33.経験の価値
かつては鼻持ちならなかった野上凜華は、今や、鈴蘭学園案件の救世主である。心のなかの “凜華さま” 呼びは当分のあいだ封印。今は、凜華さまさまだ。
メンバーのなかで一番使えないと思っていた大園大悟も、小清水副生徒会長攻略の秘密兵器になりつつある。
かのアリストテレスは『神と自然は、何ひとつ無駄なことはしない』、と言ったそうだが、まったくその通りだ。世の摂理については神と自然に任せ、これからは自分の仕事に専念しよう。
こうして凡人を自覚した外﨑は、再び、動画制作会社 スタジオVIVID”の矢島慎平と会うことにした。
矢島によると、機材レンタルはスタジオVIVIDの手持ちだけでは賄えないので、同好の士による有料ボランティア、という形で進めたいらしい。
となれば、先方の会社の応接室を使うのは気が引ける。
かといって前回のように公園とはいかない。最近は日陰でも三十五度を超えるのだ。
まったく、地球は、年寄りには生きにくい星になった。
ということで、今夜は足取りも軽く、呑み屋に現地集合だ。
ジョッキを煽り、トンっとカウンターに置くと同時に声が出た。
「だぁ~ッ、ほんとだぁ、確かに美味いなぁ」
「だろう。新橋のガード下で飲むホッピーも美味いけど、ここのは何かプレミアムって感じがするんだよなー」
待ち合わせたのは、前回お預けとなっていた横浜のホッピー専門店である。
「樽生ってのがなぁ、昭和男にはグッとくるねー」
「うん、樽生は特別だよ。俺たち世代には」
この店はホッピーという一点にこだわり抜いた店だ。飲み物はホッピーと、ホッピーを使ったカクテルで、つまみは缶詰と乾きものだけ、と潔い。だが店にストイックな雰囲気は欠片もなく、皆、和気あいあいと楽しんでいる。
さすが矢島慎平、いい店を知っている。
「で、どうだいキャメラの方は、集められそうか」
外﨑は、駄菓子のソースカツを片手に、矢島に訊ねた。
「うん、俺の手持ちが四丁。あと垣尾源太郎が三丁、稲葉薫が二丁持ってるっていうけど、全部型違いだぞ。あと、垣尾のは史料保管してるやつなんでメンテが要るかもって言ってた」
「型違いかぁ」
「なんだよトノ、撮れりゃいいんじゃなかったのかよ」
「ああ、それはそうなんだけど。じゃあ、実技講習会を頼んでいいかな。あの、実はさ……」
外﨑は、つい先だてやらかした自分の失態について大まかに説明し、今回、キャメラを使うのがアナログを知らない高校生で、クリエイティブを発揮させるために撮影が野放し状態になることから、機材を守るためにも事前の、入念な説明が不可欠であることを話した。
「なるほど、じゃあ垣尾に講師やってもらうように頼んでみるか。これって日当出るの?」
当然の質問だ。垣尾は東京シネマアワードで撮影賞を取った現役のプロだ。
「大丈夫、ちゃんと出すよ。でも垣尾に講師なんてできんのかね」
垣尾は、腕は確かだが根っからの職人気質で、人前で話すどころか、上がり症だったはずだ。
「大丈夫もなにも、あいつ今、ビジュアルアカデミーって専門学校で、シネマアート制作部の講師やってんだ、知ってたか」
「お、ほぉ。あいつが講師? あ、じゃあ史料保管ってのはあれか、学校に預けてるわけか」
「そう、預けっぱなしだからメンテが要るってことだろう」
「そうかぁ、講師かぁ。しっかり生きてんだなぁ」
矢島が、「うん」と首肯した。
外﨑は、自分では、若い連中とうまくやっている方だと自負している。新しいテクノロジーには積極的に親しむようにしているしグルメ情報やネットで話題のドラマも一応はチェックしている。
だから世のオッサン連中とは一線を画しているつもりだが、こうして同じ時代を生きた仲間と話していると、肩に余分な力が入っていないことを実感できる。
やはり、こっちが素の自分だ。
ぜんぜん楽だ。
そのことを再認識すると同時に、別の思いが頭をもたげてきた。
本当は、同志たちと一緒に好きなことをやり続けて成功したかった。願わくば垣尾みたいに賞のひとつも取って次の世代に技術や思いを伝えたかった。
それがどうだ。今、自分の価値は時代の変化に揉まれて、まるで氷山が融けるような勢いで目減りしている。
しかも、食い止める手立てはない。ただ呆然と見ているしかないのだ。
このまま、すべてを注いだ経験の価値がゼロになったら、或いは、周りからゼロと見做されるようになったら……。
どうやって生きていけばいい。
外﨑は、油断したら涙に変わりそうな虚しさを、「俺もしっかりしねえとなぁ」という精一杯の表現に置き換えて生ホッピーで胃袋に流し込んだ。




