第8話『弟皇子の甘い罠』
胃袋を掴んだ!?
建国祭まで残り一ヶ月を切り、帝国財務卿である私の執務室は戦場と化していた。
「……各国の要人接待費、パレードの警備予算、それに伴う特別区の交通整備費。すべて予算内に収まっていますが、予備費のバッファが少し足りませんね。西区の商業ギルドに協賛金を上乗せするよう交渉しましょう」
私は羽ペンを走らせながら、山積みになった決裁書類の束を次々と処理していく。
皇帝レオンハルト陛下から「建国祭の夜会でのパートナー(公式な広告塔)」という大役を任された以上、有能な経営者としては、祭りの本番までにすべての業務を完璧な黒字状態で完遂しなければならない。
しかし、人間の脳の処理能力には限界がある。三時間ぶっ通しで計算機(魔導具)を叩き続けた私の頭は、明らかな糖分不足を訴え始めていた。
「ふぅ……。セバス、紅茶のおかわりと、何か甘いものを……」
「エルゼ、お疲れ様! 差し入れを持ってきたぞ!」
私が専属執事を呼ぼうとした矢先、ノックの音と共に執務室の扉が開いた。
そこには、真新しいエプロンを身につけ、銀のトレイを恭しく掲げた第二皇子・ルカ殿下の姿があった。彼の背後で、本物の執事であるセバスが「私が止める間もなく……」というように申し訳なさそうに頭を下げている。
「ルカ殿下? そのお姿は……本日の土木作業(インフラ整備)はもう終わったのですか?」
「ああ、西の街道の地盤固めは午前中で終わらせてきた。お前が引いた工程表通りだろ?」
ルカ殿下は得意げに笑いながら、私のデスクの空いたスペースにトレイを置いた。
トレイの上には、湯気を立てる香り高い紅茶と、宝石のように美しくコーティングされた小ぶりなフルーツタルトがいくつか並べられていた。艶やかなベリーと、繊細な飴細工の装飾。帝都の一流パティスリーのショーケースに並んでいてもおかしくない出来栄えだ。
「これは……どこかの名店のお取り寄せですか?」
「違うよ。僕が作ったんだ」
「……はい?」
私は思わず羽ペンを取り落としそうになった。
「殿下が、手作りで、お菓子を?」
「ああ。お前、最近建国祭の準備でずっと根を詰めてるだろ? だから、厨房を借りて作ってみたんだ。生地の温度管理には氷魔法を使って、タルトの焼き加減は火魔法でミリ単位で調整した。飴細工も風魔法で形を整えたから、完璧な仕上がりのはずだぞ」
ルカ殿下が、少し照れくさそうに頬を掻きながら説明する。
私は絶句した。
(なんという……なんという高度な魔力操作の無駄遣い!! 帝国のインフラを支える超特級の魔力を、たかがタルトの温度調整に使うなど! いや、待ちなさい。これはある意味、究極の『オーダメイド(一点物)』。生産コストを度外視した、時価のつけられない超高級品なのでは……!?)
私の脳内で、ルカ殿下の人件費(時給)と消費された魔力量をタルトの価格に換算する計算が猛烈な勢いで回り始める。おそらく、このタルト一つで帝都の一等地に小さな店が買える。
「さ、エルゼ。仕事は少し休んで、僕の特製タルトを食べてくれよ。ほら、あーん」
思考の海に沈みかけていた私の口元に、ルカ殿下が小さなフォークで切り分けたタルトを差し出してきた。
至近距離で見つめてくる黄金の瞳には、年下特有の「甘え」と、庇護欲をそそるような「期待」の色がたっぷりと込められている。
「あ、あーん……ですか?」
「そう。お前、いつも僕の面倒を見てくれてるだろ? たまには僕に甘やかされてよ」
ルカ殿下が、小悪魔のような微笑みを浮かべて首を傾げる。
本来ならば不敬罪スレスレの行為だが、私のビジネス脳はこれを瞬時に別の文脈で解釈した。
(なるほど! これは『直属の部下からの猛烈なアピール(忠誠心の証明)』ですね! 先日の皇帝陛下による金貨八十万枚のドレス(ボーナス)支給を見て、自分も会社(私)に貢献できると焦ったのでしょう。金銭的価値ではなく、『手間』と『時間』という別のリソースを投資することで、自身の有用性をアピールする作戦。……なんて健気で、計算高い部下なのでしょう!)
「ルカ殿下のそのお心遣い(福利厚生)、有難く受け取らせていただきます」
私はフォークに刺さったタルトを、パクリと一口で口に含んだ。
瞬間、サクサクの生地と、絶妙な甘さのクリーム、そしてフルーツの酸味が口いっぱいに広がる。完璧だ。魔力で成分が最適化されているせいか、食べた直後から脳の疲労がスッと引いていくのが分かる。
「美味しいです! 殿下、これは素晴らしい出来栄えですよ。糖分だけでなく、微量の魔力回復効果も付与されていますね。最高の『機能性食品』です!」
「……機能性食品って。お前、本当に色気がないというか、なんというか……」
ルカ殿下は呆れたようにため息をついたが、私が美味しそうに二口目、三口目とタルトを頬張るのを見て、すぐにパァッと顔を輝かせた。
「でも、美味しいなら良かった! 兄上みたいに、国庫の金に物を言わせて高いドレスをポンと贈りつけるのは誰にでもできるけど……僕の魔法(時間)は、エルゼのためだけに使うって決めてるから」
彼は私の口元にわずかについたクリームを、自分の指先でそっと拭い取った。
そして、その指をペロリと自分の舌で舐めとる。
「……っ!?」
あまりにも自然で、かつ扇情的な動作に、私は一瞬だけ心臓がドクンと跳ねた。
顔に熱が集まるのを感じる。
「で、殿下。今の行為は、公衆の面前では推奨されない——」
「兄上はさ、お前の時間を『金で買える』と思ってる節がある。でも、僕は違う。僕は、お前の『胃袋(日常)』から埋めていくんだ。だから、疲れた時はいつでも僕を呼んで。お前専用のパティシエでも、ヒーラーでも、なんだってやってやるからさ」
ルカ殿下が、私の耳元で甘く、そしてどこか独占欲に満ちた声で囁く。
兄に対する明確な対抗心。そして、私のパーソナルスペースに遠慮なく踏み込んでくる、年下ならではの強引なアプローチ。
しかし、私のビジネス脳は、この甘い罠すらも完璧に弾き返した。
「素晴らしい提案です、ルカ殿下! 社員の健康管理(胃袋を掴むこと)は、持続可能な経営の基本! あなたのその『調理への魔法転用スキル』は、将来的に帝国の兵站(食料供給)ラインを革命的に改善するポテンシャルを秘めています! ぜひ、レシピの標準化とマニュアル作成を進めましょう!」
「……」
私の熱のこもったビジネス・フィードバックを聞いて、ルカ殿下はフォークを持ったまま完全にフリーズした。
数秒の沈黙の後、彼はガクッと肩を落とし、深々とため息をついた。
「……お前のそういうブレないところ、本当にスゲェと思うよ、うん。僕の色仕掛け(アピール)、全部書類の山に吸い込まれていく気がする」
「何か仰いましたか?」
「いや、なんでもない。マニュアル作成、善処するよ。……その代わり、今度の休日、僕の魔導重機テスト(という名目のデート)に付き合えよな。兄上には内緒でさ」
ルカ殿下は少しだけ拗ねたように唇を尖らせながらも、ちゃっかりと次のアポイントメントを取り付けてきた。
休日の実地テスト。現場視察は役員の重要な仕事である。
「承知いたしました。スケジュールを押さえておきます」
私が頷くと、彼はようやく満足げな笑みを浮かべ、執務室を後にした。
彼が去った後、私は残されたタルトを口に運びながら、頭の中で今後のロードマップを修正した。
(レオンハルト陛下の財力と、ルカ殿下の現場力。アウグスト帝国は本当に、人材の層が厚いですね。この二つのリソースを完璧にコントロールし、帝国の利益を最大化する……。私の腕の見せ所です!)
糖分補給によって完全にクリアになった頭脳で、私は再び決裁書類の山へと立ち向かっていくのだった。
皇帝と皇子、二人の最高権力者による「包囲網」が着々と狭まっていることなど、数字の鬼である私には計算(予測)の範疇外であった。
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次回お楽しみに。




