異世界の夜-1-
向かい側の壁に掛っている蝋燭の炎を見つめながら、月見明人はため息をついた。巨大な岩石をくりぬいて作られた二メートル四方の牢獄は湿気が帯びていて冷たい。まるで罪人をつなぎとめておくだけでなく、精神的に追い詰めるためにもそういった環境にしているようだ。それはまったくの事実で、明人にもその効果は絶大と言える。鉄の檻はところどころさびていて、温度からいえば岩の比ではない。掴んだ手から熱が奪われ、それによって気力も失われていく気がする。
「おおい、誰か!!」
叫び声は反響して、暗闇に吸い込まれていく。ゆらめく蝋燭の炎だけが唯一の明かりで、見える範囲はごく限られているが、人の気配はまったくない。見張りすら置いていないのはどういうことだろう。孤独というのは人間の心を蚕食していく。加えて長時間の暗闇というのも人間の精神にはいい影響を及ぼさない。
この世界はおかしい。
そうでなければ、なぜ森のなかで目を覚ましてさ迷っていたところに小屋を見つけて助けを求め、西洋の甲冑に身を包んだ屈強な男たちに捕まらなくてはならないのか。思えば小屋の住人もこのご時世にぼろぼろの木綿の衣服で、自分に向かって斧を突きつけてきた。その妻が詰め所に走って「妙な服を着た不審な若者」を捕まえてくれるよう届け出たのだ。
月見明人である、と名乗った瞬間、男たちは血相を変えて剣を構えたものである。ここがどこであるかわからないが、この地域には名乗ると武器を突きつけられるという慣習があるらしかった。彼らの格好には目を瞑るとして、言葉は通じるようだ。しかしどう弁明しても彼らは頑として臨戦態勢を解かず、やがて丸腰とわかると一斉に飛びかかって木の床と熱烈な接吻を強いられた。
甲冑の男たちの詰め所に連行される道中、集落があったが、明人は自らが感じていたおかしな点の一つを発見した。
電気がない。電信柱に電線、電灯、どんな田舎でもあるはずのものがないのだ。自動車すらない。そのかわりに軒先に繋がれた馬と目が合い、つぶらな瞳は明人が連れて行かれるのを興味なさげに見ていた。まさか移動手段が馬であろうはずもあるまい、と考えていた明人の目に次に映ったのは西部劇で見るような馬車だった。本当に、ここにはガソリンで動く車がないのだ!
一体、このおかしなところはなんなのだ。それは明人だけが感じているもので、この世界の住人にとってはなんらおかしな点はないのだ。むしろ明人こそが異物であり、集落の住人たちは白のワイシャツに濃紺のスラックス、使い古したスニーカーという奇怪ないでたちの若者を奇異の視線で見ていた。
明人が甲冑の男たちに牢獄に連れてこられたのは、まだ太陽が昇っているころだった。しかし男たちは明人を牢獄に放り込んでからというものの、放置している。時計がないので正確な時間はわからないが、二時間ほどは経過しているだろうか。地面は冷たく、湿っているので座り込むわけにもいかず、狭い獄中をうろうろと落ち着きなく歩き回っている。男たちの真意はわからないが、明人に考える時間ができたのは確かだった。
「俺は下校途中だった。バス停で、ベンチに座ってバスを待っていた……いつの間にか寝てしまって、それで……」
目が覚めたら森のなか、というわけだ。明晰夢、というやつだろうか。しかし夢にしてはあまりにも触覚や痛覚、嗅覚にいたるまで明瞭すぎる。それにこれほど鮮明に意識がある夢を、明人は見たことがない。とすると、これは現実なのだろうか。
「ありえない」
明人は頭を振って自らの突飛な推測を追い払おうとした。しかし状況はすべてを物語っている。取り押さえられたときに痛めた右腕も、獄中の冷え切った空気も、ただひとつ光源としてゆらめく蝋燭の炎も、すべて実感としてある。
世界中にはテレポート、という現象が起きることがある。一九六八年、アルゼンチンの弁護士ビダル夫妻はマイブという街へ車で向かっていた。だが突然霧に包まれて姿が消えてしまった。その二日後、夫妻から親類へ電話がかかってくる。かかってきた先はメキシコのアルゼンチン領事館。夫妻は二日で六〇〇〇キロメートル以上もの距離を車ごと移動したというのだ。人間だけならばまだしも、車ごと移動するというのは不可能であった。
万が一、それと同じことが起きたとしよう。ならば西洋甲冑や電気、車の消失はどういうことだろう。住人たちは見るからに日本人ではなく、西洋人であるようだが、人種以外に明らかな文明の違いを感じるのだ。それとも世界には、まだまだ中世ヨーロッパの暮らしと文化を守り続け、不便極まりない生活を送っている場所があるというのか。だがいまひとつ明人には説明がつかないことがある。なぜ、言葉が通じるのだ。
こちらの言っていることを理解しているとは限らないが、明人には彼らの言葉が理解でき、明人の頭のなかで日本語として認識されている。なんて罰当たりな、魔女の仲間だ、おとなしくしろ。彼らの敵意と拒絶、排除しようとする心が言葉として突き刺さってくるのだ。
「……魔女?」
彼にとってあまりなじみのない言葉だ。テレビゲームや剣と魔法の世界の物語にしか登場しえないものに思える。ならばやはりこれは自分自身が作り出した幻想で、夢の出来事なのだろうか。
「寝て目が覚めたら元通りってわけかな」
それにしても、この地面の湿り具合と寒さではそれは大事業のように思える。座り込んでみたところ、みるみるうちにスラックスを浸透した水分は下着にまで達した。
「出ろ!」
耐えかねて立ちあがったところ、甲冑の男が牢を開けた。やはり言葉はわかる。明人は開けられた牢の鉄格子をくぐって廊下に出た。木でできた手枷を装着すると、早く行け、と背中を突き飛ばされる。素直に従ったのにこの仕打ちはなかろう。
廊下には一メートル間隔で蝋燭の灯りがある。それでも明人の感覚で言えば暗く、先導する男の松明すら心もとなく思える。室内灯は蝋燭のみであり、人が持ち歩く灯りは松明であって懐中電灯ではないのだ。
やがて外に出た。月明かりがまぶしく、星の光が美しい。自然の光がこれほどありがたいと思ったことは明人の人生で初めてのことだった。
「お前は何者だ。どうしてここにいる」
詰め所には、少なくとも電気を点けた明人の自室ほどには灯りが満ちていた。天井には楕円の、照明となる器具が取り付けられていたが、電気も通っていないであろう場所で原理は不明だ。甲冑の男たちの隊長らしき人物に問われて、明人は返答に困った。
「いや、それが……」
「貴様、答えられぬのか!!」
明らかに明人が戸惑った声を上げたので、明人を連れてきた男は声を張り上げる。左右で囲まれて、正面に隊長がいる構図だが、尋問というよりは恐喝に遭っているような感覚だ。幸い、明人は不良に絡まれた経験はないが、これもその経験のうちに入るだろうか。
「目が覚めたら森で倒れていたんだ。歩いてるうちにあの小屋にたどり着いて……」
「目が覚めたら?何者かに連れてこられたのか」
「わからない。バス停で座って待ってるうちに寝て……お、俺はただの高校生で、怪しい者じゃない」
「バス停……?魔女の言葉か」
隊長らしき男はたくましい顎をなでて、明人の全身を見ている。どうやら彼はバス停というのがなにかの暗号であると思っているらしかった。バスなどというものが存在しない以上、彼らが怪訝な表情を見せるのは無理からぬことだった。
左右で囲んでいる男たちも口々に「バス、とは場所の名前か」とか「いや、悪魔召喚の儀式かもしれん」とか勝手なことを言っている。
「その格好はなんだ。どうしてそんなに軽装なのだ」
「制服だけど」
「制服?それがか。なるほど、さぞ純度の高い魔術結界を具えているのだろう」
またもや聞き慣れない単語が出てきて、明人はうんざりした。この文明の違う人間たちに自動車とか、高校生が単なる学生とか、その制服に仰々しい結界やらが施されているはずもないことを説明するのは不可能だった。まったく、彼らとは文明が違うのだ。甲冑の男たちにとって明人の服装は異質きわまるもので、魔女とやらの装備に違いないらしい。
魔女。キリスト教において異端とされた人間のことだが、広義には人々が恐れてつける二つ名や、逆に偉業をなした女性につけられたりもする。しかしこの男たちの反応を見る限り、この場合の意味は前者になるようだ。一体誰を恐れているというのか。
「ま、魔女ってなんだ」
恐る恐る明人が問うと、隊長らしき男は鼻で笑った。
「知れたこと、お前の飼い主だ。この集落になんの魔術を施そうというのか」
「飼い主?魔術?なにを言っているんだ」
「とぼけるな!」
警戒用の長い棒で首元を押さえつけられる。右に侍ていた男が明人の襟元を掴んで肘を首筋にあてがった。手甲の鉄が顎には冷たい。
「貴様らがなにを企んでいるかすべて吐け。国盗りの大罪人め、なんなら体に聞くことになるぞ」
「知らない!人違いだろ!」
言い終わる前に明人は殴り飛ばされていた。無理やり起こされる。痛む頬をさする暇もない。
「もう一度聞く。なにを企んでいる?」
「知らない」
今度は腹に一撃もらった。嘔吐感がこみ上げて来て、明人はそれを制するのに苦労した。唾液は飛んでしまったけれど。
「確か名乗ったそうだな。ツキミアキトと」
隊長らしい男は顔色も声色も変えずに問うた。一六歳の少年に暴行を加えている部下を止める様子もない。角刈りの頭を掻きながら、両の目は侮蔑と軽蔑に満ちている。
「それがなんだってんだ」
「よろしい。ならば体に聞くことにする。お前がどこまで耐えられるか楽しみだ」
明人は左右の男たちに引きずられていった。
隊長の言葉は拷問の開始を告げているのだ。どうしても口を割らない人間が持っている情報は、肉体の限界の先にあることを彼らは経験から知っている。そしてその限界点の突破が、そう難しくもないということも。なにしろ彼らは彼らの残酷さを駆使して命乞いをさせればよいだけなのだ。人間は痛みやつらさから逃れる方法を数多くは知らない。しかし痛みやつらさを与える手段の豊富さときたら、この世に存在する歌の数ほどだろう。悲鳴、絶叫、嗚咽、泣き叫んで神に祈り、許しを乞う声はまさに非道の指揮棒で操られて残虐の楽器から紡ぎだされる酷烈な楽曲だ。彼らが残忍さという才能で作曲しつづけてきた作品は、すでに永久に失われてしまっている。ただひたすらに新しい曲を書きつづけるのみなのだ。
明人は無論、拷問など受けたことはない。しかし情報から植えつけられた先入観とはいえ、知識としてそれがいかに過酷なものなのか知っている。急激に冷え込んでいく心と不思議にしびれる指先は、恐怖に対するまっとうな反応だった。
「本当なんだ!信じてくれ!俺はただの人間だ!ただの高校生なんだよ!!」
彼らにとって明人の言葉は未知のもので、明人が口にするだけ彼らの認識を確信に変えるのだ。
先ほどとは違う牢に入れられて、明人はまたしても孤独だった。そこには辛うじて窓と呼べる穴が開いていて、月明かりが獄中を照らし出している。今度は見張りの兵が一人いるようだが、人がいるという温もりは到底感じえない。彼は獄につながれる囚人で、魔女の手先で、対等の人間とは思われていない。
相変わらず地面は濡れているが、立っていられなかった。足腰に力が入らず、震える手足は寒さのためだけではない。
「冗談じゃない、なんで俺がこんな目に……おかしい、こんなのおかしい」
この状況で平静を保っていられる胆力を、明人は持ち合わせていなかった。一六歳の少年としては普通と言えるだろうが、それで状況が変わらないのも事実だ。
ひとしきり自己弁護と現実逃避の混合物を口から吐き出して、ここから脱出しなければ、という境地にようやく達した。自分が痛い思いをする必要はない、という逃避には違いないが、夢であると思い込んで呆けているよりはずっと建設的であるはずだった。
「(やってやる。どうせなにもしなくても拷問されるんだ)」
問題はどうやって脱出するかである。なんとかして牢を開けさせて、なおかつ見張りの兵士を再起不能とはいかないまでも容易に追ってこられなくする必要がある。明人は武術を習ったことなどないが、急所は知っている。見張りの兵士は甲冑の男たちと比べれば軽装で、体を覆っている金属は胸当てと手甲に留まる。得物は腰に提げている剣で、しかもおそらくは丸腰の明人に対して抜くまい。とすれば、なんとか牢を開けて中に入ってこさせたうえで、男性に共通する急所である股間を蹴りあげればよい。どのように鍛錬してもこの部分だけは等しく急所たりえる。兵士を入ってこさせる方法については、騒げばおとなしくさせようとするだろう。
「交代だ」
明人が懸命に知恵を絞っていたとき、妙に甲高い声が告げた。見張りの交代だ。
「どうした、なにかあったのか」
「いや、人手が要るらしい。器具の搬入を手伝うように、と」
兵士同士の会話から察するに、明人の拷問はさぞ盛大に行うようだ。ならばこれ以上罪を重ねても大差あるまい。交代にきた兵士が鍵を受け取る音がして、足音が一つ去って行った。見張りが増えなかったことはありがたい。一人ならば作戦の変更はない。
明人が行動を起こすべく鉄格子に近づこうとしたとき、兵士は牢の鍵を開けた。檻が開けられ、獄中に入ってくる。向こうから手間を省いてくれたのだ。
「あ……」
明人は目を奪われた。
月明かりに照らされて浮かび上がった兵士の容貌は、白皙の肌が月に反射して美しい女性だった。ブロンドは透けてシルクのような滑らかさを感じさせる。
しまった、と、我に返って明人は心のなかで舌打ちした。途端に汗が噴き出してくる。この兵士は女性だ。男性にとっては致命的な急所がない。加えて先ほど交代した見張りの兵士よりも装甲は厚い。上半身と肩を覆い、腰回りと膝下にも鉄が配されている。
だが女性だ、と明人は断定した。腕力ならば男に劣るはずで、なんとか取っ組み合いになれば勝機はあるものと思った。
「うおお!!」
「……!」
体育の授業でも見せたことのないダッシュで飛びかかった。それまではよかったが、美貌の女兵士は華麗に身を翻して明人の腕を掴み、襲いかかられる力を利用して難なく明人を投げ飛ばしてしまった。岩の地面にたたきつけられて、一瞬呼吸が止まる。受け身も満足にとれずに、明人はなにごとが起きたか少しの間わからなかった。今少し、彼が冷静ならば、女兵士が見張りの兵士よりも重装甲であるということはおそらく戦闘技術に明るく、また鈍色の鎧は見張りの兵士のそれよりも洗練されていて位がいくらか高いであろうことが読み取れたはずだった。
「なにをする。私は味方だ」
甲高い声は、停止した明人の思考を呼び戻した。
「ここから出してやる。急げ」
女兵士は明人を起こして、手を取って走った。




