第13話『二人きりの残業(皇帝の策略)』
夜の帳が完全に降りた帝城。
帝国財務卿の執務室では、魔導灯の青白い光の中、私一人だけがデスクに向かって猛烈な勢いで計算機を叩いていた。
「……不正蓄財の総額、金貨一千五百万枚。これを東部の農業特区と北部の魔石鉱山のインフラ整備に六対四の割合で再投資した場合の、向こう五年の想定利回り……よし、完璧です」
ギースラー侯爵をはじめとする腐敗貴族たちから没収した莫大な資産。これをただ国庫に眠らせておくのは、経営者として三流のやることだ。私は「生きた金」として市場に還流させるための緻密な再分配計画を、今夜中に組み上げるつもりだった。
しかし、ふと顔を上げて違和感に気づく。
「……セバス? お茶のおかわりをお願いします。それから、資料室のBの棚から過去の農地開発のデータを——」
声をかけても、返事がない。
いつもなら私の影のように控えているはずの有能な専属執事も、遅くまで残っているはずの若手官僚たちの姿も、執務室には一切なかった。不自然なほどの静寂だ。
「おや、誰もいませんね。全員で夜食の買い出しでしょうか?」
私が首を傾げた、その時だった。
「彼らなら、もう帰したよ。『今日は財務卿に極秘の特命を言い渡すゆえ、何人たりともこのフロアに近づくことはまかり通らん』とね。皇帝直々の絶対命令だ」
カチャリ、と執務室の扉が内側から施錠される音が響いた。
振り返ると、そこには漆黒の軍服の胸元をだらしなくはだけさせ、片手に最高級のヴィンテージワインのボトルと、二つのクリスタルグラスを持ったレオンハルト陛下が立っていた。
普段の隙のない冷酷な為政者の顔ではない。
ほんのりと酒の匂いを漂わせ、伏せられた長い睫毛の奥の黄金の瞳には、ひどく甘く、ねっとりとした熱が孕んでいる。完全に「夜の男」の顔だった。
「へ、陛下? なぜ皆様を帰してしまわれたのですか。明日の朝までにこの再分配計画を——」
「仕事の話はもう終わりだ、エルゼ」
レオンハルト陛下は流れるような足取りで私のデスクに近づくと、私が広げていた計算書の上に、ドンッと無造作にワインボトルを置いた。
そして、椅子に座る私の真横に立ち、その長い腕を背もたれに回して、私の逃げ場を完全に塞いだ。
「昼間、君は私のティーブレイクの誘いを『予定が詰まっている』とすげなく断っただろう? だから、君の予定が空くまで待っていたのさ。この城で最も権力を持つ私を、こんな夜更けまで焦らした罰は……きっちりと払ってもらおうか」
低い、耳元をくすぐるような囁き。
陛下の手が私の頬に触れ、銀色の髪の房を指先でゆっくりと絡め取る。至近距離から見つめてくるその瞳は、私という獲物を絶対に逃さないという強烈な独占欲に満ちていた。
二人きりの密室。鍵はかけられ、助けは来ない。
そして、最高権力者からの「罰」という名の、甘く危険な誘惑。
並の令嬢であれば、その圧倒的な大人の色香と重圧に腰を抜かし、真っ赤になって彼の胸に飛び込んでいただろう。
しかし、私は氷の令嬢であり、有能な経営者である。
この状況を、私は一秒で極めて「論理的」に解釈した。
(なるほど!! つまり陛下は、役員である私が一人で深夜残業をしていることを見かねて、自ら『労い(ワイン)』を持って陣頭指揮を執りに来てくださったのですね! しかも、他の社員を帰宅させたのは、この極秘プロジェクト(再分配計画)の機密漏洩を防ぐための完璧な情報統制! なんという……なんというトップとしての鑑!!)
私は陛下の熱烈な視線を真っ直ぐに見返し、感動に震える声で叫んだ。
「素晴らしいリスクマネジメントです、レオンハルト陛下!!」
「……は?」
甘いムードに酔いしれていた陛下の顔が、一瞬だけ間の抜けたものになった。
「確かに、没収資産の運用計画は市場に多大な影響を与える超トップシークレット! 人払いをして密室で社長(貴方)と二人きりで決裁を進めるのは、情報漏洩を防ぐ最も確実な手段です! まさか、そこまで計算して私と『二人きりの残業』をセットしてくださるなんて!」
「いや、エルゼ、待て。私はそういう意味で人払いをしたわけでは——」
「さあ、ワインなど飲んで脳の処理能力を低下させている場合ではありませんよ! 陛下、こちらの席へどうぞ!」
私は強引に立ち上がり、困惑する陛下を私の隣の補助デスクへと押し込んだ。
そして、未決裁の書類の山(厚さ約三十センチ)を、ドンッ! と彼の目の前に積み上げた。
「現在、東部農業特区の予算配分に関する決裁書が百二十枚、北部の魔導インフラの許可証が八十枚滞留しています。すべて私が内容は精査済みですので、陛下はひたすらこの書類にサイン(承認)をお願いします。私が隣で計算を回し、次々と新しい書類を供給しますから、流れ作業で一気に終わらせましょう!」
「エルゼ……君は、この甘い密室と私の誘惑を前にして、本気で私に『書類のサイン作業』をやらせるつもりか?」
レオンハルト陛下が、信じられないものを見るような目で私を見上げた。
「当然です! CEOたるもの、現場のボトルネック解消のために自ら手を動かす姿勢を見せなければ! さあ、ペンを持ってください。インクはたっぷり補充してありますよ」
私は彼の右手に高級な万年筆を握らせ、無理やり書類に向かわせた。
レオンハルト陛下は「嘘だろう……私の完璧な口説き文句が……」と頭を抱えていたが、私が「ほら、手が止まっていますよ! タイムイズマネーです!」と急かすと、ついに観念したようにため息をついた。
「……分かった。君がそこまで言うなら、付き合おう。だが、ただの作業ではつまらない。私が一枚サインをするごとに、君から『甘いご褒美』をもらうという条件なら、全速力で終わらせてやろう」
陛下は最後の抵抗とばかりに、色気たっぷりの流し目で私を見つめ、とんでもない歩合制の交渉を持ちかけてきた。
一枚につき、キス一回。二百枚の書類で、二百回のキス。
完全にセクハラ(職権乱用)である。
しかし、私のビジネス脳は微塵も揺るがない。
「却下です。物理的な接触は業務効率を著しく低下させます。その代わり、百枚処理するごとに、私が淹れた『疲労回復の特製ハーブティー』を提供しましょう。糖分もたっぷりと入れておきます」
「……君のその、徹底した色気のなさと合理主義、いっそ清々しいよ」
レオンハルト陛下はついに笑い出し、首を振って書類に向かい始めた。
サラサラと、万年筆が走る音が静かな執務室に響き渡る。
そこからは、まさに怒涛の共同作業だった。
私が計算機で数値を叩き出し、書類を回す。陛下が内容を一瞥して、流れるようなサインを入れる。
本来ならば数日かかるはずの莫大な決裁が、帝国最高の頭脳を持つ二人の連携プレイにより、みるみるうちに消化されていく。
「よし、東部の決済完了。次は北部の書類です、陛下」
「ああ、よこせ。……しかしエルゼ、君の計算速度は本当に異常だな。私のサインのスピードが追いつかないのは初めてだ」
「当然です。私は数字の鬼ですから」
夜更けの密室。
甘い言葉も、色っぽいスキンシップも一切ない。あるのはただ、紙の擦れる音と、インクの匂い、そして圧倒的な「生産性」だけだった。
そして、深夜二時。
「——完了しました! 素晴らしいです、陛下! 予定より三時間も早く全タスクを終了できました!」
私は最後の書類に承認印を押し、歓喜の声を上げた。
隣を見ると、レオンハルト陛下はネクタイを完全に外し、ワイシャツの袖をまくり上げて、疲労困憊といった様子で背もたれに深く寄りかかっていた。さすがの超人皇帝も、二百枚の連続サイン作業には堪えたらしい。
「ああ……終わったな。まさか私が、自分の城で徹夜の事務作業をやらされる日が来るとは……」
「これも陛下の素晴らしい『現場主義』のおかげです! 貴方という最高のビジネスパートナーを得られたこと、財務卿として誇りに思います!」
私が心からの称賛(ビジネス的な意味で)を込めて微笑みかけると、レオンハルト陛下は目を丸くし、それから力なく笑った。
「……私の計画では、今頃は君を甘く酔わせて、あのソファの上で私の腕の中に閉じ込めているはずだったんだがな」
「何か仰いましたか?」
「いや。君のそういう一切ブレないところが、本当に……狂おしいほどに私の心を満たすという話だ」
陛下はふらりと立ち上がると、片手で私の後頭部を引き寄せ、私の額に深く、長いキスを落とした。
先ほどのような危険な熱ではなく、ひどく穏やかで、呆れたような、深い愛着に満ちた口付け。
「今日のところは、この最高の『業績』に免じて退却してやろう。だが、次は絶対に逃がさないからな。……おやすみ、私の有能で、最高に可愛げのない財務卿」
陛下は私が差し出したハーブティーを一息に飲み干すと、満足げな笑みを浮かべて執務室を後にした。
残された私は、額に残る熱に少しだけ首を傾げながらも、完璧に処理された書類の山を見て力強くガッツポーズをした。
(やはり、アウグスト帝国への転職は大正解でした! 社長自らが残業を手伝ってくれるなんて、これ以上ないホワイト企業です!)
二人の絶望的なすれ違いは、まだまだ平行線を辿る運命にあった。
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次回お楽しみに。




