3-2 けして外部からは開かぬ菊門を突貫する禁断の推進力なのではないのか
学校から数キロ離れた書店まで、変装をしたままひたすら歩いた。一週間ぶりに外出をしたせいか、暑さに意識がもうろうとし倒れそうになった。
しばし休憩をかねて途中のショッピングモールで涼をとる。
なあに、印税報酬はもう約束されているのだ、慌てなくともよい。
引きこもりだ、受験勉強だ、と両親を欺きながら、街中では顔を隠し、密かに受賞作の印税報酬を受け取りにゆくという行為は、じとりと内側から制服のシャツを濡らす汗のように絡みつく後ろめたさがある。
しかしそれとは真逆に、俺の胸中は夏の日差しのように冴え渡っていた。
このまま実績を積めば、俺を追放したあの文芸部を見返すことも出来る。それなりに名を馳せられれば、地元市民が俺の味方につく。もはや一賞すら獲得できていない雑魚一年坊どもが俺を狩るなどと、生意気な口を叩く事も出来なくなるであろう。
そんなことを考えながら、ついぞいつもの癖で階上の大型書店に立ち寄り、新刊のチェックをしてしまう。
ラノベに該当する作品の数は、一年前に比べても格段に減っていた。それも店舗の極隅の方の一角に、一昔前の劇画エロ漫画のごとき扱いで陳列されている。
レジ横の平積みコーナーでは、厭でも桐生幸子の受賞作品が目に飛び込んでくる。
ポップには“期待の大型新人、待望の新刊! 早くも増刷!”とある。
時代小説の分野で高校生は極珍しい、それが女子ともなればさらに注目度は上がる。
常に言われることであるが、実力と賞は必ずしも比例するものではない。
世の中が桐生を女子校生だと認識するのと同じように、審査においても同じ無意識のバイアスはかかる。それは作者、すなわち作家としてのアイデンティティを冒涜する論理であると断じられたとしても、審査するのが人間である限り避けられないのである。
おっさんは無条件で女子校生が、好きだ。
特に出版社が営利を追求する組織ならば、なおそこに利益追求のための営業戦略が仕組まれることは必定。売れる作家はもちろんだが、売れそうな作家の背を押すのは当然であり、押して押して押しまくっても崖から落ちない作家を、より多く抱えることが出版社の利益に繋がる。
作家という職業は常に崖っぷちなのだ。受賞の瞬間から断崖絶壁の辺縁へと立たされる。そして多くの作家が、二押しか三押し目で墜落する。
賞を取ったのに? デビューしたのに? プロなのに? そう一般人なら思うだろう。
この日本国内だけで年間何人のプロ作家が誕生しているか、その数を知れば納得も出来よう。そいつらが専業作家としてまともに食っていけるほど本が出版され、かつ売れているなら、日本の国土は間違いなく本で埋め尽くされる。
文壇で生き残れるのはただ一握りの天才達だけであり、彼らの本だけが、このちっぽけな書店のキャパシティにこじんまりと収まっているのだ。
俺は密かに、桐生も白鳥もいつか崖に転落する時がくるだろうと、思い浮かべていた。えてして世間は熱しやすく冷めやすいものなのだ。
仮に白鳥が天才高校生の売れっ子作家にして男装の麗人というスーパーコンボを炸裂させたとしても、沸点は瞬間的なものに落ち着き、そう長く保たない。むしろ色物作家とみなされ、作品の質を疑う声が上がるだろう。
ショッピングモールの書店で夢中になって立ち読みをしているうちに時間が過ぎ、商店街の書店に足を踏み入れた頃には、日も暮れかかっていた。
「ちわっす、お久しぶりです!」できるだけ元気な声を出した。
書店の店主は、本の虫にはまるで似つかわしくない、身長百八十五センチ、筋骨隆々のやたらと体格のいいを中年男だ。
丁寧に整えた口髭に、スキンヘッドを頭頂に湛え、夏でも冬でも自身の肉体を誇示するためのぴっちぴちのタンクトップに、書店名の入った前掛けをしている。ちょうどファンタジー作品に出てくる、元冒険者で引退後は武器屋やって生計立ててる街の名物オヤジ、みたいな印象だ。
そんな強面のオヤジだが愛想はいい。俺とも小学生の頃からの付き合いで店先で会えば手を振る仲だ。
ところが彼は、店の入り口をくぐった俺を見て、招かれざる客を圧殺するかのような視線を向ける。「なんだ、てめぇ。ウチになんの用だ」と。
語調はヤのつく自由業の人のそれである。声だけでビビって、二滴くらいちびってしまう。
たじろぎ後ずさりし、一体何故? とおもったが、道理である。
俺は慌てて顔を隠していたサングラスとマスクを取り去り、改めて挨拶した。
「っおお、誰かとおもえば国ちゃんか。よく来たな」そう言って、カウンターの下にやった手をようやく抜いてくれたが、一体何を取り出そうとしていたのか。
「随分売れたんですね。予想外でした」
「まあ、売れたといっても三桁ぐらいじゃ自慢にもならねぇが、ここいらの人口からすれば、全国規模で一万部は売れた感じって捉えてもいいと思うぜ?」
「はは……比率の問題ですよね。よしてください、僕はそんな大それた人間じゃありません」
店主は店内にもかかわらず豪快な笑い声を上げた。わずかばかりいた客がちらちらと俺達のいるレジカウンターを覗き見る。俺は自分に注目されているようで、恥ずかしくなって咄嗟に顔を背けてしまう。
「とか言いながら変装なんざしやがって。おのぼりも大概にしやがれってんだ!」鍛え上げられた丸太のような腕で、ばんと背中を叩かれた。
まるでそれは、今俺が直面している逆境など叩き伏せてしまえといわんばかりの、強烈なエールに思えた。
「もうすぐ店じまいだ。雑誌でも読んで少しそこで待っていろ」そう言って店主は俺に、カウンター脇の個室――事務所だろうか、そこに入るよう促した。
店主は幾人かの客と談笑を交え、商品を精算し、最後の客を店先まで見送ると、がたがたと動きの悪いシャッターを下ろし始めた。その際外で人の声がしたように思えたが、まだ夕刻を過ぎて間もない時間帯だ、店じまいのついでに近所の商店主と雑談でもしているのだろうと気にしなかった。
ところがだ。
シャッターを半分下ろし、おおかた店じまいを終え店内に戻ってきた店主の様子は妙だった。やや脈拍を高めている事が窺い知れる筋肉の迸り、そして暴圧を予見させる表情筋の強張り。
俺は、この店主から感じるべき、しかるべき本来の感情を思い起こさせられた。
幼少の頃より暫く忘れていた、彼と初めて会った時の恐怖と同じものを。
逃げ場のない個室の壁に張り付いた背中以外の全身でそれを感じ取っていた。
今しがた俺を励ました丸太のような腕が、眼前に向かって伸びてくる。一体何がどうしたというのか、俺が何をしたというのか、さっきまで、ほんの十分前まであれほど朗らかに会話をしていたではないか、信頼関係が固く結び上がって癒着したかのようなウィンウィンだったではないか。
迷い、戸惑いは興奮を伴う、そしてそれはしばしば快楽と混同される。いや、逆だったか。
あの時の白鳥の言葉が頭の中を駆け巡る。
五枚刃使用でそり残しなど皆無、日に焼けたつやつやスキンヘッドは禿げ隠しなどではなく、まるで煮卵のような艶やかさをもって強烈に存在をアピっている。
それに反して控えめな口元には、毎日の手入れ怠ることはなく、あまりに整然した口髭が湛えられている。それは男らしさの象徴としてだけではなく、野性味あふれる生命の強かさを感じさせるだけでなく、なによりセックスアピールとして強烈に機能しているように思える。
そして鍛え上げ魅せつける、その隆々の筋肉は熊殺しのためなどではなく、ザバスで発達した四肢は、実は性的な自己主張でもあり、異性あるいは性の対象となるべく者を拐かすために利用することもやぶさかではないと主張しているのではないか。
彼が俺を受賞させたのは、端から俺との関係を迫るための口実であったのではないか。だとすれば、そもそも書店主に似つかわしくない筋肉も頷ける話だ。
書店主の容姿は知性ある人類に対し、抵抗が無駄だと思い知らしめる為の視覚的かつ心理的威嚇であり、かつそこから生み出される漢の色香と迸る筋力は、ほとんどあらゆるカテゴリーの男子を組み伏せ唯々諾々とさせるだけの拘束力を持ち、けして外部からは開かぬ菊門を突貫する禁断の推進力なのではないのか。
何故俺などを、ひょろくて不健康な文学青年の俺を、まだるっこしくもわざわざ賞を偽装してまで狙うのか――いや、愚問であろう。
男が全てのカテゴリーにおける女を攻略してしまいたい冒険心を持つならば、やはり漢もまたあらゆる男の可能性を追求する冒険者たらんと策謀を巡らせ、技を磨き、己の体力の限界までをも追求する百獣の王となることは厭わないであろう。
「いっ、や……な、なんでふくぁッ……」
けして抗えぬ力で、無理矢理俺の額が押さえつけられる。無意識の防御心理が大臀筋に力を入れさせる。
店主の背中越しにはまだ半分開いているシャッターが見える。まさかこの状況で俺を貫こうとでもいうのか。もし誤って客が入ってきたならどうするつもりか。あなたの商店主としての社会的立場は無論のこと、人としての品位、男としての立脚点、その全てを失うことになるのだ。――――いや、それなのか。それが狙いなのか。その隆々たる肉体とは裏腹に、脆くデリケートな自らの性的指向をあえて危険に晒すことで、この千載一遇の機会に究極的な性的興奮を得ようという魂胆なのか!
「こっ、こんなことをして――――」あなたは社会的地位をうしないますよ、と言いかけた口に何かが押し込まれた。口を封じられた。もうダメだ、声を上げて助けを呼ぶことも出来ない……舌を嚙んで死のうかと思ったが、押し込まれたモノの圧力でそれもできそうにない。
万事休すだと観念しかけたとき、店主は憎々しげに俺の顔を覗き込み、
「手切れ金だ……受け取りやがれ」
そう。口に突っ込まれたそれは、彼の性的指向に対する口封じとしては、充分なボリュウムを持つ、香ばしさ漂う茶封筒であった。