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9-2 胸中にサティスファクションを、シャツの下にアグレッシヴを

 不幸中の幸いだったのは、学園の文芸部がらみの案件のため、俺の存在が隠されていたことだ。白鳥の統べる文芸部員の一人がラノベを所持していた、もしくはその疑いがある、などという事実憶測は学園側としても、白鳥を擁する出版関係者としても厳に秘匿したかったのだろう。


 そのため桐生先輩は証拠不十分として二週間で釈放された。ただ、それでも身の潔白を完全に証明できた訳ではなく、ラノベはまだ没収されたままだそうだ。


 そして、この狂おしき俺の夏物語サマーウォーズ冒頭アヴァンタイトルの先輩の台詞、「……幸子には、不憫な思いをさせて済まないと思っている」と繋がる。


 洋子先輩の述懐は夏の空の蒼に溶けてゆくように、滔々と語られた。


 わずか十数年、いや物心がついた頃からの数年間、禍根というには短すぎる年月だが、彼女ら血縁の間柄に至ってはその濃度が、年月では推し量れないものとなるのだろう。俺はその話を、木の幹にしがみつく蝉のように、じっと動かず聞き入っていた。


 話が終わり、桐生先輩は残りのアイスコーヒーを注ぎきると、座卓に片肘をつき、立て膝をして弥勒菩薩のように座っていた。


 見る人が見れば、緊張感のない女子大学生の、一人暮らし故の緩みきった怠惰な姿に映っただろうけども、俺には彼女が、夢中を目の前にして期待に胸を膨らませるあまり、その所作振る舞いに構えなくなった少女のように見えた。


 この二ヶ月、しばし離れていたせいだろうか、確かに先輩は少し雰囲気が変わったように感じられた。口調は変わらないものの、胸元が無防備な黒のキャミソールに、デニム生地のミニスカート。その扇情的な姿勢に相反する、グラマラスとはほど遠い、華奢な肢体を露わにしていた。


「時に国重」


「はい、なんですか」


「今、私は下着を着けていない」


 先輩が目を逸らしたまま挑発をしてくる。それは上か下かどちらのことなのか。バストカップ付きのそのキャミソールが下着を兼用しているが故の言い回しなのか、それとも座卓の下に潜む黒く深い禁断の黒森への誘いなのか。


 もし俺が今、座卓の下を覗き込めば、先輩のデルタ地帯に文明の開闢かいびゃくどころか、地下世界ヴァルハラへの誘いである。いや、見てはならん。そこにあるものが確かであっても、確かであればこそ、俺はそれを想像に留めなくてはならん。


「我が身に付けるものも追いつかぬ状態である――であるから、貴様の穢れた服を洗ってやる訳にもゆかぬのだ……ん、どうした国重、何を前屈みになっている? 洗濯機が壊れた事がそんなに興奮するのか?」


 洗濯機が壊れた事を伝えるために、どんだけ倒置させるんだ。


「いえ、そんなことは――ただ、また先輩がこうして俺のことを招いてくださった事が恐縮で……更にはこんな騒動に巻き込んでしまい、ほんとうに、申し訳ありませんでした!」


 俺は前屈みになってなどいない。頭を下げたのだ。本当に申し訳ない気持ちで。


 しかし先輩は俺と目を合わさずに即座に否定する。


「ふふ――お前は悪くはない。健康な男子たるもの妙齢の婦女子と二人きりの密室にあれば、あらぬ考えもよぎろうもの。脊椎に直結した股間の根の先を濡らしてしまうのも仕方あるまい」


「いえ、俺は……先輩のことは尊敬する一作家としてであって……その、つまり……」


 否定しようとする俺のことを、桐生先輩はきっと睨み付け一喝する。


「みなまでいうな! ――そう――だが、いや、断じてそのようなことはない。あり得ない、起こり得ない。貴様は保守的で、受動的で、共産的な事なかれ主義者だからな――――ン……む……こ、こたびの誤認逮捕は、私が若い燕を捕まえ、手込めにしているなどという、いい加減な証言をした隣人のせいで、あ、あああらぬ疑いを、かけられたの、だ……わたしとておまえのことは、ただの下僕であり……ましてや男女の仲などにはなり得ん、けして、な――たとえ私が全裸で横たわっていたとて、だ……」


 先輩はそのいつもの眼力で俺を見据えようとしたが、保てなかったと見え、頬を赤らめ、語尾になるほど小声になり、最後のほうはよく聞き取れなかった。


「それは、つまり……隣の奥さん……が通報?」


「――ッ……そうだ。したがって、かの幼妻は今週刊行された私の作品の主人公になってもらった。発売日には隣家の郵便受けにすでに届いているはずで、彼女が著書を手に取ったことも確認済みだ」


 恐ろしい人だ。隣室に棲む桐生先輩なら、その人となり、口調、身体的特徴、亭主の容姿や生活レベル、周辺環境、全て見聞きして余すことなく描写することも容易だ。


 小説を手にした当人は、まるで自分のことが書かれているかのような内容を確認して戦慄するだろう。偶然と思いたい、しかし偶然とは思えない。もしやこれは、これから起こる事への予言なのだろうかと訝るかもしれない。その結果、場合によっては家庭崩壊に繋がる可能性だってあろう。


「読んでみるがいい」先輩からその作品のゲラを渡される。


 新婚一年の若夫婦の元に、差出人不明の謎の小説が贈られてきたところから物語は始まる。




 古びたマンションで新婚生活を始めた若い二人は、今目の前にある日々という、幸福の積み重ねこそが、明るい未来を築くのだと信じて止まない、無邪気さを伴った、大変謙虚で誠実かつ慎ましい夫婦であった。


 だがそんな平和な夫婦の元に謎の書物が送り届けられる。誤送かと思われたが、封を解いてしまった上に、それは彼女の大好きなBL本であった。


 ところが読み進めてゆく度に彼女は、その内容があまりにも現在の自分の境遇と似ていることに気づいた。


 気味が悪くなり読むのを止めようかとも考える。どこかで自分の生活を監視されているのではないかという疑いさえ抱くようになり、心配になって、夫に相談をする。


 しかし夫からは、仕事で疲れているのだからと相手にして貰えない。このところ仕事が忙しいと口にすることが多くなり、残業も増えた。


 そんな夫に強く訴えることも、他人に相談することも出来なかった。まさかその不安の根拠がBL本であるなどとは告白できなかったからだ。


 その後も彼女は、自らの家庭の未来が予言されているかのような書物に怯えながらも、しかし読むことをやめられない。


 それでも帰りの遅い夫に不安を漏らせば、くだらないことを考えている暇があるならば、料理の腕を上げろ、と怒鳴られ喧嘩に発展する始末。以前はそんなことで怒るような人ではなかったのに。


 小説には夫が後輩社員と関係を結ぶ様子が描かれており、いつぞや現実の夫が言っていた“帰りが遅いのは開発部の後輩の篠田君に仕事を教えているからだ”という言質に彼女はおののく。


 彼女は、開発部とは何を開発するところなの? でも篠田君ってめっぽうかわいい彼女がいることで評判なイケメン社員なのだから、そんなことある訳ないわよね? でもそんなに遅くまで二人きりで? そういえば会社から帰ったあなたからは、別のオスの臭いがするわ、という疑義が沸き立ち、いつしか“きっと主人は後輩の篠田君を開発しているのだ”と確信する。


 西日が入り込む台所でカレーを作っていると“そういえば私たち、いつから夜の生活が月一になったのかしら”と、気がつけば悶々と悩み、頭に熱が昇り呆けてしまっている自分がいる。


 ああ、鍋の底を焦がしてしまったわ、大変。


 そこへインターフォンが鳴る。


 カレーの匂いに誘われた初心な男子高校生が、高校時代の先輩宅と誤って、幼妻の棲む502号室を訪ねてしまったのだ。


 彼女はインターホンのモニターから、空腹のお腹をさする学生を見て、かつて大学生時代に付き合っていた三つ下の高校生との、ほろ苦い青春カレーの味を思い出してしまう。


 そうして彼女は日頃の欲求不満と女性特有の保護欲も手伝って、思わず学生を誘い入れてしまう――。カレー作りすぎちゃったの、と。




「うああ……」俺の口から漏れた言葉はそれだけだった。それ以外の叫びは海綿体の全容量が受け止めていた。


「こっ、これほどの作品を事件発覚から強制捜査を受け、留置されている間に書き上げてしまったのですか、先輩は!」


「いや、既にその前から書いていた」


「――前からッ!?」


「幼妻は学生時代からここに住まっているからな、私はよく知っている。話したことなど一度もないが、結婚前、古紙回収の前日に大量のBL本を処分しているのを目撃している」


「――つーか、ただのストーカーッ!」


「国重よ、いま万感を胸に打ち震えるがよい。がお・・をわざわざ・・・・・呼んだのだ。まさかこの意味がわからない程、呆けてしまっているなどとは、よもや言うまい」


 やはりあなたのしたたかさには敵わない。しれっと俺のことまで――俺の容姿や仕草に至るまでをつぶさに描写してしまっているじゃないか。


 だが、なによりここまで書いても尚、自分だけは、桐生洋子は、海原桐子という誰も想像が及ばない隠れ蓑に潜んで、正体がそれと知られずにいられるのである。

 

 今回の件に関しても、海原桐子の名を使い出版社が出張ってきていれば、逮捕などという事態は容易に回避できたはずなのに、彼女はそれをしなかった。


 なぜなら、彼女は極限られた人物以外には正体を晒していないからだ。


 知るのは俺以外で何人いるのかは解らない、それが男性なのか女性なのか想像もつかないが、だとしても少なからず嫉妬心はある。なぜなら、俺こそが彼女の理解者であり、一番の弟子。純血ピュアブラッドを最も濃く受け継ぐ者であると自負しているからだ。


 だからこそ俺だけに、こう言うのだ。


「国重。今日お前をここに呼んだのは他でもない。ひとつ、仕事の仕上げを頼まれてくれるな?」


 無論である。


「先輩の頼みであれば……」そこに事件一連に対する謝意もあったが、敬愛する先輩の頼みを断ることなど出来まい。


「――しかし、そのかわりに、一つだけ俺の願いも聞いては貰えませんか……」


 俺は忘れかけていたこの逃避行の目的を思い出し、彼女へと告げた。


「…………ほう、白鳥茜が……桐生幸子の姉としての私に、か?」


「はい……」


「よかろう、相分かった。明日の正午以降だ、時間を作ってやろう」


 俺の交換条件はあまりにあっけなく快諾された。彼女も彼女なりに、妹の所業に対して責任感を感じているのかもしれない。

 

 実姉である先輩に、幸子を正気に戻して、仲を取り持って欲しいと頼むことが出来ればよかったのだが、あいにく彼女らは水と油だ。


 だから白鳥が望んだように、桐生先輩との顔合わせの機会をセッティングすることで、白鳥から桐生幸子へ口添えをしてもらおうと考えた。


 もっともその提案をしたのは白鳥自身でもあるのだが。


 最終的に権威を楯に幕引きを図るとは、男として姑息とも捉えられるかもしれない。だが、そのワイルドカードを使用するには、俺が先輩から課されたミッション・インポシブルをこなしてこそ可能となるのだ。


 先輩は、まだやや上気しているとはいえ、幾分落ち着きを取り戻しているようだ。なるほど、媚薬というのはあながち嘘ではないのかもしれない。


 先輩を部屋に残し玄関の扉を開くと、夕陽が差し込みだした共用廊下の向こうに、隣室の502号室の扉が視界に入った。生まれたままの体に、先輩がどこからか用意した男子学生用のワイシャツだけを唯一羽織り、俺はゴクリと唾を呑んで屹立していた。


「何なら、まあ、その……だな……このまま、我が庵に泊まりたかったら、泊めてやっても、よいのだが………………馬鹿者、私に何を言わせるのだ」


 かつてルネッサンス期までの西洋では、信じられないかもしれないが、下半身用の下着というものが存在せず、この時代に考案された、現在我々がワイシャツなどと呼んでしまっている前ボタンで留めるホワイトシャツ・・・・・・・のズボンに収めるべき部分が、紳士の股間を優しく包んでいたのだという。シャツの長い裾の、あの独特なサイドのカーブラインはその時代の名残だそうだ。


 従って全裸にワイシャツ一丁は丸出しではないという理屈で、 かろうじてそれは見えてはいけない先っぽまでもが隠れる具合の狂気で、俺は幼妻が待つ隣室への扉の前に立っていた。


 胸中にサティスファクションを、シャツの下にアグレッシヴを。


 廊下に面した台所の換気扇からは、やや焦げたカレーの匂いが漂ってきているような気がした。

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