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プロローグ



『大丈夫。

俺は……音楽を捨てないから』





12歳の冬、母が消えた。


理由は簡単だ。父以上で俺よりも大切な男が、できたからだ。


あの日の事は、鮮明に覚えている。


12月になったばかりの、暗く灰色の冬の空が重々しく覆う日だった。


家に入る前から、違和感はあった。

外から見ても、家の明かりがどこにも灯っていない。

冷たく、深い水の底へ落とされたような静けさが、家を包んでいた。



居間は整然と片付けられ、食卓を囲むテーブルの上に二通の手紙が置いてあった。


一つは父へ。

そして、もう一つは俺あてに。



それを見た瞬間、覚悟していたはずの身体が感情とは逆にふるえた。


遅かれ早かれ、母が出ていくことは分かっていた。


だが…



『律へ』


と、宛名が書かれた白い封筒の中に、短い母の気持ちが書かれていた。



『本当は、あなたを連れていきたかった。

でも、できなかった私を許してください』



その、2文を乱雑に2重線で消した跡が残っていた。


続く内容は、母の生々しい本音が書かれていた。


『お母さんを恨みなさい。

貴方を捨てた私を、許さず恨みたいならそうしなさい』


手紙を破り捨てたい衝動が次に書かれていた。



『でも、貴方は音楽を捨てられない。

そうやって私が育てたんだから。

だから、いつか必ず私と会うはずです』



目眩とも吐き気とも表現しがたい感情が、胸を巣食う。


目の前の手紙が視界の中で歪む。



『貴方の音楽を続けて。

私は、それまでまっているから』



『貴方は絶対に

私と同じ場所に来るはずです』




母の歌。その全て。


律は、荘厳な音楽ホールで高らかに声を伸ばし、歌い上げる母の姿をそのとき見た気がした。


全て、母のために整えられた照明と舞台。


オーケストラーを従え、声量は控え目から始まったにも関わらず、突き抜けていく。


溶け合う旋律と母の歌声は、観客を引き釣りこむ。


母の歌は、まるで毒のように人を惑わし、溺れさせ、そして狂わせた。





「……っ」




手紙をその場で粉々に引き裂いてしまいたい衝動に駆られたが、律はできなかった。



母の歌う声と毒に、息子の自分が最も反応して身体が共鳴した日の事を忘れれなかった。



美しく恐ろしい、母。


その歌声は、確かに受け継がれている。



ーーだから律は、このとき知った。


自分は母の歌から逃れられない。

どれほど憎んでも、音楽だけは捨てられない運命だと。



その時、初めて泣いた。




尾崎律、12歳の冬のことだ。


母と同じように音楽への道を歩むことになったのは、其れから6年後のことだった。



律の歌声は、この国の事件となった。





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