12-1 あなたは完全無欠に過ぎた珠玉だったのだ
部室のある図書準備室まで、あと数十歩というところで、桐生先輩の歩みが止まった。
「どうしたのですか、先輩」
「ふ、国重……貴様、何かを隠してなどおらぬだろうな?」
「え……なにか……とは」
ただならぬ先輩の眼光に、おもわず口淀んだ。
「受け専門の貴様にしては、やけに積極的ではないか。今や文芸部とは貴様にとって鬼門中の鬼門。同輩の助けがあったとはいえ、かつての部長である私をただ引率したつもりでもあるまい?」
先輩のこの言質はあきらかに詰問の前振りである。だが俺は応えることなく目を逸らした。
「フン、判らぬふりか? 貴様が隣の幼妻を籠絡できなかった事を咎めようという気はない。だが、だ――貴様が熱々の激辛カレーをその愚息にぶちまけられた対価はなんだ? ただ、わたしに文芸部まできて白鳥と会ってくれ、だ。いささかバランスを欠いてはいまいか――いや、貴様は何を目論んでいる?」
先輩にここまできてもらった表向きの口実は、作家桐生幸子の姉として、あの白鳥茜がぜひ会いたいと切望したからだと伝えていた。白鳥の要求をなんの疑いもなく快諾し、今ここに実行しているのは、白鳥は俺に、桐生洋子を連れてきてくれれば、幸子を解放した上で、俺との仲立ちをしてやろうと約束をしていたからだ。無論後者の理由を先輩に話す訳にはいかない。
だが、白鳥が何故、洋子先輩に会いたいのかをまるで考えていなかった。
白鳥からすれば出版業界の未来について語り合いたいとか……、いや、白鳥は先輩の正体を知るはずもないのだから、ここはむしろ部活動単位として考えただけならただのOGのはず。
しかし、さらに考えてみれば、白鳥は権力に胡座をかくような人間ではないが、いくらエラくなったとはいえ後輩には変わりない。上級生の俺を使って洋子先輩を呼び出すなど、ずいぶんまだるっこしく、かつ上からじゃあないか。
自分の目的のことばかりで頭がいっぱいで、白鳥が何故あのような要求を突きつけてきたのか、俺は今更逡巡する。
俺は何か、大きな間違いを犯し、あまつさえ先輩までをもその困難に巻き込もうとしているのではないか――いや、もう随分巻き込んでしまったのだけど。
「厭だ……帰る」
先輩の問いかけにはっきりと返事をしなかった俺に対して、彼女は拒絶の意志をこぼした。彼女なりに危険を察知したのかもしれない。これはまずい。
「だっ、大丈夫ですよ、先輩。確かに白鳥は何考えてるか判らないとこもありますけど、先輩のことはきっと、この部活を一人で支えた、レジェンドとしてリスペクトを込めて、ただ会いたいといっているのだと思います。ですから……」
確証は何もなかった。ただ今は彼女を白鳥に会わせることに努めた。ここまできて、ああまでして俺達をここまで導いてくれた文芸部員の努力を無駄にする訳にはいかない。俺は何を優先事項とすべきかを判らないまま、ただ脊椎反射的に彼女の言を遮った。
「ですから、ここで帰るなんて、俺は許しませんよ! 幸子さんに謝るのではなかったのですか」
「気が変わったのだ、それはまたにしよう」
先輩は子供のようにむっつりと顔を背け、部室のほうを見ようとしない。
あなたはそんな弱い人ではないはずだ。背の低さをものともせず、いつでも堂々としていて、人の頭を越えて声を発するあなたに、誰もが憧れる。あなたのように強くありたい。あなたのように言いきる自信が欲しいと。
「第一、もしも私の秘密が漏れ出してでもしてみろ、私は幸子にどう顔向けできるというのだ。白鳥が私の秘密を掴んでいないとも限らん。奴は出版社お抱えのプロ作家だ」
「先輩! しっかりしてください! そんな弱気、あなたらしくない! 白鳥は先輩のことなど知るはずがないですよ」
「ハッ、私は貴様の自爆に巻き込まれるのはゴメンだ!」
「自爆? 自爆って何ですか!」
ここに来て約束を反故にしようとする先輩にいらだちを覚えた。そんな逃げ腰の彼女は彼女らしくない、とも思った。
だが、“彼女らしくない”というのは誤りだとも同時に思った。
普段俺達の前では人工衛星のごとき上から目線だが、思えば二年前、吉原先生により過去を暴露された時も、今みたいに崩れ落ちて威勢を失ったことがある。この脆弱性こそが彼女の本質なのではないか。
彼女が二年生のときに部長になり、活動路線を強引に変更したことにより、自分以外の部員全員から見限られ、孤独に部を運営し続けた日々があった。
俺達はそれに耐えた先輩の強さばかりに焦点を当てて、彼女の鉄面皮を疑わなかった。
だが、ちがった。
部の存続のため、やむを得ずBL作品を書き綴る傍らで、先輩はずっと、家族や仲間をテーマにした作品をしたためてきた。家族愛、姉妹愛、人と人との関わりを大切にした優しい作品を書いてきた。
何度も一般公募に応募してはいるのだが、すべて一次落ち。その名を全国に轟かすにはあまりに遠い道のりを歩んできた。
BL作品を書かせれば他の追随を許さない作家が、そんなところで喘ぎ苦しんでいた。
それは俺だけが知る彼女の真の姿ではなかったか。
彼女よりも年若く経験も浅いにも関わらず、易々と文壇へと続く階段を昇ってゆこうとする白鳥と、先輩を会わせようとするなど……それは文芸部もろとも破壊するような自爆行為という事なのか。
俺は部室とは反対側に歩いてゆこうとする、先輩の腕を掴んで制止する。
「はなせ、国重」
「いいえ、離しません。話してくれるまで、離しません。何をそんなに意固地になっているのですか」
先輩は観念したのか、腕の力を抜いて立ち止まった。
「私は――――幼少の頃より両親から随分とかわいがられてきた。私はなんだって器用にこなせたから」
妹の幸子も言っていた。自分とは違い、姉はなんだって上手くやってのけ、両親から褒めちぎられたと。
「そう、私は――――、幼稚園の頃粘土細工で市から表彰された。それが今の駅前のモニュメントの原型になった。小学校の頃全国絵画コンクールで金賞取った。どっかの道楽者が数十万で売ってくれと言ってきたので言い値で譲ってやった。高学年の時にピアノコンクール全国大会で銀賞をもらった。さすがにこの時は、始めて三ヶ月の初心者だったからな、やむを得ん。中学一年の時、街を歩いていたら芸能事務所からスカウトされたが、アイドルとか興味なかったしウザいから断った。それより中二の時に遊びでウェブ漫画書いてたら書籍化されたのは嬉しかった。まあ小さな出版社だったから、一万部くらい売れたのだけど、それと引き換えに目を悪くした。その反省を踏まえて、あまり家に籠もってばかりもなんだなと、今までしたことのない運動でもしようと空手をはじめた。さすがに初めての運動だ、きっと身も心もズタズタになるだろうとね、そう踏んでいた」
さっきヘラクレス近藤が言ってたな。それでも結果は無差別級全国優勝。
「私はな、褒められるのが厭なんだ。もう厭になったんだ。だから難関で有名な私立高校には行かず、わざわざ地元高校を選んだ。満員電車に乗るのが厭だったし、都会に出るのも厭だった。生まれて初めての親への反抗だったよ、思惑通り両親は激昂し落胆し、そして失望した。だがな、謀らずとも快進撃はそこまでだったのだ。高校に入った私は小説と出会ってしまった。今までのようにはいかなかった。まるで上手く出来なかった。ただ日本語を書き綴るだけがこんなに難しいとは思わなかった。上手く出来ないから褒められることもない、そんな小説執筆が楽しくてたまらなかった。仲間と一緒に悩み、相談し合い、互いに研鑽してゆく。書いた作品を互いに読み合って相互に論評する。私よりも上手に面白い作品を書く仲間がたくさんいた。後輩も出来た。この環境を失うまいと思った。だから再び空手の道に誘い込もうとする輩を腕づくで蹴散らしてきた」
なるほど……痛快である。どこかできいたような痛快青春録だ。
あなたはずっと傷つくことを望みながら、誰もあなたを傷つけることが出来なかった。あなたは完全無欠に過ぎた珠玉だったのだ。
普通に小説が書けなかったのは、そういうことだったのか。
あまりに彼女は挫折を知らなかったのだ。いや、それだけならまだしも、努力も、我慢もする必要がなかった、完璧超腐人だった。
桐生は……幸子はそんなあなたを見てどう感じていたのだろうか。
「ダサ眼鏡オタク女子、と呼ばれることに一種の快楽を覚えたのもその頃だ。髪は伸ばし放題、ムダ毛の処理など不要、巷の女子が我が身を必死で繕い、傷つくことを恐れる様を垣間見、密かにほくそ笑むのが痛快であった。周囲は私を蔑み忌み嫌った。妹である幸子ですらかつての私に対する尊敬の眼差しをかなぐり捨て、ゴミを見るような目で見下した」
文芸に携わり続けることで彼女は、彼女の自尊心を傷つけ続けられると確信した。
ずっとあなたはどこかで自ら傷つこうとしていた。
それは傍目から見る俺にとっても、充分に危うかった。
あなたは普通たり得ようとしてきたのだ。
普通の女子のように傷つき悩みながら、青春というはかなさを謳歌したいと考えていたのだ。自らの腕で自らの身体を抱きしめ、自身の内側の全てを絞り出してしまうかのように。
「国重、私を……私のことを罵倒しろ! この情けない女を軽蔑しろ! 私の全てを知っているお前なら出来る!」
「でっ、できませんよ! そんなこと!」
そう、言うしかないではないか。心の中でずっと憧れであった先輩。そして俺の小説家としての師匠、触れることも越えることも許されない、桐生 ザ・リスペクション 洋子、けして女性としてみることを、恋愛対象、性的対象として認識することを是とさせなかったあなたを――。
心の中では今、彼女を思い切り蹂躙したい気持ちで一杯だったが、ここでそれをやったら何もかもが終わる。
「妹は、幸子は私と違い、幼い頃から小説ばかりを書いていた。何度も賞に応募したが落選してばかりだった。落選する度落ち込み、泣きじゃくる幸子を慰めるのが私の役目だった。――――両親は次に私に何をやらせるかで、いつも揉めていたから、幸子が何度も何度も、どんな賞に応募して落選しているのかさえ知らなかった。なんの成果も上げられていない、その努力を認めてくれる人もいない。慰めるのはいつも自分自身。父と母と私のクソつまらないホームドラマを傍目で視聴していただけだった。幸子という名が皮肉に思えるほど、彼女は報われることなく、ただひたすらに孤独だった……だから――――」
そう言って、洋子先輩は俺に身体を向けると、俯きながら俺のTシャツの裾を掴んだ。
才能に触れ、憧れ、やがて嫉妬しながら追いすがろうと努力し、時に隙を見つけこき下ろし嘲笑するも、それは弱者のやっかみに過ぎず、やはり追認という暗黙にただ身を震わせる。
永遠にたどり着けないのではないか、追いつくことなど不可能なのではないかと諦め、悟るとき、人はいずれかの器に入ることを了承する。降伏し称賛の嵐を送るか、離反し敵対の意思を告げるか。
桐生幸子の憤りは、今俺が先輩に対して感じているものを、さらに濃く毒々しく色づけしたようなものだったのだろう。もはや彼女の中ではそれが形をもって、歩き出していたかもしれない。それが結果として幸子をあのような攻撃的な怪物になれ果てさせてしまったのかもしれない。
そこに突然部室の扉が勢いよく開いた。




