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三章 十七歳、夏  雷鳴の夜6

 その日も、塾に残れるだけ残っていた。

 帰る時間になっても、帰りたくなくて、足取り重く自宅まで歩く。

 以前は夜道が危ないのもあり、バスで帰宅していたが、ここ最近は少しでも帰宅時間を遅らせたくて、一分一秒でも家から遠ざかりたくて、わざと歩いて帰宅していた。

 途中、この付近では治安が悪いとされている小さな歓楽街に差し掛かった。

 その通りを突っ切るのが家までの近道なのだが、迂回しても帰ることはできるので、いつも通り迂回して帰ろうとした。

 その時、急にざあーっと勢いよく雨が降り始めた。よく耳を澄ませると、遠くではゴロゴロと雷が鳴っている。

「やばっ!!」

 さすがにずぶ濡れにはなりたくなくて、近くのシャッターの閉まった店の軒下で雨宿りする。

 この雨で、外で客引きしていた、きらびやかな男女もささーといなくなっていく。

 飲み屋を渡り歩いていた人々は、慌てて手近な店へと入っていった。

 まさか、飲み屋に入るわけにもいかず、私は強い雨のせいで悪くなった視界をぼんやりと眺めていると、ふと見覚えのある人を見た気がした。

「えっ、あれって……」

 夜の闇が見せた幻か、はたまた、勉強のし過ぎで目がおかしくなって見間違えたのかと、ごしごしと目を擦ってもう一度そちらを見てみるが、その影は消えなかった。

「ーーーー」

 息を飲み、店の軒伝いにその人影に近づく。

  激しい雨音と、近くなってきた雷鳴が私の痕跡をかき消してくれた。

「確かめなきゃ。私の勘違いだよね?」

  鳴り響く心臓が雨音と混ざって嫌な音を奏でている。頭の中は真っ白に染まっていた。

私は、何度も勘違いだと繰り返し呟いた。それが真実になるようにと祈るように。

「ーーいた」

 雨音に潜むように、移動する人影の後をつけ、顔がはっきりと見えるように建物の影へ回りこみ移動する。そこからそーっと覗き込むが、光の加減でうまく顔が見られない。

「もう少し明るければ見られるのに」

 雨なのと、この周辺には一昔前の白色の街灯しかないのも相まって、視界がひどく悪かった。

それでも、どうしても離れがたくて、しばらくその物陰にたたずんでいると、急に稲光が走った。

 ついに雷がこの近くまで来たらしい。

 私はいよいよ帰らないとやばいなと思い、最後の一度の確認とばかりに、先ほどの人影をもう一度、目を凝らして見やった。

 瞬間、闇夜を稲光が切り裂き、爆音とともに激しく光った。そして、その時、私は確かにその人影の顔をはっきりと確認した。

 その人影が、私の父だということを、はっきりと。

 父は、単身赴任中のはずだ。よしんば、何か理由があり戻ってきているとしても、女性とこんなところで二人でいる必要はないのだった。

 私はその場に縫い留められたように、その場から動けなかった。稲光で何度もその人たちの顔を確認した。

 やがて、雨を嫌ったのか、その二人の人影が雨宿り先の軒下から、走ってどこかに消えてゆくまで私はその場から動けずにいたのだった。


 二人が見えなくなってしばらくして、私は壁を背にずるずると座り込んだ。

  口からはから笑いがこぼれた。

「こんな、こんな昔の映画みたいなこと、ある?」

 知りたくなかった。知らないふりをしていた。たとえ、父から嗅いだことのない香りがしても、気のせいだろうと思っていたかった。

「いたいなぁ……」

 雷鳴はさらに鳴り響き、雨足は強まるばかりだったが、それらはどこか遠い世界の出来事のようで、私はふわふわと雨が空からしたたり落ちるのを見つめていたのだった。


 カチャリ。

 いつもより、二時間以上遅い時間に私は帰宅した。

 扉が開く音が鳴り響いたと同時にリビングから母が出てきた。

「綾香!!遅かったじゃないのっ!! ……まあ、ずぶ濡れじゃないの!?」

 私に対して怒ろうとしていただろう母は、ぬれねずみな姿の私を見て、矛先を収めたみたいだった。

「…………」

 泣きはらしてかすむ目で、母をぼんやりと見る。歪んで見える母の顔は、久方ぶりに、【母親】の顔をしているように見えた。

「……綾香? 何かあったの?」

 眉をひそめて、心配そうに母が聞いてくる。

ぎゅっと目をつむって、何も言わずに母に抱き着いた。

「あら、まぁ。本当にどうしたの?もうっ、私まで濡れるじゃない」

 文句を言いながら、離れて行こうとしない母に安堵する。

 ーー母は、私を愛してくれている。

 すがるように心の中で何度も繰り返した。

 抱きしめ、抱きしめられているぬくもりは温かいのに、心配されていることも心地よいのに、私の心の中はどんどん空虚になっていくようだった。

 心のかけらが砂になり、零れ落ちていく音が鳴り響いていた。

 

 遠くにまだ聞こえる雷鳴が、時折漏れ聞こえる激しい音が、夏の終わりを私に告げていた。

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