第20話『一方その頃、祖国では(2)』
カウントダウン……1
グランゼール王国の王都は、完全に機能不全に陥っていた。
夜になっても魔導灯は一つも点灯せず、街は不気味なほどの暗闇に包まれている。上水道の供給がストップしたため、平民たちは井戸や川へ水を汲みに行かなければならず、物流の要であったブラウベルト運河の封鎖により、市場から食料が完全に姿を消した。
飢えと寒さ、そして先の見えない不安。
それが頂点に達した時、ついに王都の広場で大規模な暴動が発生した。
「ふざけるな! 王家は俺たちを見殺しにする気か!」
「パンをよこせ! エルゼ様を追い出した馬鹿な王太子を引きずり出せ!」
「聖女だか何だか知らないが、祈りで腹は膨れないんだよ!」
怒り狂う群衆が松明を掲げ、王城の正門へと押し寄せる。
本来であればこれを鎮圧すべき近衛騎士団も、給与の未払いと劣悪な労働環境(エルゼの支援打ち切り)により、すでに半数以上が職務を放棄して逃亡していた。残された少数の兵士たちも、暴徒と化した数万の民衆を前にしては無力だった。
そんな王城の執務室で、残された年老いた大臣たちは頭を抱えて絶望の淵に立たされていた。
「……終わりだ。エルゼ・フォン・ブラウベルトという巨大な『心臓』を失った我が国は、もはや国としての体を成していない」
「他国からの融資もすべて断られました。当然です、我が国は今、あのアウグスト帝国に対して『金貨一億五千八百万枚』という天文学的な負債を抱えているのですから……」
「暴徒が城門を突破するのも時間の問題です。……ところで、アルフォンス殿下のお姿が見えませんが?」
大臣の一人が尋ねると、青ざめた侍従が震える声で答えた。
「で、殿下は……昨夜のうちに、数名の護衛とミリア様だけを連れて、王城の裏口から馬車で逃亡なされました……っ!」
「な、なんだとぉぉぉっ!? 国と民を見捨てて、自分だけ逃げ出したというのか!」
大臣たちの悲鳴が、暗く冷たい城内に虚しく響き渡った。
こうしてグランゼール王国は、実質的な指導者を失い、完全なる崩壊の時を待つだけの「巨大な廃墟」と成り果てたのである。
◇◇◇
一方その頃。
国境を越え、アウグスト帝国へと続く街道を、一台の馬車が土埃を上げて疾走していた。
「……くそっ! なぜこの王家専用の馬車は、こうも揺れるのだ! 尻が割れそうではないか!」
馬車の中で、アルフォンス王太子が苛立たしげに声を荒らげた。
当然である。この馬車に搭載されていた『衝撃吸収用の魔導回路』は、エルゼの実家である公爵家が定期的にメンテナンスと魔石の補充を行っていたものだ。支援が打ち切られた今、ただの重くて乗り心地の悪い木の箱に成り下がっていた。
「殿下ぁ……私、もう疲れましたぁ。お尻も痛いし、お腹も空きましたぁ……。どうして私たちが、こんな惨めな思いをしなくちゃいけないんですかぁ?」
向かいの席で、自称聖女のミリアが涙目で訴えかけてくる。
彼女の桃色の髪は手入れもされずボサボサで、着ているドレスも逃げる時に急いで持ち出した安物だ。かつての「守ってあげたくなる可憐な少女」の面影は薄れ、ただ不満を垂れ流すだけの足手まといになっていた。
「我慢してくれ、ミリア。これもすべて、あの嫉妬に狂ったエルゼのせいなのだ」
アルフォンスは、硬い携帯口糧(固パン)を齧りながら、忌々しげに吐き捨てた。
「あの女、私がミリアという真実の愛を見つけたことに腹を立て、あのような国を巻き込んだ嫌がらせ(インフラ停止)に及んだのだ。自分がいなくなれば、私が慌てて追いかけてくるとでも思ったのだろう」
「えっ……じゃあ、エルゼ様は殿下のことがまだ好きなんですかぁ?」
「決まっているだろう! でなければ、なぜあんな手の込んだ真似をする。あの冷徹な女が、計算もなしに動くはずがない。私に『戻ってきてほしい』と泣きついてもらうための、壮大な狂言なのだ!」
アルフォンスの脳内では、すでに完璧な「自己都合のシナリオ」が完成していた。
エルゼは自分を愛している。だから気を引くためにインフラを止めた。
自分が迎えに行き、「許してやるから戻ってこい」と温情をかけてやれば、彼女は涙を流して喜び、また以前のように無償で国を支えるはずだ、と。
「それに、アウグスト帝国といえば、実力主義の恐ろしい国だ。あの冷酷無比と噂されるレオンハルト皇帝が、小国の令嬢に優しくするはずがない」
アルフォンスは鼻で笑った。
「帝国が我が国の借金の債権を買い取ったのも、エルゼを『奴隷同然の労働力』としてこき使うための口実に違いない。今頃あの女は、暗く冷たい地下室で、鎖に繋がれながらボロボロの服で帳簿の計算をさせられているはずだ。……ふん、いい気味だ。少しは自分の愚かさを反省しただろう」
完全に現実が見えていない愚者の妄想であった。
その頃エルゼが、金貨八十万枚の国宝級ドレスを着て、皇帝と皇子から「全財産と人生を懸けたプロポーズ」を同時に受けていることなど、彼の貧困な想像力では思い至るはずもなかった。
「さあ、ミリア。もう少しの辛抱だ。帝国に着いて私がエルゼを助け出してやれば、借金も帳消しになり、我が国は再び平和を取り戻す。君も立派な王妃になれるぞ」
「本当ですかぁ!? わあ、やっぱりアルフォンス殿下は凄いですぅ!」
二人が馬車の中で能天気な妄想に花を咲かせていると、突然、ガタガタと酷く揺れていた馬車の車体が、スッと滑るように安定した。
まるで、氷の上を滑っているかのような、無音で快適な乗り心地。
「ん? なんだ、急に揺れが収まったぞ。おい、御者! 何があった!」
アルフォンスが窓を開けて外に怒鳴ると、御者が震える声で答えた。
「で、殿下……! こ、国境を越えました! 帝国の領地に入った途端、街道の様子が……っ!」
「街道の様子がどうしたというのだ」
アルフォンスは窓から身を乗り出し、そして——目を丸くして絶句した。
馬車が走っているのは、ただの土の道ではなかった。
どこまでも平坦で、鏡のように滑らかに舗装された『ガラス質に硬化された大街道』だったのだ。
さらに、等間隔に設置された街灯からは、魔石を使わずに半永久的に光り続ける魔導の光が煌々と道を照らしている。
「な、なんだこれは……っ!? 道が、光っているだと!?」
アルフォンスは信じられないものを見るように、目を瞬かせた。
それは他でもない、エルゼの完璧な設計図と、ルカ殿下の規格外の魔法によって、たった数日で完成させられた『東部大魔導輸送網』の一部であった。
グランゼール王国の王都よりも、帝国のただの辺境の街道の方が、何十倍もインフラが発展しているという絶望的な格差。
「ひぃっ……! な、なんて無駄遣いな国なんだ! たかが道にこれほどの魔力を注ぎ込むなど、狂気の沙汰だ! やはり帝国は野蛮な成り上がりの集まりに過ぎない!」
アルフォンスは、自国の惨状を棚に上げ、圧倒的な技術力と資本力を前に強烈な嫉妬と自己正当化を爆発させた。
「見ろ、ミリア! こんな無駄な工事に駆り出されて、エルゼもさぞ酷使されているに違いない! 急いで帝都へ向かうぞ! 哀れな元婚約者を、この野蛮な国から私が救い出してやらねば!」
「はいっ! エルゼ様も、きっと私たちの助けを待ってますぅ!」
あまりにも滑稽で、哀れな勘違い。
彼らは、自分たちが走っているこの快適な道を作ったのが、「エルゼの新しい部下(彼女に絶対の忠誠を誓う天才皇子)」であることなど知る由もない。
かくして、身の程知らずの招かれざる客たちは、意気揚々と帝国の首都ガルデアへと乗り込んでいった。
そこで彼らを待ち受けているのが、氷の令嬢の「絶対的な論理(数字)による公開処刑」と、最高権力者たちからの「容赦のない蹂躙」であることも知らずに。
破滅の舞台は、完璧に整えられた。
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次回お楽しみに。




