子供
この作品はAIによる補助が行なわれています。不快感を感じる方は閲覧を推奨しません
結婚して三年。 彼は優しい夫だった。 朝は「いってきます」のキス、夜は「ただいま」と温かい手。 すべてが、普通で、幸せだった。
春に芽吹いた新芽のように、私たちの間にも、新しい命が芽生えた。 つわりに耐え、食事に気を遣い、夜中の胎動にも起き上がって語りかけた。 彼はいつも笑っていた。お腹をさすり、「楽しみだね」と言った。
生まれたのは、梅雨が明ける少し前の夜だった。 赤ん坊は元気に泣いて、私はその顔を見て、何度も何度も「ありがとう」と言った。 彼も泣いていた。私は幸せだった。
……最初は、ただの冗談だった。
夫「意外と俺には似てないなー」
夫「ほら、目元、沙月の家系じゃん?」
産後の頭で、私は深く考えなかった。 家族みんなが笑っていたし、私も「そうかな?」と笑った。
けれど、彼の言葉は日を追うごとに、
少しずつ変わっていった。
夫「やっぱ変じゃない?」
夫 「俺の親にも言われたよ、“あんまり似てないな”って」
夫「……本当に、俺の子?」
笑いながら言っていたはずの言葉が、笑いで終わらなくなった。 私は否定した。何度も何度も否定した。 怒りも、悲しみも、混ぜ込んで。
でも彼の目は、私の声を通り抜けていった。
夫「お前、妊娠してた時、やけに外出してただろ?」
夫「思い出したけど、大学時代の男友達と連絡とってたろ?」
夫「ごめん、信じられない。……俺、限界だわ」
その一言で、彼は部屋を出ていった。 荷物はあらかた持ち出されていて、テーブルの上には署名済みの離婚届。 「出しといてくれ」とだけ、メモがあった。
赤ん坊は泣いていた。 でも私には、あやす腕がなかった。 代わりに、無意識のようにその子の顔を見つめていた。
……どうして、似てくれなかったの。
私は何もしていない。 他の男なんて、知らない。 浮気なんて、想像すらしたことがない。 それでも——彼は、いなくなった。
私「……あんたのせい、でしょ」
小さな口が、ぎゃあと泣き叫ぶ。 私は無言で哺乳瓶を差し出した。 母乳は止まっていた。
子供が小学校に上がってから、三年が経った。 はじめの頃は、入学式の制服姿に微笑んだこともあった。写真も撮った。 でも、それは「母親としての義務」だった。 “愛している”からじゃない。ただ、「そうするもの」だと思ったから。
最近は、家に子供がいる時間が長く感じる。 学校から帰ってきて、玄関の扉が開く音がするたびに、体が勝手に強張る。 「ただいま」と言う声が、耳障りになってきた。
黙っていても苛立つ。 しゃべっても苛立つ。 こっちを見ているだけでも、腹が立つ。
私はなるべく目を合わせないようにしていた。 それでも、子供はリビングにいる。息をしている。何かを話しかけてくる。
子供「ねえ、おかあさん、今日ね——」
私「うるさい」
反射のように口が動く。声のトーンも、もう抑えない。
私「さっきからなんなの。静かにしてって言ってるでしょ」
私「学校で話せばいいじゃない、なんでいちいちこっちに言うの」
私「こっちは疲れてるんだけど」
子供は黙る。私は、テレビの音量を上げる。 そうして、自分の世界に引きこもる。
週末になると最悪だった。 朝から晩まで、ずっと家にいる。 テレビのチャンネルを変える音、ゲームの効果音、リモコンのボタンを押す音—— それらが全部、私への「挑発」のように聞こえる。
私「……なに、その顔」
私「睨んでんの? 私を?」
私「まったく、ほんと……どうしてこんなの産んだんだろうね」
言葉は、止まらなかった。 怒鳴るでもなく、冷静に、抑揚もなく。 ただ、私の中の何かが、毒のようにあふれていた。
家の中では、私が絶対だった。 子供がなにを感じていようと、私は知らないし、知りたくなかった。
ある日、ランドセルを投げ捨てるように置いたその仕草が気に障った。 私はすぐに立ち上がって、子供の肩を掴んだ。
私「ちゃんと置きなさいって言ってるでしょ」
わざと強く言った。声は低く、刺すように。 子供は何も言わなかった。 黙っているのがまた癪に障って、私はもっと強く——
けれど、その時、ふと気づいた。 その顔。その目。
——どこにも、似ていない。
やっぱり、この子は私の「間違い」だ。
そのまま私は子供の肩を離し、ため息をついた。 部屋に戻ってドアを閉め、鍵をかけた。 そして、毛布にくるまって目を閉じた。
私「……疲れた」
言葉が口から漏れる。 でも、眠れなかった。 頭の奥で、さっきの目が焼きついていた。
子供は、いつから笑わなくなっただろう。
もともと愛想がいい子ではなかった。そう思っていた。 けれど、幼い頃には、たしかに笑っていたはずだった。 人に向ける笑顔じゃなくて——私に、向けていた、気がする。
でも今はもう、私の中の「その顔」は思い出せない。
朝起きても、リビングには無音が流れる。 食卓には、いつからか私の分しか食器が置かれなくなった。 洗濯物の中にも、その子の服は混ざっていない。自分で洗っているらしい。
まるで、家の中に「いない」ようだった。
それが心地よくもあり、不快でもあった。 私の中の「何か」は叫んでいた。 なのに私は何も行動しなかった。 だって、あの子は——私の人生を壊した、存在だったのだから。
ある夜、ふと、寝室の前を通る足音がした。 私は何気なく声をかけた。
私「ねえ、ちょっと、最近どうなの。学校とか」
返事はなかった。 立ち止まりさえしなかった。 まるで聞こえていないかのように、静かに通り過ぎていった。
その後ろ姿は、私の知っている「あの子」ではなかった。 小さな背中に、空洞しか見えなかった。
ある日、私は夢を見た。 小さな手が、私の手を握っていた。 「ママ」と呼ばれて、私は泣いていた。 その夢から目が覚めたとき、私は初めて、本当に「会いたい」と思った。 ——あの頃の子に。
リビングに降りると、そこに彼がいた。 子供だったはずの彼は、もう別人のようだった。
表情がない。 まぶたも頬も動かない。 目は開いているのに、どこも見ていない。服は少し鉄の匂いがした。
私は、震える声で呼びかけた。
「……ねぇ……あんた……遥翔じゃないでしょ? ……ねえ、誰なの……ねぇ……」
子供はゆっくりとこちらを向いた。 感情の抜け落ちた目で、私を見た。 そこには怒りも憎しみも、悲しみすらなかった。
ただの空洞。 まるで、抜け殻だった。
私「……ごめんね……私、全部、間違ってた……」
私 「お願い……あの子を、返して……あの笑ってた……私の……遥翔を……」
私は泣きながら、足元にすがりついた。 やっと、本当の後悔が胸に溢れ出した。 ようやく「取り戻したい」と思った。
でも、子供はまっすぐに言った。
子供「★{/:=$&>/|~□」
その声は、機械のように平坦だった。何を言っているかは本能的に理解できた。
「ほら喜べ、もうあの煩わしい人間はいない。ソナタの望んだ人間に取り変えたぞ」
私は首を振った。言葉を失った。
「ソナタには、できない」
「ソナタには、見えない」
その声には、神のような冷酷さがあった。 人間の子供ではなかった。 私は、自分の手でその“何か”を作り出してしまったのだ。
泣き叫んでも、しがみついても、彼の目は何も映さなかった。
私はその場に崩れ落ちた。 声も涙も、もう止まらなかった。
世界が静かになっていく。 壁のシミが、にじんで見える。
ああ、私は—— ——ただ、 母親になりたかっただけなのに。
それから、彼は口を利かなくなった。 私も話さなくなった。 日々の記憶が失われていき、食事の時間も忘れた。
何も感じない。 何も考えない。
あの子は、もう「ここ」にはいない。 私の中にも、何も残っていない。
この家には、ただ風の音だけが響いている。