19 ファンタジー、死すべし
八月二十四日、俺は政府の用意した医療機関を経て解放された。
最終章を書ききったところで力尽きていたそうだ。それから丸二日眠り続け、今だ。
まだ真夏の光線を残す太陽の下で、俺の真っ黒い影だけがそこにあった。
「送るわ」という、吉原美奈子の運転する車の助手席に座り、流れる景色をぼんやり見ていた。 街も道も、人も、空も、おそらく風の匂いも、何も変わっていなかった。
あまりに視点の定まっていない俺の事をみて、心配になったのだろうか、「大丈夫? まあ、一週間の缶詰はさすがにきつかったか――さっきも説明は受けたと思うけど、これから君は政略兵器オペレーターの一員よ。有事の際にはまた呼ばれるかもしれないけれども、そうそうあることでもないから、そんなに気負わなくてもいいわよ」
美奈子の言葉はほとんど耳に入ってこなかった。空調の効いた部屋に一週間も居続ければ、夏のわずかに湿度をはらんだ空気が重く感じる。
太陽の光を浴びるのも、外の空気を吸うのも久しぶりだった。「少し寄っていきましょう」と、街が一望できる小高い丘がある公園の駐車場に車を停めた。
車を降りて改めて深呼吸した。見渡して気づいた。そこはかつてあの、狂気の逃走劇を繰り広げた緑地公園だった。
蒼空も雲もすっかり秋の様相を呈している。俺の夏は終わったけども、世界は終わらなかった。
「これからも創造創作媒体規制法は続くわ。この世界を維持しなくちゃいけない」
吉原美奈子は展望台の柵から身を乗り出し、吹く風に髪をなびかせた。
早朝の清涼感が、心地よかった。眼下に広がる町並みには、うっすらと靄がかかっていた。
「あなたが護った世界よ」
そう言われたとて、何の感慨も湧かなかった。
「――でも、脅威を一掃できることなんてあるんですか。それに、俺にとってはもう、ここは壊れた世界で、元に戻れるような気はしないです。とても、護ったなんて……おもえない」
急に涙が出てきた。もうあの日々には戻れないって思うと悲しくなった。
「脅威がなくなる日、か。もし仮にあるとしたなら――それは皆が一つの物語――神を語るときなのかもしれない」
「そんなのって……なんか、悲しくないですか……」
「さて、どうでしょうね……今の楽園に住まう人類が足掻いたところで、それはたどり着けない答なのかもしれない。私たち作家はね、禁断の果実――すなわち善悪を知る智恵の実をもいで、口にした者達なのよ。私たちだけが神を語る事が出来るの」
ヒグラシの鳴く声がかすかに聞こえた。差し始めた日の光に顔をしかめ、吉原美奈子はハンドバッグから取り出したサングラスをかけた。
「努力の末に得たものが、罪……なんですか」
「いいえ、そうじゃない。私たちは私たちの身の内にある渇望に気づいて、乗り越えてしまった。あなたもいずれ、イチジクの葉で陰部を隠すことになる」
「ははっ、楽園追放、ってわけですか。まさにこれからは俺が“原罪”となるのですね」面白くて笑ったのではない、ただ虚しかった。
一羽のトンビが飛んでいた。ぴーひょろろー、の鳴き声に乗って、「おおい! 国重ぇえ!」と、木ノ下が、小山田が、三条が手を振りながら駆けてきていた。
「くにしげぇえ! お前こそ真の勇者だよ!」と、歓喜の涙を流す小山田。
「世界を救うってのは、案外こういう奴なんだよな」と俺の腕を小突く三条。
いつもながら大げさなことを言う連中だ。それに、朝っぱらから騒がしい。
奴らは政略兵器のオペレーターのことなどしらない。
俺はテロ小説をネット上に流した疑いで勾留されていた、とそのように説明されているらしい。奴らの言う“勇者”や“世界”とは一冊のラノベを、身を挺して救い、自らの身を省みず態勢に抗ったバカ、というくらいの意味しかない。
そんな俺達を少し離れた場所で見ていたのが桐生先輩と、桐生幸子だ。相変わらず先輩は微笑んでいた。その隣の幸子の瞳は戸惑うように揺れている。眼球の表面がじわと潤んでいるようにも見える。
「先輩……国重先輩……」
「あ、ああ……どうした桐生? 俺はもう大丈夫だ」
俺は余裕の微笑みを湛えながら、むさ苦しい男子三人を引き剥がすと、彼女に歩み寄る。
幸子はしばし俺を見つめていたが、やがてふるふると首を左右に振り、俺に微笑みかけてくる。すまないな、心配をかけた。
驚いたことに、隣にいた桐生先輩は幸子の背中に手をやり、俺へと促した。幸子が歩を進めて俺に近づく。
しかし微笑んだと思われたその口元は、やがて頬の筋肉がこわばり、惑う表情へと変化すると、意を決したとばかりに真一文字に唇を結んだ。
「先輩方から聞きました。やはり、ほんとうだったんですね……これは……私に対する裏切りですよ……」
唇だけではなく、その純真たる眼差をより魅力的に見せていた眉尻はせり上がっており、心なしか呼吸も乱れているように感じられた。
なによりその折れそうな細い肩のわずかな震えは、両の拳を限界まで握りしめたせいであると、気づかない方がバカだと言えた。
地面を疾る影に気づいて空を見上げると、さっきのトンビが低空を旋回していた。見上げた瞬間太陽が視界に入り込み、景色が回って、俺は平衡感覚を失って尻餅をついた。
一週間あの特殊環境に居れば、体力も落ちる。
しかし、英雄的な戦いを終えて戻ってきても、現実の俺の世界は何ら変わっていないって事だ。そう都合のよい展開は待っていない。とっさに地面に手をついてダメージは免れたが、その事実を受け入れざるを得ない俺は、すぐに立ち上がる気持ちにはなれなかった。
「国重先輩!」
それでも心配はしてくれることに、少しは救われた。だから幸子には大丈夫だと左手を挙げるに留めた。そんな俺を見て幸子は言葉を続ける。
「でも、私こそ卑怯でした……」
「……なにが」
「国重先輩がラノベをこよなく愛していること。それを今の今まで隠匿してきたご苦労は如何ほどのものかと考えました。おそらくそれは大変なストレスだっただろうと。
私はそれを理解できなかった。自分には解らない、なのに人気があるのは気にくわない、だから読まない、だからもっと解らない、その繰り返し。その繰り返しで私たちは相互に理解することを拒んできた」
「お……おう……」
「お姉ちゃんを拒み、ファンタジーを拒み、国重先輩を拒み、作家の立場によって拒んできた。そうしてとことん拒んで解った。そのどれ一つとして私は解っていなかったのだと――いえ、解ろうとしなかった。
私はすっかり自分の殻に閉じこもっていたんだと。私は私の理解の及ぶものにしか目を向けていなかった。変わらねば、と」
「ん……ああ、そ、そうなのか?」
「代表的なラノベ作品は、全部読んだんですよ――――その、お姉ちゃんに借りて……」
「それって……」
「ゲライモはもちろん、近年発刊されたラノベはほぼ全てを読みました。あと、イモダイも。それだけは書架になかったから、小山田先輩のを貸してもらって読んだんです。それに処女貫徹のテロ小説まで……未完で残念でしたけど」
「う……小山田のイモダイ……それに俺の……そ、そうか……とにかく、まあ、見識が広がってよかったな、うん」
どうやら桐生先輩宅のラノベ蔵書は、当局より返却されたらしい。
一体何があったのですかと、幸子の背後に控える桐生先輩に視線を送る。
すると、
「国重よ、貴様も知っておるだろう。私は文化的な価値としてラノベにはじまる各種軽小説を蒐集はしていたが、貴様と違い本の内容になど興味はないからな。フッ……幸子がな、自分から読みたいといったから貸したまでだ。そもそもあれらは文芸部の備品なのだから、部員が読む権利はある」
そう言って、桐生先輩は腕組みをした右手の人差し指で、左の上腕を落ち着きなさげにタップしている。しかし、政府発行の許可証を持たない桐生先輩は、法令違反ではないだろうか。
そんな愚にもつかない俺の心配を余所に、桐生幸子はさらに俺に近づいて、耳元で囁くように言う。
「ご存じだとは思いますが、あの通りお姉ちゃんは不器用で堅物なんです」桐生幸子はそう言って悪戯っぽく微笑んで見せた。
それは、まあ、言われるまでもないが……またなんで……。
「お姉ちゃん――姉はあんな軽小説を自分から読むなんて事はしないんですよ、だから彼女が知らない世界を有することによって、私は勝てるって、そう思ったんです」
「勝てる……か。ひとつ言っておくが桐生、小説執筆に勝敗はない。小説が勝ち負けの道具であるべきではない、と俺は思っている」
「もちろん、そんなこと解ってますよ、私だってそう思ってます」
くふふ、と幸子は無邪気に笑った。続けてこうも言う。
「特に海原桐子先生の小説なんて、お姉ちゃんが読んだら卒倒しますよ、きっと」
桐生姉妹。
俺は、今君達のことが心の底から愛おしい。
誰もが、何故か、世界はたまたま平和であるのだと。たまたま平和な世界に生まれ落ちてきたのだと。そのように言う。
幸運だった、幸せだった、ラッキーだった。自分の意志ではなく、たまたま自分の人生がそこにあった、という言い方をする。あるいは前世での行いがよかったなどと言う者までいる。
たまたま、この世界があるのだと。
だから、この世界は誰かのおかげでかろうじて、常軌を保っている。そんなことを言うと、決まって人はこう言うんだ、“ファンタジーもほどほどにしやがれってんだ、この世界のどこにヒーローなんているんだよ”と。
「ホラ、立ってください国重先輩。お弁当用意してきたんですよ」そう言って少し離れた公園の東屋を指さす。「――わたしね、これ以上お姉ちゃんが欲しいものはあげないって決めたんです」
だけれども、ボクは、俺は、私は、たまたまこの世界で“君”と出会えたのだ、とそんな風に言う奴がいないのはおかしいじゃないか。
俺の身体を引き起こそうと握った手を懸命に引く幸子。だが、彼女の力だけでは俺の半身を起き上がらせるので精一杯だった。
そこへ、反対側の手を引き、背中を支え、服の埃を払ってくれたのは、我が愛しき同志達、小山田、木ノ下、三条であった。
彼らは両手を、せえので引いて、俺を起き上がらせた。それぞれの顔には自ずと微笑みが浮かぶ。俺はさながら不器用な天使達によって救われる咎人のようであった。
「なあ、これって、現実なんだよな……」東屋への道を歩きながら、思わず口から漏れた。
皆は笑って口々に当然だ、寝てるのか、しっかりしろよと囃し立ててくる。
「いや、ふと思ったんだ。俺達の誰もが、知らぬ間に想像創作によってこの世界を創っていて、まさかそれだとは誰も気づくことのないよう、理解の及ばない巧妙に仕組まれたロジックによって――」
「だとしたら――」後ろ手に腕を組み、すこし前を歩く桐生先輩が口を開いた。
「これは、キミの物語なんだろうな」と、まるで自分を納得させるかのような言い様だった。
そう言ったきり、先輩はやや顎を上げて空を仰いだまま、東屋に着くまで振り返ることはなかった。
だが、それとて神の描いたプロット上で踊らされているに過ぎないのかもしれない、とも思う。くやしいけれども。
だったら、あえて一言くらい言わせて欲しい。
「ファンタジー、死すべし」と。
これにて、ファンタジー死すべし シリーズ完結です。
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