第7話『帝国の過剰な福利厚生について』
帝国財務卿としての私の朝は早い。
専用の執務室で、帝国の各管轄から上がってくる莫大な決裁書類に目を通し、承認のサインと却下の赤ペンを高速で走らせていく。
「……ふむ。東部特別区のインフラ整備費は、ルカ殿下という『最強の重機(無料)』のおかげで予算の七十パーセントを削減できました。素晴らしい利益率です。しかし一方で……」
私は手元の羊皮紙を一枚持ち上げ、眉間にシワを寄せた。
「レオンハルト陛下の『皇室特別会計』が、今月に入ってから異常な数値を叩き出していますね。使途不明の『宝飾品購入費』と『特注魔導布の仕入れ』で、金貨八十万枚? 帝国の一年分の軍事費に匹敵する額ですよ、これは。いくら黒字化したからといって、トップがこれほど無駄遣いをしては示しがつきません」
有能な経営者として、社長の経費の私的流用(?)は断固として正さねばならない。
午後一番の監査で、陛下に直接説明を求めよう。そう決意して書類をバインダーに挟んだその時だった。
コンコン、と控えめなノックの後、執務室の扉が開いた。
入ってきたのは私の専属執事であるセバスだ。しかし、普段は氷のように冷静な彼の顔に、珍しく困惑の色が浮かんでいる。
「お嬢様。……その、大変申し上げにくいのですが、皇帝陛下から『特別なお届け物』が参っております」
「お届け物ですか? 先ほど私がチェックした赤字の報告書でしょうか」
「いいえ。……こちらです。皆様、お運びください」
セバスが後ろを振り返って合図をすると、帝城の近衛騎士たちが四人がかりで、巨大で豪奢な『宝箱』のような桐の箱を運び込んできた。
さらにその後ろから、帝都で最も予約が取れないと言われる一流の宮廷仕立て屋たちが、恭しく頭を下げながらぞろぞろと入ってくる。
「これは……一体何の騒ぎですか?」
私が席を立とうとした瞬間。
「やあ、エルゼ。仕事の邪魔をしてすまないね」
仕立て屋たちをかき分けるようにして、レオンハルト陛下本人が優雅な足取りで執務室に現れた。相変わらず、ただ歩いているだけで空間を支配するような圧倒的なカリスマ性だ。
「陛下。ちょうど貴方をお呼びしようとしていたところです。今月に入ってからの皇室特別会計の支出について——」
「その話は後だ。まずは、君の財務卿就任と、先日の東部インフラ事業の大幅な前倒し達成を祝して……私からの、ささやかな『ボーナス』を受け取ってほしい」
レオンハルト陛下がパチンと指を鳴らすと、仕立て屋たちが箱の蓋を慎重に開け、中から一つの『ドレス』を恭しく取り出した。
その瞬間、執務室全体が幻惑的な光に包まれた。
息を呑むほどの美しさだった。
深い夜空を思わせるミッドナイトブルーの生地には、動くたびに星屑のように煌めく魔法陣が緻密に織り込まれている。胸元から裾にかけては、氷の結晶を象った最高級のダイヤモンドが惜しげもなく散りばめられ、銀色のレースはふわりと重力に逆らうように揺れていた。
「これは……」
「君のその美しい銀髪と、氷のような青い瞳に一番似合う色を選んだ。生地は百年に一度しか採れない『月光蜘蛛の糸』。装飾は、南の海でしか採掘されない『海神の涙』だ。……どうだろうか。気に入ってくれたかな?」
レオンハルト陛下が、甘く蕩けるような黄金の瞳で私を見つめてくる。
仕立て屋たちは「なんと美しい」「まさに未来の皇后陛下に相応しい」と小声で囁き合ってうっとりしている。
なるほど。
これが、私が先ほど帳簿で見た『金貨八十万枚』の正体か。
私はゆっくりとドレスに近づき、布地を指先で軽く擦り合わせた。
そして、手元の計算機(魔導具)を猛烈な勢いで叩き始めた。
カチャカチャカチャカチャッ! チーン!
「……ふむ。月光蜘蛛の糸が約十ヤードで金貨三十万枚。海神の涙が大小合わせて五十三個で金貨四十五万枚。一流の仕立て屋の人件費と特急料金を合わせれば、確かに金貨八十万枚の計算になりますね。市場の適正価格です」
私が完璧な原価計算を口にすると、仕立て屋たちの笑顔がピシリと凍りついた。
レオンハルト陛下も、一瞬だけ目をパチクリとさせている。
「陛下。私のような一介の役員(財務卿)に対する『特別ボーナス』として、これほどの現物支給は前代未聞です。アウグスト帝国の福利厚生は、少々過剰ではないでしょうか?」
「いや、エルゼ。これは福利厚生というより、私の君に対する純粋な——」
「お気持ちは痛いほど分かります! 優秀な人材を手放したくないという、トップの熱い慰留工作ですね!」
私は陛下の言葉を食い気味に遮り、力強く頷いた。
これほどの巨額の現物をポンと渡してくるなんて、他国からの引き抜きを完全に防ぐための『黄金の鎖』に他ならない。なんという恐ろしい(そしてホワイトな)会社だろうか。
「ですが、陛下。有能な経営者として、一つだけ苦言を呈させてください」
「く、苦言……? このドレスに不満があるのか?」
「ドレスの品質は最高です。しかし、これを私がただ『着るだけ』では、金貨八十万枚が完全に『死に金(流動性のない固定資産)』になってしまいます! 衣服は着用した瞬間に市場価値が半減します。これほどの資産をタンスの肥やしにするなど、経済観念が狂っているとしか思えません!」
私はドレスをビシッと指差し、極めて合理的な提案を口にした。
「陛下! このドレス、一度も袖を通さずに今すぐ『帝都オークション』に出品しましょう! 未着用の新品、かつ皇帝陛下の特注品というプレミアがつけば、金貨百万枚以上で落札されるはずです! その売却益を国庫に入れれば、帝都西区に新しい孤児院を三つ建てて、魔導士の育成学校まで設立できますよ!」
しんと、執務室が静まり返った。
仕立て屋たちは「国宝級のドレスを即転売!?」と泡を吹いて倒れそうになり、セバスは静かに目を逸らして天井の木目を数え始めた。
レオンハルト陛下は、額に手を当てて深く、深くため息をついた。
そして、次の瞬間には肩を震わせて笑い始めたのだ。
「くっ……ふははははっ! ああ、君は本当に、私の予想を遥かに超えてくる女だ! まさか、私が愛を込めて贈ったドレスを、目の前で『新規事業の資金源(転売目的)』として査定されるとは思わなかった!」
「当然です。私は数字の鬼ですから。会社の利益を最大化するためなら、どんな高価なボーナスも即座に現金化します」
私が胸を張って答えると、レオンハルト陛下は笑いを収め、すっと目を細めた。
先ほどまでの甘い雰囲気とは違う、為政者としての、そして『決して逃さない肉食獣』のような鋭い光が黄金の瞳に宿る。
「……君のその徹底した合理主義は嫌いじゃない。だが、エルゼ。これは転売を禁ずる。なぜなら、これはただの贈り物ではなく、我が帝国の『公式な制服』だからだ」
「制服、ですか?」
「そうだ。来月、帝国全土を挙げての『建国祭』が開催されるのは知っているな?」
「はい。各種イベントの予算配分と、他国からの要人の接待リストはすでに作成済みですが」
レオンハルト陛下は一歩踏み出し、私の顎を指先でそっと持ち上げた。
至近距離で、彼の整った顔が私を見下ろす。
「建国祭のメインイベントである夜会で、君には『私のただ一人のパートナー』として、このドレスを着て隣を歩いてもらう。……他国の王族や貴族たちに、我が帝国がいかに圧倒的な財力と、そして『最高の宝(君)』を手に入れたかを見せつけるための、重要なプロモーション活動だ」
なるほど。
つまり、これは私情のプレゼントなどではなく、『会社の広告塔としての公式業務』に必要な経費(衣装)ということか!
トップ自ら隣に立ち、他国への牽制と国威発揚を同時に行う。完璧な政治的・経済的パフォーマンスだ。
「そういうことでしたら、納得です。皇帝陛下のパートナー(広告塔)という大役、この有能な財務卿にきっちりとお任せください!」
私が即座に承諾すると、レオンハルト陛下は「ああ、頼んだよ」と、ひどく嬉しそうに私の唇の端に軽くキスを落とした。
チクッ、と心臓の奥が跳ねたが、これはきっと大役を任されたことによるプレッシャーだろう。
「サイズ合わせを頼む。彼女の肌に一ミリの負担もかけないように、完璧に仕上げろ」
陛下が仕立て屋たちに命じると、彼らは「は、はいっ! 命に代えましても!」と慌ただしく作業を再開した。
私は採寸のために腕を上げながら、内心で舌を巻いていた。
(金貨八十万枚の制服を着せて、プロモーション活動に従事させる……。アウグスト帝国、なんという底知れぬスケール感。前の職場の、経費の承認にすら渋い顔をしていた無能な元婚約者とは大違いです。やはり、優良企業への転職は大正解でしたね!)
私はこの圧倒的な「過剰投資」に、完璧な決算(夜会での立ち回り)で応えることを固く誓うのだった。
皇帝陛下が私を見る目が、ただの「優秀な部下」に向けるものではないほど、ドロドロに甘く重い熱を帯びていることには、一ミリも気づかないまま。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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次回お楽しみに。




