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16-1 もうビックリこきまくりんぐです、よぉ

あの逃走劇のさなか、俺は偶然飛び込んだネカフェで、ジミー吉原・メガネ・美奈子と邂逅した。顔にシミ皺こそ見受けられなかったが、肌の張りは年齢相応、化粧気もなく、髪も三つ編みにして、身体のラインを感じさせない服装はおそらく学生時代に使用していたジャージの上下。その人生に疲れを感じ始めた瞳をごまかすかのような瓶底メガネ。


 およそ女性として魅力的と形容できる箇所がなかった。


 かつての憎むべき仇敵のこの様な姿を目にして、俺は拍子抜けした。もはや俺を窮地に追い込んだ時の暴圧的な彼女ではなかった。


 急に教職を辞したこと、何も言わずに俺達の前から姿を消したこと、そこには何か隠し事がある。そう、再会したときの様子からそれは確信になった。


 本意ではなかったが、彼女に誘われたネカフェのブースで、俺達はもつれ合い激情の末、みたのだ。あるいは彼女がそれを見せたかったのか。


 パソコンのモニターには見慣れた文脈、胸躍るレトリック、見慣れた固有名詞、唯一無二とも言えるその筆致。


 しかも、まだ俺が読んだことのない物語がそこに展開されていた。





 俺は両手を広げソファの背もたれに身を預け顎をあげ、吉原美奈子を捉えた。


「ふっ、先生。これは実に光栄なことではありませんか、長官直々にセンセイのファンであらせられると、おっしゃっておられる。暗・黒・便・所・センセイ?」と、鷹揚な態度で下目遣い、俯き加減になっている吉原美奈子の顔を見据える。


「く、国重君……その名前で私を呼ぶのはやめなさい。かつての私は君の先生だけども、こっちの先生との関係は君とはないわけで……」


「どぉーしてですかッ! 暗・黒・便・所・センセイぃ。つれないですね、サインくださいよ、木ノ下が喜びますよォ。これからは吉原・暗黒・美奈子便所、とお呼びしますよぉっ!」


「やめなさいってば……!」吉原美奈子はあきらかに困惑する。


 人の事は言えないがペンネームなどというものは凝れば凝るほど、鳴かず飛ばずの作家には後から痛々しくヒリヒリと身を焼く、スティグマとなる。それを避けるためにハイエンドアマチュア作家は、明日生ゴミと一緒に棄ててもいいようなペンネームを意図的につかう。


 経験豊富なワナビ達が精神に負うダメージを極力減らそうと編み出した、作家生活の知恵である。そしていつかデビューしたときに、大事に温めておいたペンネームを使うのだ。


 若き日の吉原美奈子こと、暗黒便所もそうだったのだろう。だが思わぬ事に、「現実世界でラノベが読めないから、異世界行ったけど、なんかもんくある?」、略して通称「ゲライモ」が処女作にして大ヒット、ロングセラー大作家となった。ウェブ小説サイトの時点からヒットしていたから、もはやペンネームを変えるタイミングもなく、そのままなし崩しに使い続けられた。


「まさかねぇ、暗黒便所が女性だったなんて、しかも俺の高校の元女教師だったなんて、もうビックリこきまくりんぐです、よぉ」


「君、言葉を慎みなさい。もう生徒と教師の関係ではないとはいえ、作家として先輩への敬意というものもあるだろう」金津園は俺を窘めようとしたが、そんなことはお前に関係が無い。


「しかもあろうことか、ご自身の行いは全くもって棚に上げて、後進の我々を散々弾圧し、純文学世界を後押ししてきた――さぞ気分のよかったことでしょうなぁ」


 吉原美奈子は肩をすぼめ、さらに顔を伏せた。


「手足をもがれて、生殖器だけで這いずり回る我々の姿はさぞ滑稽だったでしょう、まさになすすべなく喘ぐ姿は愉悦であったでしょう。それでもそんな連中がご自身を、暗黒便所先生を、最後の望みのように信奉し続ける声は、あなたの耳朶をさぞ官能的に震わせたでしょう。唯一、私だけが、この世界に君臨すべきであり、全てのラノベ読者は私だけを読めばいいのだと。さらにはご自身の本を、あまつさえそのラノベファンの生徒に踏ませて、何を図ろうとしたのですか? 本を足蹴にするなど誰が望んだと思いますか?」


 俺は息を吐き、首を振る。今更言ったとて詮無いことだと。


 だがこれまでに秘めてきた激情はどうにも隠し通すのは難しい。


「事実を知った俺は、あいつらになんて説明してやればいいんですか! こんな裏切りってないんじゃないですか?」


 金津園と吉原は肩をすくめ、互いに視線を交差させた。うしろめたいのだろう。


「ちょっと落ち着き給え、処女君。本来なら君にここまで足労を願うこともなかったのだよ」


「イヤ――――すみません長官。その“処女君”というのはやめていただきたい、国重でいいです」


「そ、そうかね。では国重君、そもそも君がネカフェで吉原さんの……」


「おおい、そこは暗黒便所先生でしょうよ!」


「う、あ……暗黒……便所先生の作品を、君がデリートしなければ、万事上手く収まるはずだったのだ」


「はン、もう一度書き直せばいいんじゃね?」


「いや、君がデリートしたのがどれほどなのか判っているのかね? 十万字以上だ。確かに先生は、海原桐子先生とも並ぶほどの神速の打弦者だ。だが頭の中にある物語を文字に起こす速さと、一度形にしたものを消して、再び文字に起こすことの大変さは、君にだって判るだろう? ほとんどの場合再現が不可能になる。もしくは変質する」


 金津園は焦燥感と悲壮感を纏いながら、俺に訴えかけてくる。


「だ・か・ら、やったんですよ。同じ作家としてあの時に出来る最大級の嫌がらせをしたんです。クリエイターは今まで創ってきた作品そのもの、もしくはその軌跡、もしくはその痕跡、記憶や記録、それらが消失することを嫌う。なぜならそれは自身のアイデンティティだからだ。過去の自分がなくなる、それすなわち自分は存在しなかったことにすらなるからです。俺達は吉原先生に自分の作品を全否定されて、無に帰さざるをえなかった。ひり出そうがいきもうが気張ろうが、なんにも出てこない二年間です。消された俺達は何も出来なくなったんですよ。それをさせた張本人はラノベ界のスーパースター、ゲライモの作者、暗黒便所先生ですよ! 俺達の全てを底知れぬ便所に投げ入れたんですよ、まさにクソのようにねぇ! ねえっ!」


 アカン、止められん。


「だいたいにしてあなたはずっと偽ってきた。そのスーツの下に隠したナイスバディに翻弄された生徒は数知れず、毎晩のおかずにされていることを自覚しながら、扇情的に振る舞い続け、ボディラインが露わになる衣服をあえて職場で着用することを同僚にも上司にも下半身で暗黙の了解をとっていたとて、結局ネカフェで見たあなたのあれは何ですか、誰もみていないからへそまで隠れる股上のユルユルパンツでもいいとでも言うのですか、誰にも触られることなどないから、カップ付きキャミのトップでいいなどと、ジャージのその下はあまりに哀れなあなたのなれの果てだ。緩みかけた身体を必死で補正して女の矜持を保つという、女教師、吉原・マドンナ・美奈子・ララバイ、という俺の妄想をぶち壊した――もはやあなたの心こそが暗黒の便所ですよ。暗黒便所! 暗黒便所! 暗黒便所! 俺は問いたいです、その事について今、どう弁明なさるおつもりか、さあっ!」

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