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10-1 小説は自らが前に進み出て新境地を臨むもの。想像が意明示となり物語として綴られ、それらが具現化する瞬間こそが至高、そして最大の攻撃力をもつ

 

 翌日、昼下がりの校門の前に、俺と桐生先輩は立っていた。

 一ヶ月ぶりの学校。


 盆を過ぎ、まだ始業までには数日あったが、部活に勤しむ青春にとっては、かけがえのない、濃密かつ輝く一瞬の日々であっただろう。


 俺にとっても同じく過ぎた一ヶ月だったが、ゲライモの踏み絵騒動からを思い返してみれば、気が遠くなるほどの時間が過ぎているような錯覚を起こす。


 俺と先輩は校内敷地に足を踏み入れる。


 汚れ、汗にまみれたTシャツとデニム姿の俺に対して、清楚なノースリーブのワンピース姿に、つば広のストローハットを目深に被る桐生先輩。黄色を基調としたひらひらふわふわ素材は、まるで夏の光に溶けてしまいそうな程にまばゆく、真っ青な夏空によく映えた。


 校門をくぐったすぐ横で部活に勤しむテニス部の生徒が、我々のたただならぬ雰囲気を察したのか、それともただ単なる好奇の目か、あるいは桐生先輩が眩しすぎたのか、ぺったんこすぎたのか、視線で追っては顔を見合わせ囁きあっていた。


 俺達はそれらに動じることなく、ひたすら校舎を目指した。


 だがその眼前に、二双の巨大な影が立ちはだかっていた。


「おう、いい度胸だな……国重。日本一周の旅は楽しかったか? たしか俺はお前に自宅待機していろといったはずだが?」


 マッチョ藤岡。そして同じ生活指導のヘラクレス近藤が阿吽の像の如く、校舎の入り口でその逞しい大胸筋と上腕二頭筋を誇示するためか、ぴっちぴちのTシャツに身を包んで、腕組み極めて不自然なバランスで屹立している。


「先生、やめてください。そういう“立ち方”はもう流行らないですよ。はずかしい」桐生先輩はぼんやりした半眼を向けてさらりと言う。


「フッ、桐生か……久しぶりではないか。許可を得ない者の校内進入、および生徒の私服登校は禁じられておる。よって貴様らはここからは先に往かせるわけにはいかんのだが、なぁ?」満面にいやらしい笑みを浮かべるヘラクレス近藤は、さらに桐生先輩へと迫る。



「ほう、桐生……すっかり女になりおったかとおもえば、大胸筋は相変わらずだな」


 セクハラ発言著しいヘラクレス近藤は、桐生先輩の背丈に合わせかがみ込み、肌の色とすっかり同色になった艶のあるスキンヘッドを、無防備に突き出してくる。


 先輩は眼をぎらと光らせ、一瞬腰を引いた。


 ふわと、ワンピースの裾が浮いたと思った瞬間、


 電光石火で桐生先輩の肘と膝が同時に、ヘラクレス近藤のこめかみと顎を狙っていた。


「だめだ先輩!」咄嗟の俺の一言が功を奏したか、先輩はかろうじて寸止めした。


 だがヘラクレス近藤は動じていなかった。


「――フッ、卒業したとはいえ、さすがに俺達に手を上げることは出来ぬよなぁ、桐生よ。在学中お前に沈められた奴の数は、ざっと数えても三十はくだらんといったところ。お前が一度も問題児として取り上げられず、停学処分にすらならなかったのは、生活指導の俺達の目こぼしがあったからに過ぎんのだからな」


 沈めた? 桐生先輩が暴力事件を? いったいどういうことだ。


 きょとんとする俺を見て近藤は察したのだろう。


「中学空手無差別級で全国を制した途端、突然の引退。そのまま何の変哲もない女子高校生として平穏に過ごそうとしたお前の勝ち逃げを許さんと、私闘を求めて挑んでくる奴らが無数にいた。かつて、な」


「エエ、私には他に為すべき事がありましたので、輩は全て返り討ちにしてさしあげました」


「しかし、引退し無名ともいえる女子学生に返り討ちに遭ったとあっては空手家の名折れ、表面化することはなかった。我が空手部の連中も随分お前に執心ではあったのだがな」


「そう、私の入学を知った近藤センセイ、あなたは熱烈に私にラブコールを寄せてきた。それは破廉恥と形容していいほどに」桐生先輩は戦闘態勢を解き、膝を下げ両手を腰に添えた。


「ははあ、そうだ、俺はそれほどまでにお前が欲しかった。お前の才能が眩しかった、お前のその生白く細い四肢から繰り出される激烈な拳と蹴りに心酔した。まるでそれはまだ第二次性徴を迎えていない少女が魅せる、禁断のエロスにも似た昂奮であった! しかしお前は……お前は……」


 保健体育へんたい教師、ヘラクレス近藤は目を伏せ、わずかに肩を震わせ悔恨の情を露わにした。だが次に彼の口から零れた言葉は「俺の求愛を鼻で笑い、文芸などという軟弱な道に入り才能を無駄にしおって……」あきらかに先輩、いや、我々文芸に携わる者を愚弄した。


 それに対して先輩は顎を引き、静かに帽子の鍔をつまむと「ほう……文芸とは頭を使う格闘技なのですが――」次の瞬間、ストローハットが真夏の青空に舞う。


「先生はご存じない、――――とッ!」


 空の蒼にワンピースの黄色のコントラスト、その下で桐生先輩の黒髪が流れ、一閃の頭突きがヘラクレス近藤の額に直撃していた。


 不意を突かれた奴は一瞬崩れそうになったが、膝立ち状態で意識を保って、両手を地面につける事なく耐えた。さすがは体育教師である。筋肉はこけおどしではない。


「ぐっぉお……なぁにすんだコノヤ……ロ、校内に侵入し、暴力沙汰とは……ゅ、許されんぞ」しかし全身がブルブルと震え、倒れずに立っているのが精一杯といった風だ。


「あら、先生。これはかつての師に対する敬愛的スキンシップであり、熱き師弟関係による相互理解であり、盛った種馬を諫める愛の調教ですよ」


 そう言って、先輩はヘラクレス近藤の額を指先でちょんと押し、止めを刺した。


 足下で白目を剥き崩れ落ちてゆくヘラクレス近藤を俯瞰しつつ、桐生先輩は、ひらひらと舞い降りてくるストローハットを片手でキャッチした。


 俺はこの一連の出来事を黙って見ているより仕方がなかった。


 校内に押し入ってのこの狼藉。


 もう一人の生活指導のマッチョ藤岡が黙って見過ごす訳はない。


「国重、よく聞くがいい……」桐生先輩はその、とてもではないが人を打ち倒せるようにはみえない華奢な腕を構え、横目に俺へと告げてくる。


「武を志す者、その本質を見極めるに、精神の深淵へ足を踏み入れずして武を制することあたわず。その精神性の極みともいえるものが、古より武という字が、“矛をもって止むるをもってす”、という字形より導き出した意味解釈だ。矛という脅威を制す、すなわち武をもって武を制す意味とも云われ、不戦不殺生、口当たりのいい武力的抑止力による平和主義の看板文句として使われてきた。だが本来“武”は武器を表す戈と足を表す止で構成される“進む”の意明示を色濃く残す字である。はじめに武ありき、すなわち武は矛をもってすすむを旨とし、字義通り戦う事、もしくはその気概、気骨、魂の有り様を表したのである。前に突き進むこと、新たな境地を探し求めること、これすなわち小説の真髄なり。故私は武芸を棄て、文芸に身を投じたのだ。――――私は長らく絶対的抑止力の上に胡座をかき、戦う事を無意識的に忌避してきたのだと。――それを思い出させてくれたのは、真に文芸だったのだッ!」


 ペンは剣より強しとはよくいったものだが、眼前で肩を怒らせるマッチョ藤岡に、先輩の言説は理解できまい。


 小説は自らが前に進み出て新境地を臨むもの。想像が意明示となり物語として綴られ、それらが具現化する瞬間こそが至高、そして最大の攻撃力をもつ。


 結局俺は武を極めた先輩の言う、その文芸の力によって、“全裸で突撃、隣の晩ご飯”をやらされたのだけど、あれは俺がシナリオ通りの演技が出来なかったせいなのか、はたまた幼妻の側が先輩のシナリオ通りの展開に及んでいなかったのか、インターホンを押し玄関前に立った俺は一見で変態だと思われたのか、とにかく頭のおかしい幼妻にいきなり熱々の激辛カレーを頭からぶちまけられて、廊下を転げ回り悶絶するはめになった。


 なぜだ。


 いや――確かに文は武を凌駕することもあろう、逆も然り。だが技に溺れ勝負を疎かにするのもまた文武が共に持つ悲しき宿命である。


 正直言うと今もまだ瞼と唇と、下半身のデリケートな粘膜達がひりひりしている。

 

 それはともかく俺達に対峙する藤岡は、重苦しい口調で先輩に告げる。


「桐生よ、戯れ事はその辺にしておけ。しかし、実力行使にでるとあらば相手をしてやろう……」近藤とは対照的に、腰を落とし構えの姿勢をとっている。やる気満々だ。


先輩。こんな所であなたは問題を起こしてはいけない。その手は人を殴るためのものじゃないはずだ。いかに先輩が手練れであっても、この男と打ち合って無事で済むとは思えない。


 そこへ、


「ふ、っ、藤岡ぁあああ!」


 俺達が睨み合う横合いから、ライン引きを手押し、足をもつれさせながら今にも転びそうな勢いで、全力ダッシュしてくる男がいた。


「木ノ下……!」


 木ノ下だった。


 藤岡と対峙する俺達の五メートル手前で、ざっと靴裏を鳴らして停止した。


 乾いた砂埃の中で木ノ下はゆらりと俯き、眼鏡のブリッジを人差し指でくいと押し上げた。


 彼がライン引きを押しながら横断してきたテニスコートには、白々とした白線が無造作に引かれてしまっており、背後でテニス部員らが憮然としていた。


 不意に現れた真昼の闖入者に俺達は驚き、一時的に戦闘態勢を崩された形になったが、予想に反してマッチョ藤岡の矛先は木ノ下へと向いていた。


「そ、それは……おま、おま、お前が……お前かぁあああ!」長めの髪を振り乱した屈強な男は筋肉を迸らせ、目の前のひょろい青年を睨み付け、ぎりと奥歯を鳴らして憤怒の情を露わにした。


「藤岡教諭!」木ノ下は普段猫背気味のひょろい長身を屹立させ、びしりと人差し指をマッチョ藤岡に向けた。


「このライン引きの命運は僕が握っているッ! その者達に手出しをするならば、覚悟することだッ!」そういってまるで人質でも取った犯人かのように、ぷるぷる震える左腕で傍らのライン引きを持ち上げた。


「がっ、学園の備品を勝手に持ち出し、なにを……お前ごときに何が出来る! 待っていろ、今すぐそのひょろい首根っこをへし折ってやるわ!」じりじりと木ノ下に歩み寄るマッチョ藤岡。


 その教師らしからぬ威喝は社会問題になるレベルと思えたが、木ノ下は動じない。そればかりか木ノ下は悠長に、背負っていたバックパックを地面におろし、中から取り出した透明な液体の入ったペットボトルを手に取った。


 マッチョ藤岡の歩は止まらない。


 危ない木ノ下、殺されるぞ!


 しかし木ノ下は悠々とライン引きの蓋を開けると、中の液体を続けざまに二本、加えて、ビニール袋に入れた砂を本来ラインパウダーを詰めるべき箱の中へと投入し、かき混ぜた。


「なぁああ? 何をする!」マッチョ藤岡の声が裏返った。


「おっと、近づくんじゃない。貴様は事の重大性を理解していないと見えるから説明してやろう」


「い、一体、何を……」マッチョ藤岡は木ノ下のいう通りに立ち止まった。いかに脳筋といえども、自身の猛進にもひるまず、滔々と語りだす木ノ下の行動に不穏なものを感じたようだ。


「ここに入っているのはラインパウダーの主成分である炭酸カルシウムと、ケイ酸三カルシウム、ケイ酸二カルシウム、カルシウムアルミネート、カルシウムアルミノフェライト、硫酸カルシウム、すなわち! ポルトランドセメントの混入物だ。これに水と砂を投入することにより、砂粒の粒子が骨材となって、モルタルと同様の強度を誇る凝固物質となる。――――ここまで言えば、筋繊維で出来た貴様の脳でも理解できるのではないかな?」


 木ノ下はやや首をかしげ、顎を引き上げて不敵にマッチョ藤岡を凝視する。


 なんという眼力。体力では敵わぬ相手に科学技術を用いたか。


 ライン引きの中がモルタルで満たされ凝固してしまえば、おそらくライン引きとしては二度と使用が出来なくなるだろう。それはライン引きとしての死を意味する。


 しかし、いかに体育教師の立場とはいえ、たかだか備品一つをダメにする事が、マッチョ藤岡にとってどれほどのダメージとなるのか?


「っ……なんということを……木ノ下! なんということをするのだ! なんということぉおおおお!」

 マッチョ藤岡は見えない壁に阻まれたかのように、完全に歩を止めた。


「フッ……藤岡教諭。貴様がライン引きを溺愛していることを、僕が知らないとでも思っていたか? 貴様が体育の授業でラインを引く際、自分以外、ましてや生徒にはけして触れさせないのを知っている。もしも来花ちゃんが引いた線を生徒が踏もうものなら烈火の如く怒り、校庭十周を言い渡す異常な暴虐性。ホワイトデーには放課後密かにハンドルにリボンを括り付けていたことくらいお見通しだ。なぜなら、僕と彼女は貴様があずかり知らぬ夜の校庭や人気のない公園で魔法陣を描くという共同作業に勤しんでいたからだ」


 な、何だその変態な設定は……。お前が夜中の校庭に魔法陣を描いているのは知っていたが、いくらなんでもマッチョ藤岡がその設定に乗ることはないだろう。妄想が過ぎるぞ木ノ下。


「あ、あの、校庭の謎の落書きはお前の仕業か! しかも俺の来花らいかちゃんに、そんなことを……」


マッチョはいとも簡単にその設定に嵌まった。


「来花だけではない、来夢も来知も一通り味わわせてもらったさ」


「なにィイ! 来夢はまだ去年この学園に来たばかり……、一年生だぞ! それを、お前は……!」


「だが、貴様も承知のことだろうが、もっとも綺麗な線が引けるのはやはりこの来花だ。直線、カーブも思いのまま。正確な円を描く時に重要となる左右の車輪バランスは特に素晴らしい。パウダーの残量にかかわらず安定した排出、そして線の引き始め、引き終わりの際重要となる、入りと抜きのかすれ具合は芸術的とも言える。来花の魅力を知るのは貴様だけではないのだよ……フッ、ははは」


「きッ、鬼畜め! かっ、返せ! 俺の来花ちゃんを返せ!」


「ふむ……構わんが? 貴様がその二人を黙って通すというならば……」


「きっ、さまぁあああ!」


 さすがにその激情は木ノ下を吹っ飛ばすだろうと、俺は顔を背け目を瞑った。


 だが、なんと木ノ下は、拳を振り上げ踏み出したマッチョ藤岡の額を指先一つで突き、ひょろ長い腕一本で止めてみせた。


「おっと、この気温だ、化学反応はすこぶる早い。決断を急いだ方が良さそうだぞ?」


「ぐ、ぬぬぬ……」


 木ノ下は何も言わず、ただちらと俺達に一瞬だけ視線を送った。「ゆけ」と。


 それを合図とし、拮抗し合う二人を背後に残し、俺達は足早に校舎内へと進入した。


 階段の登り口でふと振り返った時、マッチョ藤岡の繰り出したアックスボンバーで木ノ下はテニスコートにまで吹き飛ばされ、挙げ句コートを荒らされた腹いせに、大勢のテニス部員達により足蹴にされていた。


 マッチョ藤岡はというと、そんな木ノ下を顧みる事なく、オカマ走りでいそいそとライン引きを抱えて、校舎の裏へと消えていった。


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