「初めて訪れたのが、通夜の日だった」
彼女の通夜と葬儀から、わずか数日。
時間が経っても、胸の奥の違和感は薄れない。
今回は、初七日の夜。
再び彼女の家を訪れた主人公が、
“言えなかった言葉”と、“何もできなかった自分”に静かに向き合うエピソード。
第一話 通夜の夜に、彼女を真正面から見た
玄関の鍵がカチャ、と鳴った。
いつものように、母親がパートから帰ってきた音。
けれど、扉の向こうから伝わる空気が、どこか重たかった。
「……あんた、今日は家にいたの?」
開口一番、母がそう言った。
俺はソファから体を起こす。
スマホをいじりながら、お笑い動画を眺めていた。
くだらない笑い声が部屋に響いていたのが、今は少し気まずく思える。
「なにかあったの?」
母は靴を脱ぎながら、小さくため息をついた。
バッグを置き、上着をテーブルのイスに掛け、冷蔵庫のドアを開けながら言った。
「◯◯中の……あの子、トラックにはねられて亡くなったんだって。通学中だったらしいよ。即死だったって」
思考が、一瞬で止まった。
◯◯中──
その名前だけで、誰のことか分かってしまった。
中学のとき、毎日のように目で追っていた女の子。
高校に進学して、偶然同じクラスになったのに、名前を呼ぼうとした瞬間は何度もあった。
それでも結局、一言も話しかけられなかった。
横顔と後ろ姿の記憶しかない。
でも、毎日その記憶だけが俺の中に残っていた。
「……ほんとに?」
そう聞き返しても、母はただ黙って頷くだけだった。
その目に、深いものはなかった。ただの事実を伝えただけの、生活の一部。
けれど、俺には、世界のどこかが音もなく崩れたような感覚だった。
夜になって、中学の同級生からグループLINEが回ってきた。
──◯月◯日、通夜。
翌日、葬儀。
会場、時間、服装。
文字だけの通知が、現実をじわじわと突き刺してくる。
ふと思い立って、押し入れの奥を探った。
埃をかぶった箱の中に、中学の卒業アルバムが眠っていた。
ページをめくると、あの頃の笑顔が並んでいる。
無邪気で、幼くて、何も知らなかった俺たち。
彼女の顔を見つけるまでに、そう時間はかからなかった。
やっぱり、あの頃からどこか人と違って見えた。
はにかんだ笑みが、ページの中からまっすぐにこちらを見ている。
間に挟まっていた寄せ書きの紙が、ふと滑り落ちた。
「またみんなで集まろうね!」
カラーペンで書かれたその文字の下に、彼女のサイン。
その筆跡を、何度も指でなぞる。
今となっては、声も仕草も思い出せないくせに、たった一行の文字だけは、やけに鮮明だった。
胸の奥に、何かがゆっくりと沈んでいく。
“あの時”に戻れるなら。
たった一言でも声をかけていたら──そんな悔いばかりが、頭の中を巡る。
でも、それももう遅い。
ページを閉じる手が、ほんの少しだけ震えていた。
* * *
通夜の日。
彼女の家の前で、俺はしばらく立ち尽くしていた。
ここに来るのは、初めてだった。
ただの同級生、ただのクラスメート。
その家を訪れるきっかけなんて、普通はなかったはずだ。
それなのに──
初めてお邪魔する日が、通夜の日だった。
言葉にできない違和感が、胸にのしかかっていた。
玄関の先には、既に何人かの弔問客がいた。
中学の卒業アルバムで見覚えのある顔。
高校の制服を着た、同じクラスの数人の女子。
誰もがうつむき加減で、言葉少なに並んでいた。
俺はその列に黙って加わった。
誰とも目を合わせないまま、ただ順番を待った。
部屋の空気は、湿っていた。
香の匂い、低い話し声、動かない時計のような時間。
すべてが、彼女の不在を静かに突きつけてくる。
リビングの奥に、花に囲まれた遺影が飾られていた。
横顔と後ろ姿の記憶しかない、片思いの女の子。
遺影の中の彼女を、改めて真正面から見た。
笑っているのに、どこか遠くて、やけに静かだった。
言葉も出ないまま、俺は黙って手を合わせた。
彼女の母親が軽く会釈してくれたけれど、何かを言うことはできなかった。
彼女がそこにいないことが、空気そのものに刻まれていた。
* * *
葬儀も、静かだった。
通夜のときと同じ顔ぶれ──中学時代の友人たち、高校のクラスメートたちが並んでいた。
それぞれに、思い出があったのだろう。
でも、俺には語れる思い出なんて何ひとつなかった。
何もしてこなかったことだけが、今さら重くのしかかってくる。
葬儀の帰り道、制服のネクタイを少しゆるめて空を見上げた。
雲が厚くて、星は見えなかった。
*
数日後。
俺はもう一度、あの家の前に立っていた。
初七日。
俺は自分でも理由がよく分からないまま、再び彼女の母親を訪ねていた。
通夜と葬儀が終わり、幾日かが過ぎた。
それでも、心のどこかに沈んだ重さは消えていなかった。
俺はまた、あの家の前に立っていた。
朝の空気は薄く冷えていて、秋の名残がまだ足元に残っている。
落ち葉が小さく舞い、風に撫でられるように転がっていく。
「初七日──」
母から聞いたその言葉を、口の中で反芻する。
亡くなった人が、あの世へと向かう途中。
この世に残した思いを見つめる、七日目の夜。
俺がここに立っている理由に、はっきりとした答えはなかった。
ただ、そうせずにはいられなかった。
チャイムを押す前、ひとつ深く息を吸う。
それだけで、胸がきしむように痛んだ。
扉が開くと、彼女の母親がそこにいた。
目の赤みは隠せないまま、それでも静かに笑ってくれた。
「来てくれて……ありがとうね」
「……今日は、初七日だと、聞いたので……」
「ええ。あっという間ね。まだ……時間の感覚がうまく戻らないわ」
声はかすれていたけれど、その語尾にほんのわずかな強さがあった。
俺は頭を下げ、招き入れられるままに靴を脱いだ。
家の中は静かで、線香の匂いがかすかに漂っていた。
通夜の夜と同じ空間に、再び足を踏み入れる。
けれど、空気は少し違っていた。
重さの奥に、何かが沈んでいるような──そんな気配。
リビングの一角。
白い花々に囲まれた遺影は、あの夜と同じ場所にあった。
けれど、どこか違って見えた。
俺はそっと手を合わせる。
真正面から、彼女の笑顔を見つめながら。
どこか遠くて、やっぱり、届かない。
彼女の母が、アルバムをそっと差し出してくれた。
「もしよかったら……。学校の写真も、たくさんあるから」
ありがとう、と口の中で言って、俺はそのページをめくる。
彼女の笑顔。ふとした横顔。文化祭、体育祭。
どれも、自分が知っていた彼女とは、ほんの少し違っていた。
俺の中にあったのは、名前も呼べなかった距離のままの記憶。
ここには、ちゃんと生きていた彼女がいた。
ページをめくる指が、少し震えた。
誰にも見られないように、スマホを取り出す。
一回だけシャッター音が鳴った。
その行為が正しいのかどうか、自分でも分からなかった。
けれど、彼女の存在を残したかった。
この手に、少しでも触れていたかった。
「……彼女、学校では楽しそうにしてましたか?」
ふいに、彼女の母が問いかけた。
言葉に詰まりそうになる。
俺は彼女と、ろくに言葉を交わしたこともなかった。
「……はい」
小さく、それだけを返した。
嘘だと、思われたかもしれない。
けれど、あの笑顔が本当に存在していたことは、否定したくなかった。
玄関先まで見送られ、もう一度、軽く頭を下げる。
扉が静かに閉まり、音がすべて遠のいた。
* * *
帰り道、空を見上げた。
低く垂れ込めた雲の隙間から、わずかに陽が差していた。
その光が冷えた空気をわずかに和らげ、頬を撫でていく。
手の中のスマホを見つめる。
アルバムの中に、新しく加わった“彼女”の写真。
ピントは甘く、照明の反射で白飛びしていたけれど、
そこには確かに、彼女がいた。
声も、仕草も、記憶の中ではぼやけていく。
けれど、たった一枚の写真が、その距離をほんの少しだけ縮めてくれる気がした。
胸の奥が、かすかに軋む。
それが痛みなのか、何かが始まる合図なのか、自分でも分からない。
この小さな違反が、俺の中で何かを壊し始めていた─
それは、静かに、でも確かに。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
主人公が“何もできなかった”という事実に静かに向き合いながら、
それでも確かに何かが動き始めている──その感覚を描きました。
次回は、裁判の傍聴という“制度の場”で、彼が初めて「法」と向き合う場面になります。
感情と理性、正義と納得。そのどこにも“救い”がないことを、彼は知ることになります。
どうぞ次回もよろしくお願いいたします。