3-1 ヒョウ柄のブラが透けて見える、白い看護服に身を包んだ怠惰な医療事務員
白鳥茜。高校生にして文芸界に彗星の如く現れた期待の新人。デビューからたったの一年で全国にその名は轟いた。そんな人物が、うだつの上がらない高校生に混じり同じ文芸部で部活動として小説執筆をしているなどということが、そもそもまともではなかった。
いったい彼は、いや彼女は、なんのためにこの学園にいるのか。なんのために男装をしてまで文芸部に在籍しているのか。
いや、ちがうな。この世界は既に二年前からしてまともではない。その世界の上に白鳥がいるだけだ。ファンタジー規制が敷かれて、新しい作品が生まれにくくなった。仮にアニメや映画がリリースされたとしても、テレビ放送で流れるようなことはなく、全てが18禁のセルソフトか、年齢認証付きの有料配信となった。テレビ業界が保護者から訴えられることを恐れたのもあるが、なにより業界がそのようになれば文字通りファンタジー作品はアダルト色が強くなり、クソみたいなエロ作品だらけになった。
一時期はクールジャパンなどと、日本のアニメが産業として輸出されたものだが、このところはめっきりだそうだ。まあ、内容は見るまでもなくわかる。
敬礼のようなポーズだけして、俺を残し、そそくさと秘密の部屋から姿を消した天才高校生作家男装女子。
やはりあの時、問いたださねばならなかったのだ。
だが、もはや俺がかの文芸部に足を踏み入れることは出来ない。公に白鳥と接触することも出来ない。そしてあの白鳥の執筆部屋にも近づくことも出来ない。なぜならあの部屋は学園理事長室の奥にあったのだ。さすがは大先生といったところか。
あの日俺は暗くなってから、こっそり窓から抜け出し、なんとか無事に帰宅できた。
しかし、白鳥の助言通り、真っ先に桐生先輩に連絡を取ろうにも、電話が通じなかった。不在ではなく“電波の届かないアナウンス”である。
いきなりの本丸陥落で、さしあたり俺は、捕縛の危機から我が身を守るすべを考えねばならなかった。
ちょうど試験休みに入り、しばらく学校へ行かなくともよい日々が続くことになったが、俺は流浪の民よろしく、校内の文芸部関係者と連絡を取ることは出来なくなり、その身を隠遁する生活が始まった。
しかし、全世界を敵に回す事態に陥らないところなど、さすがは現実である。これがラノベの世界なら、俺はありとあらゆる国の警察組織、機密組織、賞金稼ぎやテロ組織に追われ、旧知の知人を訪ねる傍ら、かつてのライバルと邂逅、美女との色事を繰り広げながら、俺を嵌めた真の黒幕を突き止めるため、世界を股にかけ大立ち回りをする羽目になっていたに違いない。
そう、現実などこの程度のものなのだ。
だが、現実的には日常生活が不便極まりない。
近くのコンビニに行くにも、俺は帽子にサングラスにマスクと、季節外れの花粉症対策だと言い訳をしながらレジに並ばなければならず、本名を呼ばれかねない病院では、俺のことは『じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょのすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつくうねるところにすむところやぶらこうじのぶらこうじぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがんしゅーりんがんのぐーりんだいぐーりんだいのぽんぽこぴーのぽんぽこなーのちょうきゅうめいのちょうすけ』と呼んでくれと、事前に申しつけておいたにもかかわらず、ヒョウ柄のブラが透けて見える、白い看護服に身を包んだ怠惰な医療事務員は気怠い声で、無防備に俺の名を呼ぼうとするし、「お友達が来ているわよ」と声をかけてくれる母親に対しても、「うっせぇババア、入ってくるんじゃねぇ」と部屋のドアの前に食事を用意させるような、引きこもり高校生を演じなければいけなくなった。
そんな母親に対して「受験のことでナーバスになっているんだろう、暫くそっとしておいてやろう」と父親の理解方針は有り難かったが、もちろんまるで見当違いであり、それは問題から目を逸らす逃避に過ぎないんじゃないんですか、お父さん。と思いがけずこの行動によって、彼らの親として資質とキャパシティの限界を垣間見せられた事は、悔恨の極みであった。
そうこうしてる間に一週間が経過していたが、相変わらず桐生先輩とは連絡が取れなかった。
少なくとも夏休みの間、文芸部関係はもちろん、学校の奴らは皆着信拒否だ。誰かを傷つけたとしても、自身の身を守るためには万全を期すより他ない。ならば電話の電源を切るべきではないかと思うだろうが、そうはいかない理由があった。
俺が受賞した賞を開催した書店店主とは、印税の関係もあり連絡を取らない訳にはいかなかったのだ。
なんと驚いたことに、春から夏にかけての三ヶ月で、三六〇冊も売れたのだそうだ。一冊千円として売り上げ三十六万円、折半して、経費を差し引いても約十五万円の現金が俺の手元に転がり込んでくるらしい。今の状況はさておき、俺はこの朗報に小躍りした。
高校生にとって十万円超えの臨時収入は大きい。もっとも同じ高校生の白鳥や桐生は印税の計算方法が違うとしても、まず桁が違う。去年の作品だけで大手企業の部長クラス年収くらいは得ているはずだ。――いや、奴らのことなど今は考えないでおこう。
どローカル本屋大賞の受賞作が売れただけでも大した物だが、これは店主の積極的な働きかけも大いに貢献している。
店主が方々の付き合いのある書店や店舗に本を持ち込み置いてもらう事で売れ行きが伸びたのだ。無論店主側も、出来ることなら印刷にかかった経費を回収したいという思惑の上での行動だっただろうし、本屋は本を売るのが仕事なのだから当然の行為なのだが。
そんな店主は、俺に向かって「こういった草の根レベルからでも、未来の作家が育ってくれるよう、願いを込めて地元本屋大賞を開催したんだ」と容姿に似合わない朴訥な瞳をして微笑んだ。
彼には感謝しかない。原稿は俺が書きたかったものでなくとも、俺の書いたものが誰かに読まれるレベルまでに達していることを、証明する機会を作ってくれたのだから。
この流れが進めばいずれは本屋が版元となり地元ローカルでも、そこのお抱え作家となり、自分の好きな作品を自由に出版出来るような境遇が得られるかもしれない。それがとある大手の出版社の目にとまり――などと夢のような話もまんざらではない。
ちょうど明日は一学期の終業式だ。
危険ではあるが欠席する訳にもいかない。
しかし考えてみれば、俺が文芸部を追放されたのも、彼らに付け狙われているのも、ローカルな諍いの範疇であり、なにも学校全体が俺の敵になっている訳ではないし、俺は犯罪者ではない。第一公の場で奴らが襲撃を企てるとも思えない。それこそ文芸部の名を傷つけることになりかねないからだ。
式が終わればそそくさと退散すればいいだけだ。そしてその足で本屋で報酬をもらい、夏休みを穏便に過ごせばよいのだ。
もちろん登下校時の襲撃は警戒し校門をくぐるまでサングラスにマスクにキャップという、伝統的な変装を解くべきではなかろう。若干怪訝な目で見られていたようだったが、大事なのは俺だと悟られないことなのだから、この際気にしてはいけない。
その甲斐あってか、終業式、ホームルームと、滞りなく終了し、夏休みへの期待に胸を膨らませるクラスメートの喧噪の中、俺は気配を消すようにそっと教室を後にする。
いつもなら真っ先に、文芸部の部室がある図書準備室へ足を向けていた。
あの蒸し暑い部室。晴れた日には古い本が放つすえた匂いを一掃すべく、窓を全開にする。
さんさんと降り注ぐ真夏の日差しに高く蒼い空。眼下には、水飛沫迸る水泳部女子の健康的な肉体美。気まぐれに差し入れられるアイスクリームは、灼熱下のロードワークで嘔吐寸前になっている陸上部への背徳感を伴った甘美。遙かに望む積乱雲に吸い込まれてゆく金属バットの打音は、盛者必衰のドラマを奏でる甲子園へ届けと打ち鳴らす、祇園精舎の無駄鐘のしらべである。
夏休みの間もクラブ活動はある。例年通りなら、文芸部も盆の時期を除けばほぼ毎日活動するはずだ。逆に言えば、俺が学校にさえ近づかなければ文芸部の連中と遭遇する可能性はほとんどない。さすがに一ヶ月以上時間が経てばしこりも自然と解消されるだろう。その程度の諍いだ。
梅雨明け、降り注ぐ陽光の下、文字通り人影に隠れるようにして校舎から校門へと向かっていた。
ざわと、風に吹かれた夏の青葉のように、目の前の浮かれた人波が揺れる。
「そっちへ行ったぞ! 捕まえろ!」心臓が止まりそうになった。俺は咄嗟に身を翻し顔を伏せた。
「きゃ、なによ!」女子の悲鳴「いてっ、なにすんだよ」喧嘩腰の怒声「なんだよ、なんの騒ぎだよ」首を伸ばし方々を巡る視線とざわめき。
どうやら俺のことではないらしい。ホッと胸をなで下ろしたところ、人混みの一群から飛び出してきたのは一人の男子生徒だった。
茶色がかった髪でやや猫背気味の背中、見紛うなき三条だった。
やれやれと呟くように、後ろを振り返りながら額の汗を拭っている。
一瞬声をかけようかとも思ったが、現在は科学部の彼とて、元文芸部員である。やぶ蛇になる恐れがある限り、ここは無視の一手であろう。
三条は俺には気づくことなく、そそくさと校門の外へと駆けて行ってしまった。




