4-2 むしろこの、未来のレイプマンを突き出してしまった方が、世のため人のため、全女性の貞操のため、世界平和に貢献する事になるだろう。
だが、その時――――
空圧系の機器が圧力漏れを起こし、気体が一気に爆散したようなけたたましい音が店内に響き渡った。
せっかく取り戻しかけた視界は、もうもうとしたピンク色の煙に奪われ、俺は危険を感じて再び目をきつく瞑った。
「うわっ! なんだ!」
「なんだこれ! 目が痛い」
「きゃあ! 何も見えない!」
「ぶぁあっくしょん!」
「鼻がぁあ!」
あちこちから悲鳴と、咳とくしゃみが上がった。
「おのれ! 謀ったな! 皆のものであえ! であえ!」
桐生の雄叫び。
混乱の中、俺は両足を何者かにつかまれて、引きずられた。途中金属のレールのようなものに後頭部をぶつけたから、おそらく店外へ出されたのだろうと思った。
両手足の自由を奪われた俺は、そのまま何者かに小さな台の上へと載せられ、ごろごろとした感触を背中で感じながら、ひりひりする目を薄く開いた。移動している。俺が載せられているのは手押し台車だろうと思った。
ではその台車を押すのは何者か。俺は身をよじり、手押しハンドルを操作する人物を確認すべく、顎を引き上げた。
「危ねぇ所だったな。間一髪ってとこだな……」声がくぐもっているのはその人物が被る大仰なフルフェイスタイプの防毒マスクのせいだろうが、彼が誰なのかは俺にはすぐに判った。
「……三条! どうしてお前が!」
台車を押しながら三条はマスクを脱いで、にいっと歯を見せ、笑った。
「かははっ、なんだその驚きようは。幽霊じゃないぜ。ホラちゃんと脚もあるだろ」
そういうことではない。だいたい、何故死んだことになってるのだ。数時間前の終業式でお前の姿は確認している。
三条は書店からくすねた台車に俺を載せたまま、随分離れた場所まで走った。
「ここまでくりゃ大丈夫だろう。おっと、目をこするんじゃないぜ、まずは顔を洗え」そういって、俺の手足の拘束を解いてくれた。どうやら近所の緑地公園らしい。
「一体どうなってるんだ……どうしてお前が……」
顔は洗ったが、服も髪も白っぽい粉でまみれていた。それは独特な化学臭で、嗅ぐと今にもくしゃみが飛び出しそうだった。
「さっきのはなんだ? 煙幕か?」
「なあに、心配ない。リン酸二水素アンモニウムの圧縮充填ボンベの先端に、ピペリン粉末とカプサイシン粉末を充填した、吸い上げ式コンテナを専用フレームで接続した、暴徒鎮圧用のノンリーサルウェポンだ」
つまり三条自作の謎装置で、コショウと唐辛子の粉末を、消火器の内容物と一緒に空圧でばらまいたのだろう。どうりで奴らが、目が鼻が、と騒ぎ立てた訳だ。部員達もさることながら、さぞ書店は甚大な被害を被ったことだろう、あれだけ暴虐にさらされて、胸の空く思いだ。
しかし即座にあの店主の怒り狂う顔が目に浮かんで、数滴チビった。
「はっ、はは! さすがは科学部だな……」三条の行いも含め、あとのことは考えまいとして、三条から、ここまでの事情を聞きたい。
「いや……俺は研究所を追われた。もうあそこには戻れないんだ」
深刻な声をして、俯き加減に俺のことを見やった三条ではあったが、科学部員を称してあれだけいい加減なことを喧伝していれば追われるのも無理なかろう。科学部から恨みの一つや二つ、いや、俺以上に抹殺命令が下っていたって不思議ではない。
「お前を見ていて、他人事とは思えなくてな。爪の先ほどの俺の正義感にも灯が点ったって訳さ」
意味が解るような、解らないような微妙な言い回しだが、なんにしてもあの状況から助け出してくれた三条には感謝する。
科学部には出入りできなくなったようだが、三条は文芸部から追放された訳ではない。従って俺が抜けた後の部内事情の情報を手に入れることはさほど困難ではなかったのだろう。文芸部サイドのおおよその事情を把握していた。
あのあと、つまりゲライモの踏み絵騒動で俺が気を失って隠遁生活に入った日から一週間、部内事情はかなり変化したようだった。
わざわざ上履きを脱いでゲライモを踏んだ小山田に対して、部の評価は上々だったそうだ。あの(・・)靴下で(・)踏むなんて小山田先輩はえげつない、とこれまでにないほどの畏敬の念を集めたという。上履きよりも不潔な靴下ってなんだ。
踏み澱んだ木ノ下にしてみても、あらゆる知識を駆使して究極的なダメージを与えるべくいかに踏むかを試行錯誤した結果の、“溜め”であったのだと解され、称賛を得たそうだ。
いずれも、さすが先輩、踏むだけという行為にしっかりとした文脈的変化を持たせた、と。
それに比べあの国重はとんでもない奴だ。本当にひどい奴だ。知らなかったとはいえ、あんな悪魔を先輩と呼んでいたなんて、とショックのあまり。有り金はたいてアイスを馬鹿食いして腹を壊して入院に至った女子部員までいたらしい。っていうか、それ俺のせいなのか?
「ひでぇ話だろ?」
ああ、本当にひどい話だ。日常の些末なトラブルが全部オレのせいになっている。
ちなみにその功績から、学園理事長直々の計らいで小山田、木ノ下の二先輩は名を取り戻したというから皮肉なものだ。今では悠々と窓際の上座に肩を並べて座り、小説執筆を再開しているという。
くそっ、裏切り者どもめ。
「俺はよく知らないんだが、桐生先輩の妹はなかなかのやり手らしいな」
かつて俺に愛を誓ったはずの女が、今は俺を亡き者にせんと、一年生部員を引き連れ、執拗に付け狙ってきている。
「ああ――とんでもない悪女だよ、三条。まったく、女というのはどうしてああも豹変できるのか、俺には理解しかねる」
「ふ、ようやくわかったか――女などそんなものだ、国重。永遠の愛を誓い合う二人などファンタジーの世界にしか存在しないんだぜ、きっと」
三条は座り込んだ端の雑草をむしって宙に投げた。
「ところで顧問の吉原先生は、どうしているんだ。終業式で姿が見えなかったんだが……知っているか? 三条」
「――辞めたってよ」
「辞めた? この時期にか?」
「そして、新顧問には白鳥が就いたそうだ」
なんだと。白鳥が顧問? 生徒じゃないか……。
そしてあの狂信者集団を引き連れる長こそ、新部長として就任した桐生幸子だという。
七月という半端な時期に桐生が部長を継いだのは、白鳥が顧問になったからであるが、そもそもは吉原女史が突然姿をくらませたためだ。
もちろんくらませたといっても、教師としては正式に退職したらしい。三条はその理由を担任にも訊いてはみたが、いわゆる一身上の都合だ、と教えては貰えなかったそうだ。
真っ先に思い浮かぶのは寿……じゃなくて引責辞任というやつだ。文芸部から、俺という危険因子を事前に排除できなかった責を負わされ、やむを得ず退職するより仕方がなくなったのかもしれない。
あの吉原女史にしてしおらしいとは思うが、サラリーマンなど、問題における個人の行為行動思惑は加味されず、結果的印象で全てが判断されてしまうものだ。
まあ、いずれにしても今の俺には関係のないことだった。彼女の行く先がどこであれ、彼女が行方不明であれ、俺には関係がない。
「ところで三条。一応訊くが、お前は何故科学部から追われているんだ?」
今の三条は伊達眼鏡も白衣も纏わず、俺と同じく終業式を終えたままの制服姿だった。
「研究所を抜け出した科学者が追われ、弾劾の対象となっているのだ、――フッ、おおよその想像はつくだろう?」
「研究所の名誉を著しく損ねたのだろう、その所員は」
「バカを言え国重、現実的に考えろ」
「熟慮するまでもない」
言い捨てた俺を横目に、三条は短く息を吐いた。
「……国重、これがなんだか解るか?」
三条は懐から茶色い掌大の小瓶を取り出し、人差し指と親指でつまみ上げるようにして、俺の目の前にぶら下げた。俺はそれを受け取り、園内を照らすライトの下で観察してみたが、ラベルも何なく小瓶の中の液体が何色なのかも解らない。
「さあな、見当もつかん。どうせお前のことだ――」
「――媚薬だ」
「は?」
「聞こえなかったか?」
三条は聞こえなかったかと問いつつも、声を潜める。
「この液体を意中の相手に含ませれば、我が意のままに出来る……媚薬だ。無論、必ずしも意中の相手である必要はないのだが……この意味貴様ならば解ろう」
「なんだ……と」俺もつられて声を潜めてしまった。
「そもそも俺が何故科学部に入ったのか。それはこいつを手に入れるためだった。――ああ、思えば長い道のりだった。これで救われぬ多くの民の元に光明が差すのだ」
「しかしお前は宇宙の――」
「いうな国重。機は熟したのだ。もはや後戻りは出来ん。そして、もはや手段を選べるほど我々に時間的猶予はない」
「しかし、そもそもSF小説復権のためにお前は――」
「いうな国重! 貴様も機会を逸し辛酸をなめたのだ、解るだろう! いや、解らねばならないのだ!」
三条、助けてもらったことには感謝している。ただお前と行動を共にしては危険が二倍か三倍に膨れ上がるような気がしてならない。
突如懐中電灯の光が俺達を照らす。
「いたぞ! こっちだ! 貴様、その薬を渡せ!」
どうやら追っ手は科学部の連中のようで、無論狙いは三条だ。本件に俺は無関係なのだから何も慌てることはない。むしろこの、未来のレイプマンを突き出してしまった方が、世のため人のため、全女性の貞操のため、世界平和に貢献する事になるだろう。
ところがだ、「まずい、国重。逃げるぞ!」
三条。まずこの状況で、いの一番に俺の名前を叫ぶな。俺が逃げる必要などないのだ、三条、お前だけ勝手に追いかけられていろ。
とはいえ、科学部の照らす懐中電灯の光が、こちらに向かって次々と集まってくる。
「何をしている国重! 文芸部を追放された貴様はこの世界を一度は諦め、滅びの道を選択した。しかし国重、お前は放浪した先で出会った少女を助けられなかった事を悔やんでいたな。巨大機動兵器『鋼鉄のドグマリン』のコクピットで静かに息を引き取る少女の死に顔は、穏やかであった。いや、それは微笑みにさえ見えた。それは国重、お前と過ごした日々がそうさせたのだ。その少女、キャシー・キャシャリン・レオローネの叔父、ヘン・リーアーサー・クラウス・マンジュニア三世が言っていたであろう。国重さん、姪のような運命を辿る子がこれ以上増えることが許されるような世界があってもいいのでしょうか。国重さん、あなたのような力ある者が何故こんな所でくすぶっているのですか! 国重さん! 国重さん! ねえ国重さんってば!」
「だから俺の名を呼ぶな! 連呼するな! そして最後の“ねえ国重さんってば”ってなんだ、マンジュニア三世の叔父さんの名前も台詞もおかしいだろ! いや、そもそもその設定はなんだ! キャシーって誰だよ!」
俺達は茂みに飛び込み、芝生の丘を転がり、闇の中を駆けた。背後で踊り狂う懐中電灯の光、光、そして怒号。
逃げるその間にも、三条はすさまじい勢いで俺に叫び続ける。
「そしてお前は気づいたのだ国重ぇ! 世界は美しい、しかしこの世界を穢す者達の存在があることを、どこかでお前は仕方がないと割り切っていたのだ! ビアンカ・ミル・レオローネに冷たくあたってしまったのはそのせいだった。思えばそれは自分の弱さが招いたのだ。彼女はそれを教えてくれた。そしてお前は言った、俺は国重だ、悪の組織よりかの秘薬を奪い、世界を作りかえてみせます! とな。俺とお前で作り上げる新世界への希望を阻止される訳にはいかぬ! そう言っただろう国重! 俺はそれにいたく感激し、貴様国重に賛同した! そして研究所を裏切り、秘薬をお前の元へと届けた! 国重よ、今こそ立ち上がる時なのだ!」
「立ち上がらねぇよ! 俺に媚薬なんて渡すんじゃねぇよ!」
「ちっなっみっにっ! ビアンカはお前の恋人で、キャシーの母さんで、お前は親子丼を目論んで母娘に近づいたという設定だ! 国重ぇえええええええ!」
「三条! たのむ! 死んでくれ!」
完全に俺も一緒に追われている。そしていつしか方々から聞こえる、三条に対するはずの怒号の中に、国重、国重と俺の名が混じりだしている。
まずい……このままでは俺は共犯者どころか、主犯者である。三条、今すぐ首を絞めて殺してやりたいが、そんなことをしている間に取り押さえられてしまう。
「オイ! 三条、さっきの煙幕はないのか!」
「残念ながらあれは一度きりだ。もはやあれを起動させるためのリソースがない」
「っていうか、お前何しに来たんだよ!」
「フッ……何をしに来た? マジで言っているのか?」
三条の眼がギラリと光った。文芸部を辞めてからというもの、全ての発言が全てにおいておかしかったが、今のこいつは違う。少なくともかつて知りたる文芸部時代の、SFをこよなく愛していた三条のそれだった。