第14話『年下の特権』
帝都ガルデアの東の空が、白み始めていた。
徹夜の激務を終えた帝国財務卿の執務室に、清々しい朝日が差し込んでくる。
「……ふぅ。完璧な夜明けですね」
私は大きく背伸びをして、凝り固まった肩をほぐした。
デスクの上には、昨夜レオンハルト陛下という「最強の事務員(CEO)」を酷使して完成させた、厚さ三十センチにも及ぶ決裁済みの書類の山が、誇らしげにそびえ立っている。
本来であれば数日を要する莫大な再分配計画の承認プロセスが、たった一晩で完了したのだ。これで本日から即座に、帝国の各事業へ資金を投下することができる。これ以上の喜び(カタルシス)はない。
「さて、始業時間までに顔を洗い、身だしなみを整え——」
私が席を立とうとした、その時だった。
「エルゼ! おはよう! 朝一番で東部の農地改良の……って、お前、まさか徹夜したのか!?」
バンッ! と勢いよく扉が開かれ、朝の光とともに第二皇子ルカ殿下が飛び込んできた。
手には分厚い魔導回路の設計図が握られている。朝早くから私のところに成果を報告しに来たのだろう。まるで、ご主人様に褒めてもらおうと尻尾を振って駆け寄ってくる大型犬のようだ。本当に健気で優秀な部下である。
「おはようございます、ルカ殿下。ええ、少しばかり残業を。ですが、おかげで今日のインフラ予算はすべて決済が下りましたよ」
「少しばかりって、お前、目の下にうっすらクマができてるぞ! 倒れたらどうするんだよ! だいたい、セバスはどうしたんだ。なんでお前一人で……ん?」
私を心配して駆け寄ってきたルカ殿下の足が、ピタリと止まった。
彼の黄金の瞳が、私のデスクの端に置かれたままになっていた『最高級のヴィンテージワインの空ボトル』と、『二つのグラス』を捉えたのだ。
途端に、ルカ殿下の顔からスッと表情が抜け落ちた。
「……エルゼ。なんで、執務室にワイングラスが二つあるんだ?」
「ああ、それですか。昨夜、レオンハルト陛下が慰労のために持参してくださったのです。お気遣いはありがたかったのですが、アルコールは業務効率を下げますから、私はほとんど口をつけていませんよ」
「あ、兄上が……昨夜、ここで、二人きりで……!?」
ルカ殿下の声が、ギリリと歯を食いしばるような低いものに変わった。
周囲の空気がビリビリと震え、彼の体から黄金色の魔力が漏れ出しそうになっている。
「あのエロ皇帝……! 抜け駆けして、深夜に密室でエルゼを酔わせて、あんなことやこんなことを……! ゆ、許さない! 帝国法を書き換えてでも弾劾してやる……っ!」
「落ち着いてください、ルカ殿下。あんなことやこんなこととは、何のことですか?」
私は魔力を暴走させかけている彼を宥めるように、ドンッ! と決裁書類の山を叩いた。
「レオンハルト陛下とは、深夜二時までひたすらこの書類のサイン作業(流れ作業)をしていただけです。陛下は素晴らしい事務処理能力を発揮し、二百枚の書類をノンストップで裁いてくださいました。我が社のトップは、自ら現場のボトルネックを解消してくださる最高の社長ですよ!」
「…………え?」
私の言葉を聞いたルカ殿下は、書類の山とワインボトルを交互に見比べ、パチクリと瞬きをした。
漏れ出していた魔力が、シュンと音を立てて霧散する。
「……兄上、お前と密室で二人きりだったのに、ただ書類のサインだけさせられて帰ったのか?」
「はい。タイムイズマネーですから」
「……ぶっ、あはははははっ!! なんだそれ! 最高級のワインまで持ち込んで、ただの徹夜の事務員扱い! さすがエルゼだ、兄上のあのキメ顔が台無しじゃないか!」
ルカ殿下はお腹を抱え、涙目になりながら爆笑し始めた。
何がそんなに面白いのか分からないが、彼の機嫌が直ったのなら何よりだ。優秀なインフラ担当者のメンタルが不安定になれば、今日の農地改良事業の進捗にダイレクトに悪影響を及ぼす。
「笑い事ではありませんよ。トップが身を粉にして働いてくださったのですから、現場のトップである殿下にも、今日は昨日の二倍働いていただきますよ」
「……えー。僕だって、昨日の夜は遅くまでこの設計図を引いてたのに。徹夜明けのお前みたいに、僕もすっごく疲れてるんだけどなー」
笑いを収めたルカ殿下は、急にわざとらしい声を出して、私の隣にある応接用の長ソファにドサリと腰を下ろした。
「あー、頭痛い。魔力もスッカラカンだ。このままじゃ、今日の農地改良事業、出力が三割くらい落ちちゃうかもしれないなー。あーあ、誰かが優しく癒やしてくれたら、百二十パーセントの力が出せるのになー」
チラッ、チラッ、と。
ルカ殿下が、上目遣いで私を見てくる。
その態度は、兄であるレオンハルト陛下の「大人の余裕と権力による制圧」とは全く異なる、年下特有の「ストレートな甘え(おねだり)」だった。
しかし、私は有能な経営者である。
彼のこの発言に隠された『重大なビジネスリスク』を見逃すはずがない。
(出力が三割低下……!? それは由々しき事態です! 彼の一日の利益創出額は金貨十万枚を下らない。それが三割減るということは、一日で金貨三万枚の機会損失! なんとしても、彼の言う『癒やし(モチベーション管理)』を提供し、百二十パーセントの稼働率を維持しなければ!)
「分かりました。ルカ殿下、私が貴方の疲労を回復させましょう」
私はスタスタとソファに歩み寄り、彼の手の届く位置に腰を下ろした。
「本当か!? じゃあ……」
ルカ殿下の黄金の瞳が、パッと期待に輝く。
「ええ。どのようなマッサージをご希望ですか? 魔力経路の詰まりを物理的に押し流す指圧でしょうか。それとも、糖分の直接投与(ケーキの摂取)ですか?」
「……お前のそういうムードのなさ、嫌いじゃないけど、今は違う。ちょっと、失礼するぞ」
ルカ殿下はふっと柔らかく微笑むと、そのままコロンと横に倒れ込み……私の太ももの上に、自分の頭を乗せてきた。
「なっ……! 殿下!?」
いわゆる『膝枕』というやつだ。
私の膝の上に、天才皇子の頭が乗っている。彼の少し癖のある黒髪が私のドレス越しに肌に触れ、体温と、微かな石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。
「ちょ、殿下。これは一体何の真似ですか。職場における過度なスキンシップは、コンプライアンス的に推奨されませんし、何より私の業務の妨げに——」
「十五分だけ。……お前が徹夜で疲れてるのは分かってる。だから、十五分だけ目を閉じて休め。僕も、お前の体温を感じて魔力を安定させるから」
膝の上から見上げてくる彼の瞳は、ひどく優しく、そして逃げ場のないほどの強い熱を帯びていた。
年下のくせに、こういう時の男の顔はずるい。思わずドキリと心臓が跳ねてしまう。
だが、私のビジネス脳は、この甘すぎる状況すらも瞬時に計算式へと変換した。
(……なるほど! 自身の魔力安定化を図りつつ、上司である私に『強制的な十五分の仮眠』を取らせるための荒療治ですね! 確かに、徹夜明けの十五分の睡眠は、その後の作業効率を劇的に向上させるとビジネス書にもありました!)
さらに言えば、彼のような天才肌の若い労働力には、物理的な安心感を与えることで帰属意識を高める『情操教育』が不可欠である。
私の膝を貸すだけで、彼が今日一日百二十パーセントで働いてくれるなら、これほど費用対効果の良い福利厚生はない。
「……承知いたしました。十五分間の仮眠タイムとしましょう。これも情操教育の一環ですね」
「……情操教育って。僕、もう十八の立派な男なんだけどな。お前、本当に僕のこと警戒してないだろ」
ルカ殿下は呆れたようにため息をつきながらも、ひどく嬉しそうに私の膝に頬をすり寄せた。
私は彼を『最高級の資産』として大切に扱うべく、その柔らかい黒髪を優しく指先で梳いてやった。
「警戒などしませんよ。貴方は私にとって、帝国の利益を生み出すための最も重要で、愛すべき『優良銘柄』ですから。しっかりと休んで、今日も最高の利益を出してくださいね」
「……っ! お前、そういうことサラッと言うの、本当に反則だぞ……」
私の純粋な(投資家としての)愛の言葉を聞いたルカ殿下は、耳の先まで真っ赤に染め上げ、自分の腕で顔を隠してしまった。
膝の上から、彼の心臓の音がドクドクと速くなっているのが伝わってくる。魔力が活性化している証拠だ。素晴らしい、充電は順調らしい。
私は彼の髪を撫でながら、ゆっくりと目を閉じた。
徹夜明けの体に、彼から伝わってくる温かな体温が心地よい。確かに、これは悪くない休息法かもしれない。
十五分後。
「……お嬢様。朝食の準備が……と、失礼いたしました」
紅茶を持ってきたセバスが、ソファで重なるように眠る私とルカ殿下を見て、静かに扉を閉める音が聞こえた気がしたが、私の意識はすでに、完璧な休息の底へと沈んでいた。
年下の特権をフル活用して物理的な距離を詰めてくる弟皇子と、権力と財力で外堀を埋めてくる兄皇帝。
最高権力者たちによる包囲網は、確実に私のパーソナルスペースを侵食し始めていた。……もっとも、当の私がそれをすべて「過剰な福利厚生」と解釈している限り、彼らの戦いはまだまだ果てしなく続くのだった。
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次回お楽しみに。




