まずは立ち上がって-2-
明人の魔力酔いは、その日のうちに、熱も、気だるさも、嘔吐感もなくなり、ほぼ全快していた。夕食の時間になって食堂に招かれた明人は、鶏肉のソテーと豆スープとパンを前にしている。
上座にツキミが座り、向かって右手側に明人、その正面にバロル、隣に侍女二人、そして明人の隣にスターシャ、その他二人の使用人が座っている。本来、執事や使用人たちが主人と食事を共にすることなどは絶対にありえないが、八歳の頃から両親と妹を失ったツキミにとって、家族とは彼らだけであったから、食事のときと午後のティータイムのときだけは必ず全員でするようにしているのだ。
「それではいただきましょう」
アルザラッハでは主神はエレスであるが、天地創造の神というわけではない。自然崇拝と一神教が合体したようなもので、我々の世界のように別段、今日食事ができることへの感謝をすることはない。ただ、全員で「いただきます」と唱和することは共通している。
食事の際、会話することはマナーとして奨励されている。貴族の食卓、または会食などで無口でいることは失礼にあたるのである。この屋敷では使用人たちも主人と食事を共にしているために、実に忌憚のない会話がされることがしばしばある。
明人はスープを一口すすった。調味料などはほとんど使われておらず、わずかに塩味がしているか、というところだ。
「お気に召しませんか」
隣からナイフとフォークを扱う手を緩めずに問うたのはスターシャである。まずそうな表情をしていたのだろうか。
「いや、そんなことは……」
「おいしくもないと?」
「お、おいしいですよ」
「スターシャ」
諌めたのはまたしてもバロルである。彼も明人には決して好意的ではないが、さすがにツキミの手前、言いがかりとも取れる言動を許すわけにはいかない。
正直なところ、まずいともうまくないとも思わないが、ずいぶんと質素なのだなとの感想を抱いたのは事実である。それもそのはずで、いかに王族であるとはいえ、それは過去のことなのだ。辺境にこそいないが、流刑になっているのも同義であり、身分としては罪人なのである。それがこの邸宅を与えられて人並みの食事ができるだけでも厚遇されているといえる。アルザラッハ王ルドウィンの親心であろうか、それとも彼自身が一〇年前の事件に抱いている不審の表れであるかは定かではない。
もっとも、罪人でありながら元を正せば王族、という配慮が事態をややこしくしているのも事実である。
材料の困窮も原因である。食材や生活必需品は週に一度、王室衛理庁から送られてくる。しかしながら、魔力を断つという結界の性質上、野菜や果物に残留している魔力に反応してしまうために、ある程度傷んでしまうのである。この時代、基本的に地産地消であるうえに冷蔵施設が非常に高価なために、燻製にでもしない限りは一週間と保たない。
必要最低限ではあるが、衛理庁のなかにはツキミに同情的な人間が多く、よく都合してくれているといってよい。加えて、野菜の種をもらって使用人たちが育てているから、ある程度の備蓄は存在する。それも多くはないが、明人一人を賄えるほどはある。
これからどの程度の期間、明人が留まるのかはわからないが、長くなればなるほど、食糧事情は難しくなってくるだろう。
スターシャの言動は、明人に自分が招かれざる客であることを自覚させた。まったく、どこに行っても闖入者であって、一所に留まることができないのだ。やはり帰るべき場所は自分の世界であり、故郷であり、家なのだ。
「遠慮しないでね明人。たくさん食べてちょうだい。あ、でもいきなりたくさん食べてしまうとまた熱が出てしまうかしら」
バロルとスターシャは顔を見合わせた。口に手を当てて愉快そうに笑っているツキミは、ここ数年来見たことのないものだった。それは大変喜ばしいことであるものの、奇妙な感覚を湧きあがらせる。なにか、浮ついているというか、はしゃいでいるような印象だ。
この一〇年間、来客など皆無であったから、それで嬉しくなったというのはわかるが、やはりあの黒髪の少年を信じることはまだできないでいる。ツキミの話では魔法無効化を持つというが、それもどうであろう。結界を解除する魔法など世界にはいくらでもあるし、伝説や神話を除けば、過去にたった一例しかない魔法無効化を持つ少年など、信じるほうがどうかしている。
「(やっぱり、早く帰らなければ)」
明人は改めて、強くそう思った。ここには居場所はないのだ。居てくれていいと言ってくれる人はいるが、そうでない人のほうが圧倒的に多いし、またそのほうが正当な主張であろう。
食後、明人の寝泊まりする部屋について、ツキミは自分の隣の部屋にすることを希望したが、これはバロルやスターシャ、そのほか使用人と明人自身の全員の反対にあった。さすがに気を許しすぎて無防備というものであろう。ツキミは口を尖らせたものだが、彼女の使用人たちの心臓には悪い。若い、どこの馬の骨とも知れぬ男と物理的に距離が近いなど、あってはならぬことだ。できうるならば、明人をどこかに監禁しておきたいくらいなのに。
ならば、ということで、明人には話し相手として就寝まで付き合ってもらうことにした。ツキミの自室、ティータイム用のテーブルとソファに座って、しかし明人の背後にはスターシャがいる。なにか不穏な動きを見せれば即座に排除するつもりだろう。ただ、魔法は効かないために、どのような手段に出るか、明人には少しだけ興味があった。
「さっきも、二人っきりでいたことを怒られてしまったわ」
「当たり前です。若い男女が二人きりなんて……」
「明人はそんな無粋な真似はしないわ。ねぇ、明人」
「え?と、当然ですね」
特別、そのような邪な感情を抱いてはいないが、ツキミはまず間違いなく美人であるから、見惚れることはあるだろうな、とは思う。背後でスターシャが冷たい視線を送っていたが、それに明人が気づくことはない。
ツキミは明人の世界の話を聞きたがった。彼女は一〇年もの間この屋敷のなかだけで生活し、娯楽や情報に飢えていたのだ。屋敷のなかにも書物はあるが、それもほとんど読み尽くしてしまっている。時折、送られてくる食材に本が紛れているものの、頻度はそれほどでもないから、暇を持て余しているのだ。
花壇だけでなく、菜園にも手を入れて、午前中は畑仕事、午後は屋敷の内外の散策と読書にふける毎日だ。
ただ、散策はこの一〇年間でやり尽くしてしまった感がある。ごく稀に、閉鎖された部屋が老朽化のため鍵が開いていたり、使用人たちがなんらかの用事で開けたまま施錠していなかったりして、新たな発見をすることはあるが。
「明人はどういう生活をしていたのでしょう」
「どうって……えぇと、高校生で、学校に行ってました」
「学問に励んでいたのですね。なにを学んでいたのですか?」
「数学とか国語とか……」
「国語、とはあなたの国の言葉ですね?明人、という名前も、私達にはあまり馴染みがありません」
完全に外国人との会話だな、と思った。
明人の生まれた国である日本の歴史、文化について、ツキミはたいそう興味を注いでいるようである。とりわけ、江戸時代末期、幕末と呼ばれる時代のことには目を輝かせている。
「では、その蒸気とやらで動く船で、侵略してきたのですか」
「そうです。日本近海は鯨がよく捕れたから、というのが大きな理由だとかなんとか」
「鯨?鯨とはあの大きな魚ですか?船よりも大きく、はるか彼方まで泳ぐという……本で読んだことがあります」
「正確には魚じゃないんですけど……まぁ、大きな魚です」
あれを食べるということは伏せておいたほうがよいか、などと考えたのは、気にしすぎであろうか。
感心したようにうんうんと頷いているツキミに相槌を打ったのはスターシャである。
「船よりも大きいとは……魔獣ではないのですか?」
「どうやら海には、私たちの想像をはるかに越えたものが棲んでいるようですよ。なんでも、八本足の生き物がいるとか」
「蛸ですか?」
「おお、そのような名前でした。見たことが?」
「まぁ、よく食べますから」
「食べる!?食べられるものなのですか」
そういえば、イギリスでは蛸は食べないということを聞いたことがある。この世界、少なくともアルザラッハでもそういう文化はないのであろう。
食文化についていえば、このアルザラッハには稲作がない。もっぱら小麦であり、パンと肉が主食である。稲作が盛んなのはセレネとヴォル・サルであり、その他の国に輸出して外貨を得ているのである。
アルザラッハの特産品は手工芸と馬、賢者の石の元となる鉱石「レビズリー」である。特に馬は、いわゆる競馬が盛んであり、競走馬の他にも騎馬や戦車として取引がされている。そういう意味では軍需産業で財をなしている人間は多いといってもよいかもしれない。
「明人の世界では、戦争はないのですか」
「ありますよ。世界中が戦争をしていたのはとっくの昔ですけど」
「武器はなにを使っているのでしょう」
「銃とかミサイルとか……ですかね」
ツキミは驚いたような表情を見せた。
「ミサイル……とは?」
「せ、説明が難しいな。自動で飛んで行く爆弾、って感じかな」
「爆弾が自ら飛んでいくのですか」
東ローマ帝国、または中世ヨーロッパにおいても、いわゆる手榴弾として、戦争には爆弾が使われてきた。この世界にも手榴弾は存在していて、比較的新しい兵器である。
だだ、我々の世界でいう爆弾は火薬を用いるのに対し、こちらの世界では魔法を内蔵させておくものだ。四〇〇年前に魔導器がもたらされて以来、ひとつの魔法を筒や入れ物に入れておくという技術は発展してきた。
ジュゼッカの家や、ここ、ツキミの部屋にあるシャンデリアなどの照明器具も、広義には魔導器である。賢者の石は元々、魔力を蓄えておき、様々な種類の魔法を「覚えておく」ことができるものだ。それによって魔導師たちは補助に使ったり、緊急用に使用したり、子孫あるいは弟子に伝えたりするのだが、いわゆる賢者の石に精製できない不要な部分はたったひとつのことしか覚えていられない。そこで「発光」という魔法を覚えさせて、魔力を送り込むと照明として機能するようになる。
ただ光を発するだけ、という魔法は単純なように見えて、術者はそう多くはなく、照明用の魔法を覚えさせる魔法使いというものは職業として成り立っている。
「……あの子の話とはまた違う。ずいぶんと進化しているようだわ」
ツキミは呟いたが、明人にはその呟きの真意はわからなかった。
ツキミの背後にある窓からは、緑色の風景が見て取れる。日が高く、明るい時刻に比べて少しだけ色彩を暗くしている結界は、ツキミやこの屋敷に住む使用人たちが見る風景を限定的にしてしまっている。色は薄緑色で、太陽や星を遮り、あたかも遮光布のような役割を担っている。
星々は持ち前の光彩を黒髪の女性に注がない。すべて結界を介して、二等星から一等星のみがその存在を主張している。星の数は、あのころに比べてずいぶんと減ってしまったようなのだ。
「星座はほとんどが消えてしまいました。明人の国では星はよく見えますか」
「はい。都会はそうでもないらしいんですけど、俺の故郷はよく見えますよ。夏になると天の川がいっぱいに広がります」
「ここは星がきれいだね」と空を見上げながら言う少女が思い出される。都会はネオンや街灯が邪魔をして、星が少ないらしい。
黄色の浴衣を着て、長い髪を上げている少女。手にしたりんご飴で指しながら、大輪の花を咲かせる星空に歓声をあげる。
そういえば、と明人はツキミを見つめた。転校生の少女に似て、黒髪の女性にはなんとなく「気安さ」があるのだ。佇まいは間違いなく淑やかで気高く、王族であるといわれれば道理で、と納得する。だが、どこか手を引いてあちこち連れて回りたい気分になるのは、彼女の魅力というものだろうか。
「アルザラッハでも見られると思いますよ。エレスが渡る天へと至る川……そのひとつひとつが彼の力の源となっているそうです」
「そういう言い伝えがあるんですか」
「はい。明人の国では?」
天の川の伝説はおおまかに二つある。アジアでよく知られる、織姫と彦星の伝説と、ギリシャ神話から発生したミルキーウェイだ。
明人は日本人なので、いわゆる七夕の話に馴染みがあるから、ツキミにもその話をした。明人の故郷では神事として、二〇歳以下の男女が何組か選ばれて女性は織姫にちなんで織物を、男性は彦星にちなんで木彫りの牛を神社に奉納する。これは商売繁盛と夫婦円満を祈願しているとされる。
「一年に一度、ですか。素敵ですね」
「それぞれの星は一四光年離れているそうです。光の速さで一四年かけて会ってるんですね」
などと、明人は軽口をたたいたものだが、ツキミの頭には疑問符が浮かび上がっている。
「光年とは?」
「ああ、一年の間に光がどこまで飛んでいくかの距離です」
「そんなことまでわかるのですか」
「ええ。詳しくはわからないけど……」
「素晴らしい。天文に通じていらっしゃる?」
「いや、常識というか雑学というか……」
「あなたの世界では当たり前のことなのですね?」
「はい」
ツキミは形のいい顎をつまんで唸った。
この時代、この世界においても席巻している学説は「天動説」であり、彼らの立つ大地を中心として天球を恒星や惑星が移動しているという考えが一般的である。今日、我々の世界においても、一六世紀にコペルニクスが提唱し、一七世紀にガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンらが地動説を補足、説明するまでは全世界規模での支持を得ていたのだ。
宗教上の理由も存在する。我々が住む世界はすべて神が創造し、運営しているもので、その神々が大地を支え、天空を支配しているという考えだ。神の力を科学的に検証、説明することは絶対の禁忌であったから、科学者たちは教会や神職者によってさまざまに弾圧されてきた。
「光の速さとは、考えもつきませんでした」
「俺たちが見ている星の光は、ずいぶん前の姿っていうのが通説ですね。とてつもない距離が離れているので、光が届くまでにも時間がかかる」
「なんと。スターシャ、聞きましたか」
ツキミは嬉々として同意を求めたが、従者のほうは複雑な表情をしていた。今一つ、理解しきれていないのかもしれない。明人に対して疑念が強いということもある。
「アキトさんは博学でいらっしゃるんですね」
スターシャは笑って答えたが、明人には明らかに皮肉であることがわかる。こういった知識も、ツキミに取り入るために必要な方便であると思っているに違いない。
明人は肩をすくめてスターシャを見やった。年の頃はジュゼッカと同じくらいだろうか。美貌は比べるべくもないが、いささか丸みを帯びた顔は親しみやすさを覚えるものだというのに発する言葉のなんと刺々しいことか。それほど敵視しなくてもよいではないか。
「なにか?」
「いえ」
「さあ、ツキミ様。夜も更けてまいりましたよ。今日はこれくらいにしてお休みください」
「まだよいではないですか」
「いけません。今日こそごゆっくりお休みください」
口を尖らせながら、ツキミは従者の諫言に従い、翌日の語らいを明人に約束させて二人を見送った。
明人にあてがわれた部屋は客間である。一二畳もの広さにベッドとチェスト、シャンデリアにティーテーブルとソファがある。明人にとってはホテルのスイートルームのような印象だが、この屋敷では同様の造りの部屋がいくつもある。
ここも閉鎖されていたのだが、明人が逗留することになって急遽大掃除がされたのだった。見たところ、長い間使われた形跡がないなどとは思われない。細かい点はあるのだろうが、使用人たちの優秀さが表れているのであろう。
「そこに着替えがあります。起床時には呼びに参りますので、どうぞごゆるりとおくつろぎください」
きわめて事務的に説明しながら、スターシャは一礼した。彼女にしてみれば明人を歓迎する理由はなにひとつないわけで、主人に対する義務以上の何物でもないといわんばかりである。
小さな感嘆の息を漏らしていた明人は、退室しようとするスターシャに声をかけた。気になっていたことがあるのだ。
「あのさ、もしかしてツキミ様は眠れていないのか」
その問いは、さっさと退散しようとするスターシャの足を止めるには充分であった。
「なぜです」
先ほど、ツキミの部屋を出る前に語らいを打ち切ったとき、スターシャは「今日こそごゆっくりとお休みください」と言った。そこから考えれば、自ずから明らかであろう。その理由を知りたがったのは、ある懸念があったからだ。
「耳ざといのですね。お仕事、ご苦労様です」
「そういうわけじゃないよ」
皮肉を言われても、不愉快と思わないほど、明人は真剣だった。それを感じ取ったのか、スターシャは少し考えて、
「ツキミ様をそっとしておいてあげてくださいませんか」
懇願に近い表情で言った。
「あなたが本当はどこの何者かは知りません。でも、だからこそ、無神経に立ち入ってほしくないのです」
彼女たちからすれば、自分たちを閉じ込める結界をすり抜けて入ってきた明人は、まさに青天の霹靂というべき存在である。
魔法無効化を持つというが、結界を完全に解除することができない以上、ツキミをここから連れ出すことは不可能なのだし、連れ出したところであてがあるのか。
実はスターシャ自身、ストーチカあたりに亡命するのも手ではないかと考えたこともある。アルザラッハにいる限り、このように鬱屈し、軽蔑されて閉鎖された生活を一生涯約束されているならば、どこか遠くの国に行ったほうがよいのではないか。たとえ間者と手を組み、国を売り渡してでも……。
だが、それはツキミの本意ではない。そうするつもりなら、一〇年前にいくらでも機会はあったし、実際に進言されてもいる。それをはねのけて、ツキミは籠のなかの鳥となることを選んだのだ。決して羽ばたくことのない鳥、大空を舞おうとした記憶だけがある、飛び方を忘れてしまった鳥なのだ。籠のなかからの風景は、彼女自身が大きくなっても変わることはない。変わらず、狭くるしい展望だ。
ツキミは少年を慰みとしているのではないか。どういうわけか入ってきた少年は、珍しいこと、興味深いこと、我々の知らないことを知っている。それに思いを馳せるのはよいとしても、度を過ぎれば現実逃避となる恐れがある。逃避した先に、失望の崖が待ち構えていることを知っているであろうに。
「無神経なつもりは……」
「ツキミ様に妙なことを吹き込むのだけはやめてください。あのお方は平穏に暮らしておいでです。たとえ強制されていたとしても」
一礼して退室していくスターシャを、明人は無言で見送った。かけるべき言葉のなにも、彼は持ち合わせていなかった。この一礼だけは、不審や嫌悪、あるいは空虚とは違って、別の様々な感情がない交ぜになっていたのだった。
なるほど、確かに考えようによっては平穏だ。これ以上の政治闘争に巻き込まれず、犯罪や戦禍で死にゆく人々を見ず、最低限人としての生活は約束されている。
ただ、これは思考停止と非常によく似ている。目を瞑り、口を噤み、耳を塞いでいるのも同義であり、コールブランドやフィルブランドにとっては、これこそが現実逃避ではないかと罵りたくもなるだろう。
そしてその煩悶、懊悩こそが、ツキミが眠れていない原因ではないか。現状に対する諦観と責任が、彼女を平穏と不穏の狭間に幽閉しているのだ。どちらかに天秤が傾けば、彼女は意を決するかもしれない。
それができるのか?
明人はベッドに寝転がった。頭部方向にある窓から注がれる月明かりは、彼を照らし出して、その光は彼の世界とは色調を異にしている。結界によって隔絶された、この世界そのものがツキミという女性の居場所であるならば、自分がそれを破り、自由にすることが正しいのか。この際、方法は考えなくともよい。様々な理由から世捨て人となった彼女を、またしがらみに誘うのをよしとするのか、正邪善悪の問題だ。
考えているうちに、明人のまぶたは自然と閉じてゆき、やがて眠りの園へと入り込んでいった。
「ツキミ様。まだ起きていらっしゃいましたか」
部屋から漏れる光を見出して、スターシャが主人の部屋の戸を叩いたのは、明人が眠りの園の扉を開けたのとほぼ同時である。
まだ起きていたのか、という問いは、半ば慣用句になっている。それは状況をそのまま口にしているだけだが、スターシャにとっては日常的な大問題なのだ。黒髪の女性はベッドに身を起こしつつ、手元に視線を落としている。
「不思議なのです」
「はい?」
「明人という少年」
それはそうだ、と思ったが、スターシャはなにも言わない。
「彼が寝込んでいたとき、私は眠ったのです」
「え!?」
「椅子に腰かけて。彼を看病しながら、微睡んでいたのです。そして夢を見ました」
スターシャは生唾を飲んで問うた。「どんな夢です?」
「見たこともない風景。アルザラッハではありません。水田、というものでしょう。ですがどこか郷愁を感じさせるもの……そして明人が笑いかけてくれる」
「……」
「あれは彼の故郷?抜けるような空と、迫りくる雲、青々とした山……彼はどうしていますか」
「もうお休みになられているかと」
「そう。明日も……珍しい話が聞けるかしら」
「……そうですね。そのためにもツキミ様、無理にでも眠らなければ」
主人の部屋を辞して、スターシャは唇を噛んだ。そして思った。
おかしな話だ。私は彼に嫉妬しているのか。
一〇年間、ただの一度も年少の主人を寝かしつけることができなかった女性は、突然膨れ上がる胸のつかえから解放されようと息をついた。




