ただ、この白さだけを
私は全てが寝静まった深く蒼い夜の底であの人にくちづけする。
冷たい。
唇はかさかさしていて微かな柔らかさだけで、温もりも湿り気も存在していない。
そういったものはすでに消えてしまったのだ。
心臓の音でさえも。
私の前には一人の女性だったものが横たわっている。
歳よりもだいぶ若く見える。
それが唯一の救いだと思う。
それがあの人にとっては全てだったから。
あの人は夫と私たち三姉妹を何度も何度も捨てた。
すべては自分のために。
すべては男のために。
そして男に振られては、私たちのところへ帰ってきて、こう言うのだ。
みんな、ごめんね。母さんが悪かったよ。もう二度とどこにも行かないから、約束するよ。
姉はいつの頃からかその言葉に何の感情も見せず、普段どおりの行動であの人の帰りを
容認していた。妹はいつもいつも泣きじゃくり自分がどれほど寂しかったかを愚痴り、
それでもあの人のそばを離れなかった。
そして私は、私だけがいつもあの人を汚く罵るのだった。家の誰もが言わないでいるこ
とを私が代弁しているという気持ちで。
本当は誰もがあんたを恨んでいるんだよ。どうせあんたにはわからないんだろ。
どうせまた出て行くに決まっている。
私が息が切れるくらい罵倒した後、あの人はいつもただただ泣いてご免なさいというだ
けだった。その顔を見て私はいつも途方にくれる。悪いのはあの人なのに、何故私がひ
どい人間のように思えてしまう。
あの人の前に立つといつも憎悪と自己嫌悪が私の中を駆け巡る。
そしてあの人の「約束」という言葉が私にその感情をつなぎとどめ続ける。
私はそこから逃げ出したくてしょうがなかった。
それでも、「約束」はあの人が雪のように白い衣装に身を包まれるまで守られることは
なかった。
父は弱く寂しい人間だった。社会ではいくらでも代わりのきく程度の存在だった。
たいした能力もなく、ただ決まった時間に会社にきて言われたことをこなし、決まった
時間に帰ってくる。缶ビールを片手に野球中継を見てそれが終われば仕事にそなえて
寝てしまう。
それを何十年とこなしてゆく。
そんな父は人生で唯一の他人とは違うものを手に入れることができた。
それがあの人だ。
あの人はきっと父でさえあの人の目に映っていたかは怪しい。ただ安定した居場所、働
かなくても好きなことができるそんな場所でしかなかったのかもしれない。
父にはそれを認識していたフシさえあった。
そしてあの人はその場所を飛び出していくのだ。
あの人の今までで一番長くそして最後の家出が起こってから、私たち家族には変化が起
こった。
姉は専門学校を卒業して直ぐに働きに出ていた。そして社会人として三年目の春に会社の
上司と結婚をした。相手は十歳以上も歳の離れた人で離婚歴があった。そのせいか私たち
家族の問題を知っても結婚を迷うこともなかった。
二度目の結婚でもあって式は挙げなかった。身内で食事会をするにとどまった。
それでも姉は嬉しそうだった。
父は少し寂しそうだった。
妹はただ結婚というものに憧れてか終始羨ましそうだった。
私はよかったね、と言いながら私たち家族の歪な輪から抜け出してゆく姉が少しだけ妬ま
しかった。姉は別の世界に行きあの人に悩ませられることは無くなるのかと思うと、どう
しても喜ぶことができない自分がいた。
置き去りにされる気がしてたのだ、あの人にされたみたいに。
そしてまたあの人は私たちを置き去りにしていく。今度は永遠に。
私たちの親族の輪はとても狭い。
あの人の家出、不倫などのゴタゴタで親たちの家族は互いになじり合い、それを望んでいた
かのように私たちの輪から飛び出していった。父の親達もそうだった。別れようとしない息
子にも嫌気がさしたのか、二度と家の敷居を跨ぐなと捨て台詞を吐いて帰っていってから、
全くの音信不通である。
だから葬式は凄くこじんまりしたもので、父と妹に姉夫婦そして私だけ。
思わずにやけてしまった。葬式にはその人の人としての総括が出るのだ。あの人は欲しい
ものだけを求めていた。ただその時その時欲しいものだけを。それを失って戻ってきた。
だからあの人には何もない。
それでも私たちはあの人に残されたのだ。
火葬場での待ち時間私は外に出て泣きたくなるぐらい澄みきった雲ひとつない空に昇る煙突
の煙をぼんやりと見ていた。
父、すでに人生の全てが過ぎてしまったような顔で今やらねばならない事だけをこなす父。
妹、やはり泣いてはいたが自分のことだけに目を向けようとし始めた気配のある妹。
姉、旦那の傍で私たちの家族の中での長女の立場を降り、輪の外に逃げ込んだ姉。
そして私、あの人の存在を憎むことで生きてきた私。
それ以外に何もない事に気がつき始めた私。
これからどうすればいいのか本当に分からなくなってしまった私。
あの人を憎んできたこと、これから憎み続けることの全てが霞んでいくほど残りの人生が
残されていることを恐れている私。
あの人への最後のくちづけで少しでも昔、あの人を憎んでなかった昔を思い出そうとした
弱い私。
今までも、そしてこれからもバラバラな私の家族。
その私たちはこれから同じものを見る。
焼却炉の中から出てくる以前は肉の塊であったもの。
そこに残ったものはただただ白い物体だった。
きっとこの世にこれ以上白いものは存在しない。
そう思った。
少なくともこのときだけは私たち家族は同じ事を考えていた。
ただ、この白さだけを。
完読感謝。