9-1 あれほど言った! 私は言った!
結局事情も聞けないまま、吉原女史の手引きでネカフェの裏口から出奔した。
「全てを忘れて日常へと戻りなさい」、という吉原女史の最後の言葉を胸に、途方もない虚しさを抱えて世捨て人のように朝日が差す街を、汚れた下着のままさまよい歩いていた。
膝蹴りを食らった股間が痛くてたまらなかったが、絶頂とのコラボはまるで、メープルシロップをかけた納豆のように芳醇かつ複雑な味わいといえた。
彼女の作成文書を削除し、散々嫌がらせをしたあげく、泣きじゃくる彼女をさらに手込めにしようと、その拘束具に囚われることなく、無防備に地に零れんとする豊満なスライムに手を伸ばしたせいである。
柔らかかった。
とっても。
――しかし、妙な話ではある。
追っ手のGメンを撒くことに成功はしたが、なぜ彼女は自身の危険を冒してまで俺を助けてくれたのか、その靄は晴れない。
そしてなにより悔やまれるのは、ブースのパソコンにUSBメモリーを挿したまま逃げてきてしまったことだ。
バックアップはアシがつく危険があると判断して、他にとっていなかった。もはやあの大作を一から書き直す気力など起きなかった。吉原女史に忠告されるまでもなく、もう、処女貫徹は、作家の国重センセイは、終わりだ。何もかもが終わった夜だった。
蝉が鳴き始める午前の空は、まるで台風一過のようなすがすがしい青が広がりつつあった。
たった一夏、全国を駆けた暴風は目を抜かれ、熱帯低気圧になってこのまま消えてゆくのだろう。
黒い影をアスファルトに刻む俺は、依然ここに居るというのに。
もう、何もなくなってしまった。。
その時、俺のスマホが鳴った。
相手は桐生先輩。
このタイミング、複雑な気持ちだった。
文芸部に追われてからずっと、先輩とは連絡を取れていなかった。先輩ならこの逆境で俺の味方になってくれるだろうとは思って何度かかけてみたが、電話は一向に通じなかった。
直接マンションに出向こうとも思ったが、あの梅雨の日、まるで喧嘩別れのようになってから随分経っていたことで敬遠していた。
それに桐生幸子が姉のマンションを訪れている事を考えれば安易に接触すべきではないと考えたことも手伝って、足は遠のいていた。
そうだ、あの時白鳥が、“先輩を連れてくれば事態は好転するかもしれない”と、ついでのように言っていたことを今更思い出す。
だがもう、全てを失った俺にはその必要もないだろう。
文芸がなんだというのだ。たかが文字、たかが文章、たかが物語ではないか。
それを、まるで我が人生の全てかのように耽溺し、執着し、憎悪と情欲にまみれる。それらを守る為とあらば、無実の他者を追い落とし、排斥することさえも是とする。
もううんざりだ。
疲れてしまった。
どうとでもなるがいい。
俺は極度の苛立ちと脱力のあまり、遅すぎる救世主を罵るつもりで、静かに通話タブをタップした。
いつもの不敵な笑みを含んだ声色は懐かしささえ感じた。
《久しぶりだな国重。まあ、積もる話もあることだ、とりあえずウチに来い。そうだ、朝食を買ってきてくれ、ブレックファストと洒落こもうではないか》
洒落こむなら、近所のカフェとかで待ち合わせしたかった。この数週間逃亡の身として街をさまよい歩いた俺は、貪欲で刹那的で軽薄な俗世に、浅ましくもひどく焦がれていたからだ。
この時の俺はもう誰かの意志に流されてしまいたかった。
大きな流れの中に吸い込まれてしまえば、全て忘れて、何も考えずに笑っていられると本気で思っていたのだ。
作品を失った作家に出来ることなど何もない。
先輩はいいですよね、いつも自分のペースを保ちながら、失うものなど一つも無い。
またぞろ俺のことをあざ笑うのでしょう。
会ったらそう言ってやろうと思っていた、《ずっと警察に拘留されていたものでな》と、その言を聴くまでは。
「え……警察に? なんで先輩が……」
つい先日警察に匿名の通報をし、一人の変態の人生を終わらせた事実がオーバーラップして、まさか先輩も変態行為を? などと思い当たる限りのありあまる罪状が浮かんだのだが、いちいちそれらを俺の脳が処理するよりも、俺の足は先輩のマンションに向けて駆けだしていた。
あの梅雨の日から約二ヶ月が経っていた。マンションのエントランスまで来ると、あの日が思い起こされる。ようやくここへ来る事が出来た。
しかし今は、そんな狂おしく懐かしい気持ちより、先輩の身に何が起きたのかを知らねばならなかった。俺はそれほどまでに慌てていたのだろう。
勢いよく扉を開いて、室に飛び込んだ俺はもつれる脚に歯噛みながら、躓くような格好で、どんと片手を床についた。それはこれまで息を潜め、忸怩たる思いを胸に秘め、冷静沈着たらんと、高校最後の夏を密やかに過ごし、熱中症気味の怠惰な日々を過ごしてきた身体からは想像もできない慌てようだっただろう。
「どうした国重、久しぶりだというのに、相変わらず暑苦しい奴だな。朝食は買ってきたのだろうな?」
俺は桐生先輩が座る六畳間に跪いた。意識的に力を緩める事が出来なくなった掌が、畳にめり込んでゆくような錯覚を覚えるほど興奮し、自身を見失っていた。
靴を脱ぎそのまま這って詰め寄るようにした俺のことを、なんの事情も知らないと即座に悟ったのだろう。
顔面を足蹴にされ、例の如く「馬鹿者……国重、君は何も知らんのか? 新聞くらい読まんか! 地元ローカル新聞でも構わん! 日々自身の周囲の日常の動向を察しておけと、あれほど言った! 私は言った!」と、嵐のような勢いで窘められ、地元ローカル新聞を強引に渡された。
全てを読み、彼女が逮捕された一連の経緯を理解し終えた頃には、太陽はすっかり天頂にさしかかっていた。
記事の内容と先輩の大仰な弁舌から、俺が取捨選択した情報の要約がこうだ。
俺の文芸部追放から、桐生幸子の告発で、まず俺が目をつけられた。隣国の届かない弾道ミサイルの話題以外で、この夏の前半を騒がせた事件だ、それなりに文芸に興味のない人々の耳目を集めた。それで芋蔓式に、例の如く“善意の第三者の情報提供”により桐生先輩の部屋がGメンに嗅ぎつけられたのだった。
『女子大学生、規制書物を大量に所持。私設ヤミ閲覧所か?』本来なら新聞では地方欄の隅の方に書かれるような記事であるはずなのだが、夏の中盤から頭角を顕した神出鬼没の謎のラノベ作家『処女貫徹』の煽りもあり、全国紙の一面トップを飾っていた。
先輩、やはりあなたは一番なのですね。
そしてこのマンションの一室が規制書物の閲覧所になっていると、強制捜査をくらい、作り付けの書架にあった全てのラノベが没収されたのだそうだ。
現行法下における、十八歳未満の規制書物の所持閲覧は、飲酒や喫煙に比肩する微罪で、当事者が補導され、注意を受け、当該書物を取り上げられる程度のレベルである。ほとんどの場合保護者たる者が迎えに来た時点で解放される。
だがこの法律の本来の目的は、十八歳未満の青少年に規制書物の所持閲覧を許可、その行為抑止義務の不履行、あるいは販売、提供などを行った大人を規制する為のものである。
一人暮らしの女性宅に、制服姿の俺が頻繁に出入りしている様子を近隣の住民から証言されたこともあり、大量のラノベを蔵書していた桐生先輩は、この法律に抵触している恐れがあると疑いをかけられ、逮捕勾留されたのである。
ずっと音信不通だったのはそのせいだった。
つまりは、全部俺のせいじゃネェか……。




