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初恋論  作者: 昼八伊璃瑛
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8/11

第八話 飽和

 現実とどんどん乖離していく夢幻の直哉をただ噛みしめることしかできないまま、数日が経過しました。

 その日は午前授業で、部活もなかった私はすぐに帰路につきました。湿度と日照りが殊更にひどい日でした。こんな日は、直哉はまた火傷して、苦しんでいてもおかしくないはずです。

 私は一体直哉の何を見落としているのでしょうか。


 あまりに手持無沙汰なので、本でも読むつもりで入る店を探しました。学校からは市街地が近く、喫茶店や洋食屋、甘味処など、放課後寄るのにちょうどよい場所が多くありました。とはいえそれほど規模が大きいわけではありませんし、店の質にも幅がありますから、人気の店は限られます。そうしたところは学校の人間と顔を合わせやすくて煩わしく、あえて避けていると、賑わいから少し逃れた通りに、聞いたこともない喫茶店がありました。


 やや歴史は長そうですが、小綺麗な雰囲気もあって、また純喫茶と看板にあるあたり、高校生が入りそうな雰囲気ではありません。中に入ってみると、やはり学生はいませんが、社会人の客が多く、満席でした。窓がなくて日光の入らない店内はひんやりとしていて、それだけで気分が少しくつろいでしまいます。

 店の人にしばらく待つよう言われたので、手近に置いてあったメニューに何となく目を通します。六月限定で、雨の日にはいくらか値下げするサービスがあるようでした。傘の貸し出しも行っているあたり、ここの店は雨になると少々優しくなるらしく、それがなんだか楽しげで、梅雨がまた待ち遠しくなりました。当然のようにそのまま直哉を想います。


 梅雨になったら雨雲の向こうに太陽は隠れて、直哉の肌はより白くなって、雨が降ればこの店は少しばかりおまけをしてくれて、つまりここで雨宿りをすればよく、仮に晴れの日であろうとも、窓のないひんやりとしたこの店に居れば、太陽とは無縁でいられます。この店でくつろぐ直哉はきっと、最近の比ではないくらい幸せそうに落ち着いているでしょう。それを盗み見れるものなら盗み見たいです。きっとその直哉の幸せは、私の心にきちんと伝わるだろうから。


 すると目の端に捉えた奥まった席に、直哉の姿がありました。恋人と一緒でした。直哉がここにいるのを想像していた私の肉眼に直哉がここにいるのが映ったので、やけに気恥ずかしくなるやら驚くやらしましたが、考えてみれば納得です。直哉の性質上、学校の連中が集うような場所で恋人と一息つこうなどとするはずもありません。


 直哉は、酷く穏やかな笑みを浮かべて恋人と何かを話していたかと思うと、見たことの無い革の財布のようなものを取り出しました。財布のようなもの、と言うか、端から見れば長財布にしか見えなかったのですが、私はその日直哉が例の友人と一緒に自動販売機で黒い二つ折りの別の財布を使っているのを見ているので、それを財布だと判断するのを躊躇いました。

 恋人がそれを手に取って軽くいくつかの場所を指さし何か熱心に話すのを、直哉は静かに微笑んで受け取っていました。漸くひとしきり話終えた彼女がやや誇らしげにそれを返して、直哉が少しはにかんで会釈した時、やっと私は、最近、直哉と恋人が付き合いだしてひと月経過した、というのを周囲の人間が騒いでいたのを思い出しました。様子から見るに、恋人から直哉への贈り物かもしれません。

 すると、直哉はその入れ物を開き、おもむろに何かを取り出しました。


 日焼け止めでした。 


 恋人の前だというのに気にした様子もなく、掌に少し載せてうなじや首元に塗っていきました。いえ、彼女の前だからこそ、誰よりも気兼ねなく堂々としているのでしょう、だって、恐らくその入れ物は、確かに外からは財布にしか見えないけれど、だから直哉が秘密にしているものがきっと入っていて、そのためのもので、彼らの一か月記念日は数日前で直哉が日焼けを気にしなくなったのも数日前で日焼けどころか汗ひとつかかないのは、肌が綺麗なのはつまり、例えばボディシートとかハンドクリームとかが日焼け止めと一緒にきっと入っていて、恋人は直哉の体質と習慣を知っていて、それを贈って、直哉がああして清潔でいるのは、満ち足りているのは、そういうことで。恋人は日焼け止めをひょいと取り上げ自分に使い始め、直哉が少し慌てて身を乗り出すともっと取れないように背中に隠してしまいました「ケチ」少しざわめく喫茶店の中で、容赦なくからかう声と、それを叱る直哉の、しかしあまりに柔らかくて叱り切れていない声が、聞こえ、私は店を出て世界をくまなく照らしあげる太陽の下足早にその場を離れました。


*****


 まだ誰も帰っていない家の階段を上がって、自分の部屋に入って鍵をかけると、自分が左腕を強く掴んでいることに気が付きました。掴んでいる右手の指が痺れ、白くなっています。手を放そうとしても筋肉が硬直してしまってなかなかうまくいかないのを、乱暴に抜き去って右手を振り回して痺れを千切って、私は、息を飲みました。


 左腕には綺麗に右手の形をした内出血が起こっていました。


 どっと体を襲った疲れそのまま布団の上に倒れ込んで、何より昏い眠りにつきます。殺そう。呟いた声が、そのまま夢にも震えることを、私は知っていました。



次回投稿は明日15:00を予定しています。

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