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6-1 母親が居ない時を見計らって、コップに入れた糸こんにゃくを電子レンジで人肌にチンしていたのだ!


 ようやく公園の出口にたどり着いた。もうここまで来れば安心だ。


 人影もちらほらだが見える。まだ年若いカップルの姿もみえる。入り口に設置された時計を見るに、まだ八時を回ったところだった。


 目の前の煌々とした明かりを灯すコンビニで小休止を、とも思ったが、そんなことをしている場合ではない。


 今も俺を追跡する桐生の手の者が闇の荒野を駆けているのだ、早々にこの場から離れるのが吉というもの。なにより俺の名が科学部にも、公園管理事務所にも知れ渡ってしまったと考えていいだろう。それが学校に届くまでにどれほどの時間を要するのかは解らないが、早急に誤解は解かねばならない。


 高校最後の俺の夏休みは、最悪の幕開けだった。そしてこの追跡劇は未だ序章であるということを、俺はこの時点で気づいていなかった。


 なるべく追っ手の目を欺けることが出来るように、俺はわざと人通りの多い路地を選んで逃げた。おのず普段は避けるような飲み屋街と言われるエリアへと、進入するより仕方がなかった。


 ネオンの下を制服でうろつくには憚られるのだが、この時点で警察に補導でもされるなら、それは俺にとって身柄の保護とも言えるような状況だった。


 しかしそこに、俺は見慣れたものを発見する。


 眼前に佇む小柄で小太りの男。


 おかっぱ頭に、気弱そうで惑うような瞳。何事もはっきりと言葉にして主張できないと思われがちな口元。彼を見て人は言うだろう“家畜的草食系男子”ブタと。だがそれは違う。


 馬のように精悍でもなく、ブタのように愛らしくもない。かといって牛のように温厚で穏やかでもなければ、羊のように臆病でもない。


 奴を指す言葉があるとすれば、ヒッポポタムス。


 自身よりも獰猛な獣にさえ牙を剥き、その肉を噛み骨を砕く、温和な草食獣の顔をした熱帯雨林の危険生物、――――カバである。


 アフリカではカバによる襲撃で、年間五百人もの死亡者を出しているという事実は、意外に知られていない。カバが温厚であるなどというのは、あの外見の鈍重なプロポーションと、歯抜けのような顎、水面で目と鼻を出して浮かぶ間抜け面が印象づけた偏見に過ぎない。


 彼らは陸上では時速四十キロもの速度で走り、草食獣としてだけでなく、陸上生物としてみても最大級の顎は、縄張りを侵したワニの胴すら真っ二つにする。人間など襲われればひとたまりもなかろう。

 侮ってはいけない。それが小山田という男である。


 先日、俺も奴とやり合って負傷したところだ。


 小山田は背を向け光り輝く街に向かって屹立していた。肩幅よりやや開いた両足で大地を踏み、両の脇腹あたりで拳を握りしめる姿は、何か重大な決意をした者のように毅然として見えていた。


 声をかけるべきかと悩むうち、彼は足を踏み出し、禁断のゲートをくぐろうとしていた。いかん、いかんぞ小山田!


 既にこの時俺は、自分の立場を忘れ、小山田を追いかけていた。


 この街に唯一存在する、飲食店や居酒屋が軒を並べる三百メートル四方の繁華エリア、その中でも通称『栄町』と呼ばれる一角の入り口には、ネオンに彩られた豪奢なアーチがある。


 アーチの先は色とりどりの猥雑なネオンが明滅し、怪しげな店舗がひしめき合うディープスポット。地元では十八歳未満の出入りは暗黙的タブーとされている、いわゆる風俗街である。


 街の繁華街発祥の地として古くから庶民の憩いの場として、また紳士の社交場としての役割をこなしながら発展してきた区画であったが、アーケード商店街の広がり、駅前再開発と共に駅直結のマンションや併設するショッピングモールの発展が、栄町を時代の隅へ、アーチの向こう側の異世界へと追いやった。


 そうして栄町は香ばしさの純度を増しながら、風俗街の色を濃くしていったという背景がある。アーチはかつての輝かしい歴史の名残であると同時に異世界への扉、貞操を握りしめ日々苛む俺達男子高校生の間で、アーチは、『ゴールデンゲート』と呼び継がれるようになって久しい。


 そしてアーチをくぐる者を冒険者。戻ってきた者を勇者として称えた。

 

「まて! 待つんだ小山田!」掴んだ肩がびくりと跳ね上がった。奴はゆっくりと振り返り、俺を認めると、その小さな目を見開いて憮然とした。


「……いいのか、それで」問い詰めるように俺は言う。


 ようやく正気に戻ったのか小山田は、俺の手を振り払い身を引く。


「くッ、国重! 貴様! こんな所で何をしている……貴様死んだはずでは……」


 いつ死んだのだ、俺は。


「お前こそ何をしている。いや、どこへ行こうというのか!」


 ゲートを一瞥し、俺の目を見ようとしない小山田の顔を覗き込んだ。


「き……貴様には、関係のないことだ」


「あっちの世界に……行こうとしていたな?」


「……何が悪い! 俺には出来ないというのか! 貴様は俺を見くびりすぎだ! 今までお前は俺を散々見下してきた! だが俺はこの夏を越した時、お前達とはもはや別のステージに立っているだろう。純文学を勧奨する文芸部の副部長たる者、部長を補佐するに経験不足では何かと不都合があるだろう。ふふっ……俺はさっちん・・・・の足手まといになる訳にはいかないんだぁあっ!」


 なるほど、自らを偽り、信念をねじ曲げ副部長の地位を手に入れていたか。しかし今の俺にとっては部長も副部長もどうでも良い。ただ、小山田の口から“さっちん”という名が出たことは、胸にわずかな痛みを感じた。


 まさか小山田と桐生が……いや、そんなことはない。もしもそうであるなら、小山田が今このゲートの前に立つなどという必要はないはずだ。


「そもそもお前は十七歳だろう! たとえゲートをくぐったとしても試練は受けられんぞ!」


 決定打だ。そう、十七歳では風俗店には入店すら許して貰えまい。


 ところが小山田は口角を引き上げると、勝ち誇ったような笑みを浮かべていたであろう俺のことを、逆にあざ笑った。

「はッ、つくづく愚かだな、お前という奴は。俺は今宵の零時をもって十八歳になる。後三時間後だ。国重よ、俺の誕生日まで忘れているとはな……お笑いぐさだ」


 お前は律儀に三時間をここで過ごそうとしていたのか――というより男の誕生日など誰が覚えるものか。たとえ教えてもらったとしても、俺はあらゆるリスクを承知の上で、記憶除去装置の被験者になる。


 小山田はぴちぴちのTシャツ姿で胸を張り「俺は、今宵、勇者になる」と密やかに宣言する。


 世間には“ヤラハタ”という言葉がある。


 “ヤラずにハタチ”の略、つまり童貞で成人を迎える事、または迎えた者を指す蔑称であり自虐呼称である。


 二十歳にもなって童貞など恥ずかしい、というバブル時代の古代思想が作り出した言葉ではあるが、当時でさえ実際の調査では、二十歳で経験済みは四十パーセント。童貞は半分以上の六十パーセントであり、珍しくもなかったそうだ。


 であるから、それより二年も若い十八で経験できたなら、それはまさに勇者と呼ぶに等しいのだ。


 だが諸君、はたしてそれら全てが本当に勇者と言えるのか。


 少し考えてみる余地はあるのではなかろうか。


 そもそも恋人がいるティーエイジャーは、どの時代においても多くて三十パーセント程度であり、男性だけに限れば二十パーセントあたりを足踏みするのが現状である。


 そう、十代男子に恋人がいる率は、たかだか二十パーセントなのだ。


 ではなぜ恋人がいなければ成立しないはずの性交渉を、体験済みの男子が四十パーセントにも達するのか? 


 もうおわかりだろう。それらの半分を占める二十パーセントの男子は、仮初めの勇者であるということだ。


 ゲートをくぐった冒険者。儀礼的な試練を受け、とりあえず勇者と認定されただけの、実績のない偽物である。二十歳で俺は童貞ではない、と豪語する者の中に、十八歳になった誕生日にゲートに急ぎ駆け込む輩や、二十歳の誕生日を目前に滑り込む輩がいるということだ。


「そ、それの何が悪い……一回は一回、事実は事実だ。ははっ、悔しければお前もこのゲートをくぐるが良かろう」


 不敵な笑いを浮かべる小山田は、確かに見た目以上の勇気と度胸とフットワークの持ち主だ。けして家畜性草食系男子ただのぶたやろうなどではない。だが、違うぞ小山田。


「残念ながら、俺はそのゲートはくぐれない」


「ははっ、そうだろうな! 貴様にはその資格はない! 度胸もなければ、根性もない! そして金もあるまい!」


「……いや、違う。そうではない」


「ふッ、負け惜しみか。俺はこの日のために五百円玉貯金をし、来る日も来る日も毎日朝晩のトレーニングでずっと鍛えてきたのだ。時間と機会があればイメトレに明け暮れ、母親が居ない時を見計らって、コップに入れた糸こんにゃくを電子レンジで人肌にチンしていたのだ! 貴様に出来ようか、いや出来まい! その努力の差たるや、もはや天と地! 電コケとゴーヤだ!」




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