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2 ボクの前で禁書を踏みにじる快楽に酔いしれていた


 時を遡ること、約一ヶ月。あれは夏休み直前の期末試験最終日だった。


 あの日、ゲライモが踏みしだかれるのを阻止した俺は、やがて部室で気を失った。

そして気が付いたとき、俺の視界に真っ先に映ったのは知らない天井だった。

 そこは薄暗い部屋で、質のいいベッドに寝かされていた。


 ここは……保健室にあるような生成りの薄いナイロン素材のカーテンがあり、起き上がっても周囲はまるで見えなかった。


 ただ、カーテンの向こうに人の気配――いや、もっとはっきりと影が見える。俺をここに運んできた部員……桐生……幸子だろうか?


 いや彼女はこんなに髪は長くはない。


 では、吉原美奈子か……いや、ちがう。俺が彼女のボディスーツで作り上げた完璧な稜線を見紛うはずがない。


「まったく、世話が焼けます。無茶しすぎですよ国重君は……」


 部内で俺のことを国重・・くん・・と呼ぶ奴など、もしいたとしても白鳥だけだろう。女性部員は桐生も含めて皆、国重先輩と呼ぶはずだ。


 一体誰だ……それにこの声?


 俺は声の主を確かめるべく、カーテンを開いた。


 驚くべきことにそこには、男子の制服を着た女子がいた。


 いや、その表現は正確ではない。


 髪の長い、美しい顔をした、白鳥茜が立っていたのだ。


 もともと、男子としては髪が長い方ではあったが、さすがに胸まである長髪というわけではない。俺は自分が寝ぼけているのかと、眼をこすってみたが、どうもそれは現実らしい。


「ふふ、気がつきましたか」じっと俺に視線を合わせ白鳥おんなは身体を向けながら微笑む。


 確かに、目の前の女は白鳥だ。この微笑みを見紛うはずがない。


 俺はバカみたいな顔をしていたんだろう。そんな俺のことがおかしいとでも言うように、白鳥は手で口を押さえながらクスクスと笑い出した。おかしいのは圧倒的にオマエのほうだと思ったが、口に出せなかった。


「びっくりしましたか?」


 白鳥のその声は、幾分面影を残してはいるものの、普段よりキーが高く、語尾が柔らかく、女子の声といっても遜色ないように聞こえた。


「白鳥……なのか?」


「ええ、見ての通りです」


 白鳥はおどけるように首をかしげて、にぃと口角を上げると、俺に向けた両手をぱっと開いた。


 さらに驚いたことに、その両腕の間にある胸部に、緩やかな稜線を描く双丘がしっかりと存在感を示していたのである。錯覚だろうか、俺はどうにかなっちまったのか……白鳥が男の娘……に、なっちまった。


 それとも、ついにパラレルワールドにでも迷い込んだか……こんな異常事態、まずまともな思考能力で処理することはできない。


「――――なんて事、考えてそうな顔してますよ、国重君」


 ザッツライト、その通りだ。


「いやはや、参りましたね。吉原先生があそこまで強硬姿勢だとボクの方も何かとやりにくくなります。それに予想外でしたよ、国重君があのような行動に出るとは」


「なんの……ことだ」


 とりあえずはいい、この際白鳥が男であろうが女であろうがどっちでもいい。


 白鳥茜という人間は、文芸部の部長として、そして神速のごとき勢いで文壇への階段を駆け上がっている超大型新人。そんなお前にとって一体何がやりにくいっていうんだ。むしろお前にとっては、俺達の方が邪魔な存在なのではないのか。


「さて……じゃあ、部長としての責務は果たしましたし、ボク・・本来の職務に戻りますね」


 そう言うと白鳥は両手を背中に回し、ぐっと何かを締めるような仕草をして、髪をアップにしてまとめると、傍らに置いてあった毛束を頭に被り始めた。


「安心してください、ここは現実の世界ですよ。僕は訳あって男として在学しています。ちょっと窮屈ですけど今は仕方ありません」言いながら白鳥は胸のあたりの形を整えるようにポンポンと軽くたたくと、カーディガンを羽織りなおし、いつもの白鳥の姿となった。


「おっと、そうだ国重君。早く逃げた方がいいですよ――これはボクからの忠告」


 にっこりと、白鳥はその微笑みとは裏腹に不穏なことをいう。


「逃げる……だと?」


「ええ、ちょっと手違い――というか、予想外に桐生さんが過敏に反応してしまいまして、ね」


「さっち……桐生が……? どうかしたのか! まさかショックで倒れたのか!」


 くっ……俺が無茶をしたばかりに。


「ショックぅ? なんで?」


「なんで、って……」


「――いや、ま、いっか。あのね、パニックになった桐生さんがGメンに――違法想像媒体販売所持摘発Gメンに告発しちゃいましてね」


「桐生、が? 警察に?」


「ええ、あなたのことをね。吉原先生は教師らしく、内々に処理しようとしたんだけど……」


 俺は警察に追われるのか? 俺が一体何を……」


「あーいやいや。国重君がすぐに逮捕されるとかそういうのではないんです。それより、桐生さんを筆頭に一年生部員が蜂起しちゃいまして、君のことを探してます。原罪的中二病罹患者オリジンオブファンタスティックだとね。どうやらその血は感染するらしいですから……パンデミックが起きる前に処分しろ、と」


 白鳥は涼しい顔をしてとんでもないことをいう。それに感染だと? ゾンビじゃあるまいし……。


「大体なんだ、俺はただ、本がぞんざいに扱われることを非難した。そして、それを阻止したに過ぎないだろ?」


「まあ、国重君の目線からならそうなんですけど、あれを本だと認めている人はいないようですよ、少なくともウチの部には。残念なことですが――」


「しかし皆、踏むことをためらっていたじゃないか! 少なくとも俺にはそう見えた!」


「ん……うん……そうともとれますかね。ええと、人の迷いの感情、たとえば――戸惑い、逡巡、困惑、当惑、狼狽え、躊躇、二の足を踏む――あと、しりごみ……ああ、これは恐怖かな?」


 白鳥は話している間、ずっと薄く笑っている。


「選択、決定、実行、そのプロセスの間、人の脳内では大脳新皮質と大脳辺縁系の間で情報のやりとりを行っているのですが、判断が難しくなると情報処理に時間がかかります。これが『迷い』です。その間、自律神経を司る間脳はこの二つの脳機能の影響を受けています。間脳は血圧、脈拍、呼吸、汗や涙、筋肉の収縮、五感の機能を司っています。つまり大脳の非常状態とは間脳の非常状態であり、そのまま身体的表情となって現れる。ですから、迷いというのは、えてしてわずかながらの興奮を伴うものなのですよ」


「だから……皆迷っていたから……その、考え込んだり、泣きそうになっていた奴もいたじゃないか」


「うん? ――――えと、説明が上手くなかったですかね……観察と考察、想像と推理。小説を書くのには重要な要素ですよね? 仮に彼らになんの迷いもなかったとしましょう。――いや、なかったんですけどね、先輩達以外は。

――ボクが見たところ彼らは、ボクの前で禁書を踏みにじる快楽に酔いしれていた、ってとこですね。ボクに忠誠を誓っているという証を立てるいい機会だと――趣味が悪いとは思うけどね。

 いかに踏むか、どのくらいの強さで、どのくらいの時間をかけるのか。皆、踏みながらボクのことを見ていたんですよ。吉原先生ではなくてね。国重君、気づきませんでしたか?」


 そんなこと、あの状況下で冷静に観察できる訳がない。


 つまりあれは、俺が俺の主観で皆の心情を勝手に解釈していただけ。そういうことか。


 白鳥は俺の呆けているであろう表情を読み取り、鼻から息を吐いた。こんな異常な状況下で、何故お前はそんなに落ち着いていられるのだ。


 何よりさっちんが俺のことをGメンに告発し、追っ手となることの方がよっぽどショックだった。

しかもゾンビに嚙まれた被害者並みの扱い、というか、ゾンビそのものか。


「白鳥。そこまで判っているなら、お前の一声で事を収めることは出来ないのか? それとも、お前がサド野郎で、俺がここで捕縛されてリンチされる姿でも見物したいのか?」


 白鳥は一瞬きょとんとして目を瞬かせた。自虐的な煽りだったとしても、俺は何かおかしな事を言っただろうか。


「ああ、いえ。そうじゃなくてですね、ボクから大きな声は出せないじゃないですか。ご存じのようにボクには作家としての社会的な立場があり、部長としての立場もあります。


 もしボクが君を助けたなんて事が知れたら大変な騒ぎになってしまいます。文芸界および、文芸部の秩序が乱れますからね。そもそもボクが所属する学園の文芸部に国重君のような部員がいたなどとマスコミにでもかぎつかれたら厄介ですし」


「はン、厄介ね……それでここに厄介払いって訳か」


 だいたい、ここはどこだ。保健室だとばかり思っていたが、よく見てみればカーテンで仕切られたベッド以外には、一揃えの机と椅子があるだけの、まるでワンルームマンションのような部屋だ。


「今、一年生部員は功を立てようと、校内のあらゆる場所で網を張っているはずです。捕まえてどうするつもりかは見当つきませんが、相当な恨みようですから……ま、上手く逃げてください、としか言いようがありません。

 一応部長預かり案件だから手出しは無用と断っておいたのですが……はは、我が部員ながら、なかなか血気盛んな者達でして、いやあ、実に頼もしい限りです」


 なんなんだ……。いつから俺はそんな狂信者集団の中に身を置いていたのだ。


 つーか、お前も照れ笑いしてるんじゃねぇよ、褒められねーよ!


「じゃあ何故お前は、俺を助けるんだ? これはお前にとって利になる行動とも思えない。むしろいきり立った部員をここに引き連れてくれば、万事丸く収まる話じゃないか……お前にとって俺は邪魔者でしかないはずだ! そうだろ?」


「ふふっ、自棄やけのやんぱちなんて君らしくもない」


「何を、知った風な……」


「ここは理事長が用意してくれたボクの執筆部屋です。一般生徒はこの部屋に入って来られませんから安心してください。ですが、いつまでもここに居られてもボクが困りますし、それにボクと君が密室で良からぬ関係を築いていた、などと誰かに知られてみなさい、とんでもないことになりますよ」


 いや、具体的にそのとんでもないことが、どっちの意味でなのかは解らないが、なにより俺がココをでたら、追われ人となることの方がとんでもなく思える。


「白鳥ぃ……俺は、どうすりゃいいんだ。桐生が槍を持って俺を追ってくるとか、何をどうしたらそんなことに……」


 思わず弱音が口を突いてでてしまっていた。


 桐生幸子と俺は、姉の桐生先輩の件で一悶着あったにせよ、“恋人同士”として概ねうまくいっていたはずだった。愛し合う二人が次の日には敵同士となるなんて冗談じゃない。


「国重くんは――桐生さんのお姉さんと懇意にしているとお聞きしましたが?」


「あ、ああ……桐生から聞いたのか」


「ええ。彼女のこと……ボクは存じ上げませんが……この問題を解決に導くキーパーソンになるやもしれません。ただの直感ではあるのですが、これらの問題は皆が一様に素直になれず解り合うことを避けることに端を発している、そんな風に思えるのですよ」


 第三者の白鳥が何故そこまで言及できるというのだ。お前は、あの血を血で洗うような凄惨な姉妹達の争いを知らないからそんなことが言えるのだ。その渦中にいる俺はまるで両手両足を左右から掴まれて、引き裂かれんばかりの位置にいる。よくもまあ涼しい顔をして他人事のように問題を矮小化してくれるものだ。桐生先輩は大作家だ、彼女をが動くということは、文壇そのものが動くということ。白鳥、お前だってこれからその一翼を担おうとしているのだ――――


「僭越とは思いますが、ボクから、お話しして差し上げましょうか」


 沈みかけの満身創痍のボロ船の敵に対し、武士の情けといわんばかりに救いの手を差し伸べてくる白鳥という白亜の新造船。俺はすがりつきたい思いで一杯だった。


 白鳥は人の心の内の内、その裏側に張り付いたまったり系の深層性の残滓をいやらしくこそぎ取り、そいつをネギトロ丼などといって読者の前に差し出すようなトップクラスの純文学作家だ。従って人の心の内も手に取るように読み解くのはお手の物。


 しかし若干十七歳の彼女・・がなぜここまで老成しているのか。


 もはや、単に本の読み過ぎで得た筆致でないことは明白だ。一体どんな経験をしてくれば、こんな人間が出来上がるのか。そうか、そうだ、やはり童貞ではなかった。白鳥は女だ。だからあの異常なまでに緻密な性描写が出来た。そう、それにはそれなりの裏付けが――――、っつ、ああっ処女じゃないのかッ!

 


「あ、国重くん。これは覚えておいて損はないですよ――――ボクは、あなたの味方ですので! じゃ、健闘を祈っています!」


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