか特別な繊維なのですか」


 街道から森に入って少し歩いたところに、湧水がある。適当な倒木に各々腰かけて、ジュゼッカが以前から抱いていた興味を明人に投げかけている。

 この世界にはナイロンなどというものは存在しないのだ。衣服は麻や絹、木綿でできたものであるはずで、合成繊維などが登場するのはまだまだ先のことだろう。ジュゼッカはそれをとても高位の、貴族と同等の召し物であるとでも思っているようである。ズボンやスニーカーにしてみても、形態がまったく違うものであれば、仕方のないことではある。


「アーキット殿はやはり、ツキミさまからの信頼厚いようですな。失礼な言いようですが、その御歳で、それほどの召し物を着用なさるとは」

「ええと……」


 いつもながら、説明のしようがない。


「ツキミさまとのご関係をお聞きしても?」


 きた、と思った。いずれ詳しく聞かれることだろうとは思っていたが、しかしいざ答えようと思ってもこれも説明のしようがないのだ。

 明人は、集落を脱して以来、自分の素性を明かすことにためらいを覚えていた。ジュゼッカは明人がツキミとやらと関係が深いと思って牢獄から助け出してくれたのであり、アルマリーはその明人をツキミのもとへ帰すために代わりに囚われの身となった。ことここに至って、自分はツキミとはなんの関係もない赤の他人で、ついでに言うとこの世界の人間ではありませんなどとどうして言えるだろうか。あなたたちの献身はありがたいが、まったくの無駄だった、と突き放すことになりはしないか。

 少年が良心の呵責に耐えかねているとは、ジュゼッカの察するところではない。彼女は純粋にツキミを敬愛し、その身辺にいるであろう少年に興味があるのだ。


「が、学生なんだ」


 しどろもどろになりながら、ようやく口を開く。


「学生?学問を修めているのですか。先ほどのナイ……ロン?というのもそれで?」

「そ、そう!詳しくは話せないけど、そういう珍しいものを勉強してるんだ。ツキミさまにはそれで目をかけてもらってる」


 よくもまぁこれほど口が回るものだ、と我ながら思わないではない。しかしまったくの嘘というわけではないのだ。学生という点だけは。


「なるほど、王国を担う学者候補というわけですな。私は学問のほうはからっきしで……」

「(俺もだよ)」

「お若いのに立派でいらっしゃいます。ツキミさまが見出したのであれば、さぞ有望なのでしょう」

「そ、そういえばジュゼッカはいくつなんだ?俺は一六なんだけど」


 強引な方向転換ではあったが、ジュゼッカは生真面目に答えた。


「二三になります」

「え」


 年上とは思っていたが、まさか七つも離れているとは思っていなかった。西洋人は大人びて見えるもので、せいぜい一八、九だろうと思っていた。若いことには違いないが、確かに立ち居振る舞い、言動などは年齢相応かもしれなかった。美しい黄金の髪はよく手入れされていて、緑色の眼に自分が映っているかと思うと、心臓の鼓動が幾分か早くなる。白皙の美貌と透き通る水晶を思わせる声がまことに麗しい彼女が大人の女性と認識されると、それだけで印象が何パーセントか上がったようである。


「そ、そうですか、ジュゼッカさん」


 急に丁寧な表現になった明人がおかしくて、ジュゼッカは気持ちのいい笑声を立てた。それは淑やかさよりは闊達さに天秤が傾いているようであった。


「どうぞジュゼッカと呼び捨てください。遠慮は無用です」

「それならジュゼッカ。ジュゼッカも俺に対して敬語はいらないよ」

「いえ、ツキミさまの御側にある方ならば当然のことです」


 眉が若干吊りあがり、表情を引き締めた。どうも、生来の気質として生真面目すぎるようである。


「ではそろそろ先へ進みましょう。おそらく日没までには首都に入れるでしょう」



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