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魔法無効化(マジックキャンセル)-1-

 フィリーアの両親は、ジュゼッカやアルマリーというよりはコールブランド家に縁がある。コールブランドの先代の当主がセルニス夫妻の後見人でもあったのである。貴族でもないセルニスが大貴族の支援を受けていたことについては、フィリーアは聞かされていないが、コールブランドとツキミを凋落から再び勃興させられるかもしれないという淡い期待は抱いている。


 セルニス夫妻はジュゼッカのことをよく知り、ジュゼッカもまた夫妻のことを信頼している。コールブランドの親戚にあたるフィルブランド、その当主たるアルマリーがコールブランドの私兵として近辺警護にあたっていた際にセルニス夫妻のことも請け負っていたのだ。


 フィリーアは一八歳、鮮やかな赤毛が印象的な年頃の女の子である。五歳年長のジュゼッカは、よく幼いフィリーアを川へ連れて泳ぎを教えたものだし、フィリーアはコールブランドの牧場に忍びこんで馬を巧みに操るジュゼッカを慕った。一〇年前に訪れた破局がなければ、ジュゼッカは女だてらに騎士でもやっていたかもしれないし、フィリーアははすっぱさをたしなめられながら淑女になっていたかもしれない。フィリーアなどはまるで気にしないが、セルニス夫妻やアルマリー・フィルブランドなどはそれが痛恨事であったのだ。


「アーキット殿、すぐに向かわれますか」


 ジュゼッカが訊いてきたのは、一階の酒場が営業を停止してからフィリーアを含めたセルニス家の夫婦を交えて、今後の方策を伝えたあとである。すでに深夜を通り越して朝日が昇らんとしていた。


「ああ、そのつもりだけど、なにか都合が悪いかい?」


 実を言えば都合が悪いどころではないが、明人はそう訊ねざるをえない。

 ジュゼッカはくすくすと笑いながら答えた。


「その……水浴びをしたほうがよいかと」


 一瞬、ジュゼッカの言葉の意味を図りかねたが、すぐに諒解して赤面した。つまり、臭う、というのである。この世界にやってきて、確かに彼の嗅覚というものは麻痺しているように思えた。脱獄という衝撃的な事件から三日三晩寝ずに走り、そしてさらに三日間昏睡していたのだから、それも仕方ないのかもしれない。


 ただ、明人は異臭がするという感覚がない。それは自分の臭いだから気づかないのだ、というレベルのものではなく、意外に人々が清潔であるということだ。水浴びをしたり、入浴するという文化が根付いているのだろう。トイレの問題だけは明人も鼻をつままざるをえないが。


 ジュゼッカに指摘されて、明人も背中が痒くなってきたものである。一週間近く風呂に入っていないわけで、元の世界ならば考えられないことだ。


 風呂の起源は紀元前四〇〇〇年に遡ると言われる。ローマ帝国の時代には公衆浴場が造られ、日常的な娯楽の一つとしても親しまれていた。だが、その風呂の文化がキリスト教の普及によって裸をさらすことを禁忌とされたために廃れてしまう。この世界においては、無論キリスト教など存在せず、独自の宗教観があって、入浴して汗や垢を洗い流すことを奨励している。


 ファロンの裏口に井戸があって、そこにシャワールームのように木の板を長方形に建てつけて水浴びをするスペースを設けている。このスペースは井戸のある家庭に設けられていて、小さな公衆浴場の役割を果たしている。だから、近隣の住人が借りたりもするのだ。


 水をいっぱいに入れた木桶と、体を洗うための布、着替えを持って洗浄スペースに入る。明人は一般的なシャワールームのようだ、と驚いた。ただ、蛇口やシャワーがないだけで、排水溝と思しき拳大の穴が床に開いている。外には水を汲んだりするためにジュゼッカが控えていて落ち着かない気分になったのだが、それもここでは普通のことだ。


「(みんなどうしているかな)」


 スペースから空を見上げると、夜の帳がその色調を弱めて青へと変化させている。そのなかに浮かぶ星々を見ながら、明人はが元の世界へと思いを馳せるのはしかたのないことだろう。この世界の星座に心当たりのあるものはなに一つないし、文化や景色も違う。それが、ひいては精神的な負担になっていることは否めないであろう。


 そういえば、と明人は思い出した。なぜあんな夢を見たのか。彼の主観時間では二週間前のことを夢に見たのは、そもそも寝ていないのだから、と片付けることはできまい。郷愁が、彼の心の奥底で湧きあがっていたとしても不思議はないが、それも現段階では無意味なことだ。誰に話してわかってもらえるわけではないし、これからツキミとやらに会うという重大事があるのだ。


 大罪人、魔女と呼ばれるツキミ。いくつかの理由から出会わなければならない人物であり、明人自身が興味をひかれている。出会うことができたら、アルマリーのことを話して力になってもらい、ジュゼッカの身の安全を確保してもらう。そして……自分は?


 ツキミと会うことができれば、ツキミを支持しているというフィルブランドを無碍にはすまい。だがそのとき、ツキミと面識のないことが明るみにでたとき、果たして自分の身は安全たりえるだろうか。


 このとき明人は、自分が窮地に立たされていることを再確認した。仕方ないといえば仕方なく、状況に流され、偏見と誤解とに装飾された、つきたくもない嘘をついてやってきた。その嘘が露呈したとき、果たして周囲の人間はどう思うのだろうか。


 明人は状況に流されつつやってきた。これからもそうなのだろう。だから、セルニス一家に見送られながらファロンを発し、気持ち程度に人目をはばかりながら、北東方面へ向かっている。もちろん先導はジュゼッカだ。


 区画整理されている町並みは、明人が思い描くヨーロッパの風景そのものだった。ファロン周辺は土で固められていたが、ところどころに石畳があり、中央部から西部、南部にかけては完全に舗装された道が続いているのだ。これは西部が貴族たちの邸宅が集まる貴族街であることに起因する。西は海が広がっていて、つまり外国との接触が多いというわけである。戦争になって攻められるとすれば港と、南部の平野になる。いわゆる「貴族の義務」というもので、一般市民を守るのは高貴なる者の義務であるということだ。外敵に身をさらして民の盾となることを責任としている。


 ただ、それが建前となっている点は否めない。貴族たちは比較的安全な北部や東部にシェルターともいうべき避難場所を設けていて、戦時にはそこに潜む者も多い。これは、近年、戦争状態に陥っていないことも要因であろう。


 今回の場合、その貴族街には用がなく、ましてやフィルプス城には近づく意味すらないので、貴族たち、あるいは魔導師たちには遭遇しないものと思われた。


「へえ、これが王都か」


 感嘆の声を漏らした明人に、ジュゼッカは首をかしげた。


「王都を歩いたことがないのですか?」


 迂闊さに声をあげかけたが、なんとか踏みとどまって、


「そ、そうなんだ。勉強ばかりしていたからね。だからツキミ様の屋敷まで、先導頼むよ」


 と、またしても苦しい取り繕いをせねばならなかった。ジュゼッカなどは「承知しました」などと慇懃に頭を下げるが、生真面目で誠実で人を疑うことを知らないであろう彼女でなければとうの昔に不審を抱かれていたであろう。


 まったく、ツイているといわざるをえない。この世界に飛ばされてから、苦し紛れの誤魔化しや言い訳、お為ごかしに満ち溢れている。道徳業者にしてみれば懺悔を熱心に勧められるであろう。月見明人はこの世界において、ツキミの側近であり、フィルブランドを大いに動かすであろう大層な人物なのだ。その鍍金が剥がれずにすんでいるのは、ジュゼッカの人の良さ、あるいは勘の悪さなのだ。


「ツキミ」という単語が一致した偶然も手伝って、もしそうでなければいかにジュゼッカといえども、奇妙珍奇な格好をした少年を助けようなどと思うまい。


 万事、慎重にいかなければならないのだ。決して、この鍍金を剥がしてはならない。 鍍金の下から覗く――明人には常に見えている――うすらぼんやりとした「ただの人」という下地を露わにしてはいけない。そしてこの世界において、この「ただの人」はあらゆる面で一般人に劣るのである。


 アルザラッハ王国、王都アルザハは東西南北と中央部に大まかに分けられる。


 南部から中央部は市場や娯楽施設などが集まる盛り場だ。国税局、司法局、総務局、憲兵、自治警察、精霊協会などの役所もここにある。もっとも、国税、司法、総務の本部は北部のフィルプス城にあり、中央部には窓口があるだけである。


 西から北にかけては貴族たちの住む貴族街がある。さらに西に行くと海が広がり、港があって王都防衛のための要塞、アールマティンがある。海からの外敵の侵入を防ぐために要塞と貴族を西に配置しているのだ。要塞はこのほかにアルザラッハ大陸南部にアールメディア、西部にアールデリンが存在する。


 反対に東から北にかけては平民たちが住み、居酒屋や大工などの個人商店が立ち並ぶいわゆる平民街、これはいかに王都アルザハであっても、そこらの村よりは暮らしぶりがよいという程度にとどまる。


 そして明人とジュゼッカは、北東部にある庭園を目指して平民街を歩いている。中世ヨーロッパ然とした街並みは、外国を訪れたことのない明人にとって目新しいものだった。石造りの家々、コンクリートではなく自然の石を組み合わせた地面、刀剣類を扱う商店に荷運び用の馬車が行き交い、人々の髪や目の色は金色に赤色に緑色に、様々だ。


 彼が最初に捕まった村でも基本的な暮らしは変わらないのだが、やはり状況や心境の変化によって、未だ問題は山積みとはいえ、多少の観光気分が生まれたのは仕方のないことだろう。


 学生服に外套を羽織っている明人は、ポケットをまさぐって、あるはずのものを手にしようとした。が、ポケットにはない。


「(しまった、鞄のなかか?)」


 明人は、隙があれば携帯電話のカメラ機能で街並みを写真に収めようとしたのだが、肝心の携帯電話がない。加えて、財布も持っていない。ズボンの後ろポケットに入れておいたのを、バス停のベンチに座ったときに煩わしくなって鞄のなかに入れたのを思い出した。


 彼が目覚めたとき、近くに鞄が落ちていたとは記憶していない。これは森のなかで目覚めるという不可思議な現象を体験して混乱していたという事実が、近くに落ちていたとしても、彼が気づかなかった可能性として考慮するべきだろう。


 明人は鞄を落としていたことに今の今まで気づかなかった事実に少なからずショックを受けていた。優先順位はさほど高くないにしても、携帯電話があれば連絡がつくのかもしれないというのに、目まぐるしく襲いかかってくる現実に、あらゆる意味で疲れているのだ。


 それに、携帯電話を持ち合わせていないというのは、ある意味で痛恨事かもしれない。いざというとき、自分が異世界人である動かぬ証拠になりうるではないか。いくら魔法の発達した世界といえども、離れた場所で通話が可能な手のひらサイズの小型の機械というのは、そうそうあるものではあるまい。


 もっとも、明人の知る由もないことだが、離れた場所との会話というのは魔法の一種に存在する。魔力を込めた音声を飛ばして相手に受信させるのだが、これはきわめて高度な技術を要する。なにしろ飛ばす相手の魔力の波動を完全に把握し、ピンポイントでそれに合わせる必要があるからだ。


 戦になれば戦場に配置された魔導師に瞬時に指揮官の命令を伝えることができるほか、日常生活においても王族や高官たちが重用するために、それを扱える魔導師が独占を図っていて、普及させることを拒否しているのである。そんな理由から、この種の魔法は門外不出、一子相伝であるとされる。


「このあたりは平民街ですからね、めったな人物には出くわさないでしょう」


 ジュゼッカが言っているのは、自治警察や憲兵もそうだが、特に先日の魔導師二人組のことをである。黒髪の魔導師にはジュゼッカが言い含めてあるからまだしも、金髪のほうはそうもいかないかもしれない。なにしろ彼らの言い分によると「決闘」をしていたのに、ジュゼッカによってそれが中断されてしまったのだ。色々と反論するべき点はあるが、決闘を強制的に中断してしまったことは騎士道精神に反する。


 だが、ジュゼッカは自分の判断が誤りであったとは思っていない。明人がツキミの側近である以上、万が一にも危険に晒すことはできないのだ。


 騎士の本懐は義を貴ぶこと。この場合、忠義を優先させたのである。

しかしジュゼッカは、忠義を優先させたことをにわかに後悔させられるのだった。


「見つけた」


 横合いから姿を現したのは、見覚えのある豪奢な金髪である。白銀のローブに金の首飾り、右腕を布で吊っている魔導師。ケレンの森でしたたかに打ちのめした、あの金髪の魔導師だ。


「あのときの……どうして」


 ジュゼッカが驚いたのも無理はない。彼は貴族であり、貴族が平民街を歩くことは建前上、絶対にない。建前、というのは避難シェルターがアルザハ東部にあるからだが、今は平時、彼がここを歩く理由などないはずだ。


「決闘の続きを申込みにきた。このあたりを歩いていれば必ず会えると思っていたぞ」


 ジュゼッカは舌打ちをしかけた。憲兵や自治警察にならともかく、彼に邪魔立てをされるとは思っていなかった。それに傷を負ってから間もないというのに、この金髪の魔導師は相当に執念深いのだろう。鎖骨を粉砕して肉も切り裂いているのだから、いくら魔導師の治療を受けたであろうとはいえ、想像を絶する苦痛を味わっているに違いない。にもかかわらず彼は、しかも平民街を捜し歩いていたのだ!


 視線を転じると、またしても見覚えのある顔と目があった。黒髪の魔導師だ。


「あなたがいながら……」


 約定を守れないのか、と視線で暗に批判した。黒髪の魔導師はその直視を、両手を軽くあげてみせていなした。


「不甲斐ないと私自身思うがね、決闘を邪魔されたという彼の主張にも一理あるだろう」

「……」

「今回、私は立会人だ。一応、公平な立場で審判を務める」


 決闘者の友人というだけですでに公平ではないではないか、とジュゼッカは思ったが、口にはしなかった。一つには、正式に決闘をしてしまうと、憲兵の監察のもとに置かれてしまうからだ。お尋ね者である以上、関わり合いには絶対になりたくない相手である。


「彼は、わかっていると思うが重傷でね、代理人を立てることにする。そちらの決闘者はそこの少年だが、公平を期してそちらも代理人を立てることを許可しよう。必要なら日を改めてもいい」


 決闘に代理人を立てることはよくあることだし、意外にも言葉どおり公平ではあるようだ。だが、それは表面的な話で、いたずらに時間を費やすのは得策ではない。自治警察や憲兵が捜索を開始しているかもしれず、またツキミには一刻も早く会見しなければならない。


 つまり、こちらに選択権はほとんどない状態なのだ。向こうはそれを承知での提案であろう。食えない男だ。


「回避する手立ては?」

「……難しいでしょう。おそらく、憲兵に届け出るとでも言ってくるはずです。向こうも探られては腹が痛いでしょうが、貴族ということで軽い注意にとどまるはずだ」

「ジュゼッカ……」


 明人が心配そうな声を出した。ツキミに会ってから決闘を受けるという手もないではない。しかし、おそらく彼らはこちらが逃げないように監視の目をつけるであろう。それはまずい。


 ふと、周囲が騒ぎ始めていることにジュゼッカは気付いた。それも当然である、平民街に魔導師がいるわけで、皆、礼をとったり、平伏したりしている者までいる。こちらの顔を覚える者も出てくるであろう。


「アーキット殿。私にお任せください。これでもアルザラッハにフィルブランドあり、とまで謳われた祖父や父を負かしたこともあります。それに、先日、黒髪の魔導師には一対一で勝っている」


 もっとも、父を負かしたのは幼いころに戯れで、であるし、祖父アルマリーには老いてからである。魔導師との一戦も賭けの要素が充分に高かったから、万全の自信は欠いている。だが、ここは虚勢を張って見せねばならない。


「君は決闘をしたことがあるのか?」

「いいえ、初めてです。が、あなたがそんな顔をなさる必要はありません」


 そんな変な顔をしていたかな、と明人は頬に手を当てた。


 明人にしても、自分の代理でジュゼッカを危険な目に遭わせるのは本意ではない。しかしながら、剣の素養もなければ魔力すら持ち合わせていない彼には、意地だけで決闘を受けて立つことは不可能なのである。情けないことだが、彼はこの場においてまったくの無力なのだ。


 明人はどんな表情をしていいか分からず、不器用に笑顔を作った。緑色の目はその表情に微笑ましい思いだった。


「決まったようだな。では場所を移そう」


 明人とジュゼッカは、黒髪の魔導師のあとに従った。


                    ◇◇◇


 黒髪の魔導師は、ジュゼッカの記憶していたとおり、名門カイゼル家の嫡男であった。名はトラウト・スフィン・カイゼル、そして金髪の魔導師はイザーク・ノルト・ウォーデンといって、これもどうにか名門の端にぶらさがっている。


 カイゼル家には当主たるトラウトの父、ボウマンがいるが、病気がちで、近来は自室に籠りっきりである。今回、彼らが決闘の場所に選んだのはカイゼル家敷地内、屋敷から一キロメートルほど離れた、だだっ広い平地と、森が三分の一を占める、総面積二〇〇万平方メートルの魔法訓練場である。森には鹿や兎などが放たれて、弓矢での狩猟を楽しむことができる。万が一、トラウトの目に入れば叱責は免れないであろうが、自室からはこの訓練場は見えないので好都合なのである。


 案内された明人は暮らしの違いを目の当たりにして目を回さんばかりだった。こういった場所は元の世界にも外国にあるのだが、いかんせん、日本には珍しい。一般的にはお目にかかる機会はないであろう。


「これ全部、カイゼル家のものなのか……」


 これほどの敷地は公園以外に見たことがない。それが公共物でなく、個人所有のものだというから、庶民である明人には理解の及ばないところだ。


 ジュゼッカのほうはというと、大して驚いたふうはない。彼女はコールブランドの縁戚であり、こういった場所はよく知っている。それも、ここよりもはるかに巨大なものを、だ。


 トラウトは一〇〇メートル四方に石を配置している。黒いなかに青光りする石があるもので、いわゆる賢者の石だとか呼ばれている代物の原石だ。それ自体、すさまじい魔力を秘めているものだが、精製しないとほとんど使い物にならない。だが、強力な魔力の源にはなるので、結界生成の助けにはなる。


 四方に配置した中央に、トラウトは小瓶に入れた水を撒いて魔方陣を形成する。この水はアルズという木の樹液が溶かされている。アルズは各大陸ごとに自生している木で、大陸ごとに名称は違うが同じ仲間とされている。これも非常に強力な魔力を持っていて魔法具の材料にされるが、不思議なことにその効力は生えている大陸に限定される。


「では、代理人はこのなかへ入ってくれ」


 イザーク・ウォーデンの代理人はノルマンという男だ。名門ではなく、魔法の素養によってどうにか貴族と認められた「成り上がり」である。それだけにイザークの頼みを断ることができなかったのであろう。だが、成り上がっただけあって魔導師としての素質はイザークを凌ぐ。


 明人の代理人はジュゼッカである。本来、魔導師は魔導師としか決闘を行わず、剣士は剣士としか戦わない。今回は公式のものではないし、そもそもの発端が発端であったので特殊な例である。


「エイド・ノルマンです。まさかあなたのほうとは思いませんでした」


 元々、平民だった男は物腰が柔らかかった。貴族特有の傲慢さや外連味がないのがジュゼッカの気に入った。


「ジュゼッカ・フィルブランド。女だからといって遠慮はいりません。存分に」


 互いに礼を終えると、ノルマンの興味は明人のほうに向けられた。


「美しい従者をお持ちだ。ご尊名を伺いましょう」

「ご、ご尊名?」

「そういえば私も知らぬ。名乗りたまえ」


 確かに、黒髪に対しても金髪に対しても、名乗った覚えはない。


「つき……」と言いかけてからまずいと思い、


「アーキット」


 とだけ名乗った。名付け親はジュゼッカだ。西洋風に言い換えたほうがよかろう。


「姓は?まさかないとは言うまい」

「姓?苗字か、ええと……アーキット……」


 目が泳ぎ回ること甚だしい。


「ムーン……シーイング……?」


 月見を英訳したつもりだが、誤訳である。


「ムーン・シーイング?まさか貴族か」

「シーイング……聞いたことのない家名だな」


 などと、トラウトやイザークは囁き合っている。ジュゼッカなどは主のフルネームに目を輝かせんばかりだ。なにしろ貴族ともなれば、仕える甲斐が一層増すというものである。


「ではアーキット・シーイング、よろしく」


 ノルマンはそう言ってから、決闘者本人であるイザーク・ウォーデンに一礼した。決闘前の礼儀である。ジュゼッカもそれに倣う。


 準備の完了を見てトラウトが呟くと、魔方陣が近くにある四方の賢者の原石を捕えて、四角錐の結界を形成する。侵入者排除用のフィールドを形成して、誰にも邪魔されることのない場を用意したのだ。通常なら魔導師ならばこの手のフィールドは突破できるが、賢者の原石とカイゼル伝来の魔方陣を使うことによって、高位の魔導師であってもこれを破ることは不可能に近い。


 ジュゼッカは初めて見る結界を触ってみる。電気が走ったように反発して押し返してしまう。内からも外からも出入りすることはかなわない、リングが出来上がったのだ。


「貴族と平民、魔導師と一介の剣士だ。ハンディキャップを設ける。ノルマンは詠唱の必要な大魔法の使用を禁じる」


 基本的に火球や電撃といった単純な魔法は、呪文の詠唱を必要としない。魔力を体にめぐらせて、各個人にある「スイッチ」を入れるだけで簡単に発射が可能だ。呪文が必要な魔法は大掛かりで、強力であり、魔導師でもなければ、直撃は死に至るであろう。


 この申し出はジュゼッカにしてもイザークにしても自尊心を傷つけられるものではなかったので、二人とも承諾した。


「私が魔方陣への魔力供給をやめるまでこの結界は誰にも破れん。存分に戦ってくれ」


 トラウトが手を挙げると、ノルマンの体が淡く光る。体中への魔力伝導をオンにしたのだ。それを受けて、ジュゼッカは剣を抜き放つ。


 明人は生唾を飲み込んだ。独特の緊張感が漂っているのだ。


 挙げられた手が振り下ろされた。その瞬間、結界内は光に包まれた。



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