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8-5 ちがう、ちがう、ちがう――そうじゃない

 扉の向こう側、廊下の先にある受付方向から、このネカフェには場違いな、複数人の規則正しい男の足音が向かってくる。男達の足音は俺達が息を潜めるブース前を通り過ぎ、通路を挟んだ向かいの俺のブース前で止まる。


「――はこちらですか」毅然とした男の声。だがうまく聞き取れない。


 さすがにネカフェで大きな声を出すことは出来ないのだろう。

 

 そう、今更俺は気づいた。大失態をしでかしてしまったことを。


 やられた。俺はまんまと美奈子に嵌められたのだ。彼女に通報されたのだ。


 その証拠に今俺の身体は彼女によってがっちりホールドされている。嬉し恥ずかし過ぎて動けないほどに。


 強いノックの音におののき、思わず目を閉じた。美奈子が俺をホールドするその腕にも力がこもった。けして逃すまじ、ということか。


 姿なき男達が何者であるかなど、考えるまでもなかった。


 想像創作媒体規制Gメン……違法アップロードを続ける俺を捕らえるためにきたのだ。


 続いてブースの扉が開かれるはずだった。俺は覚悟し、やがて脱力した。

 ところが、だ。


「お客様ぁ……あれっ、あの……え、と……トイレでも行っているのかな」さっきのネカフェの大学生風アルバイト従業員が、焦って受け応えている声が聞こえる。


 俺の頬を柔らかな二つの膨らみが覆っている。彼女からはいい匂いがした。


 彼らは、俺のブースの中を検分するのにさほどの時間はかからず、カタカタとキーボードを操作すると、声なき頷きと共にその場を足早に去ってゆく。


 廊下に人の気配がなくなったのを察知して、ようやく力を緩め身体を離した美奈子だったが、そのまま俺の肩に手を添えたまま、小声で言った。


「向かい側は君のブースね? 今戻ってはダメみたいね――――あなた、ここで何をしていたの?」


「何って……別に。家じゃ気が散るから……小説を……」


 俺の答など聞くまでもないだろうに、わざとらしい。


 美奈子はそんな俺の思惑を余所に、ブースの壁の向こうの様子を耳を澄まして探っている。


「どうやら、少し離れた場所で君を待ち伏せする気のようね」


 私なら間違いなくそうする、と確信めいた言葉に背筋が伸びる。


「隠さないで……処女貫徹……君でしょう? あの筆致、すぐに判ったわ」


「フッ……何言ってんですか。っていうか急になんです? 僕はあんな……」俺は無駄な抵抗を試みて顔をあげた。


 しかし美奈子の質問は質問ではなかった。


 だからとぼけても、あざ笑っても無駄な事だった。


「何より迂闊だったわね、連投。原稿の連続複数アップロードをここからしたわね?」


 一箇所のブース、つまり一つのIPアドレスから同日にアップするとしても、その後はすぐに退去すべきだった。それがネカフェなどの公共ネットで違法アップする者の、鉄の掟だった。それを俺、処女貫徹は、世界の反逆者としてではなく、一人の執筆者としての快楽に身を委ね、いとも簡単に失念していたのだ。


 俺は自分の間抜けさに呆れ、無意識に彼女から目を逸らしてしまっていた。


 彼女の目が潤んでいるのは媚薬のせいなんかではない。高揚感ではなく――戸惑いだ。


「――どうしてそんな危険な真似を……君は賞作家なのよ? 発覚したら受賞歴が剥奪されるのよ? そればかりじゃない。版権で得た金額の五百パーセントの過料が科されるのよ、わかってるの?」


 違法アップロードは、いうまでもなく法に抵触するが、特に業界内では作家の道義性としてタブー視されており、作家生命を絶つ行為であると厳しく非難されている。


「そして君は作家として二度と表舞台に立つことが出来なくなるのよ!」


 美奈子のその言葉で、胸の熱は一気に冷えた。恐れた訳ではない。冷めたのだ。


 虚しさのあまりに。


「…………よしてくださいよ。賞作家だなんて。競争率の極低いところを狙って実績積むだけに応募したようなもんなんだから……そんなことで書くことを許されたり許されなかったり……なんて世界だ……どうかしてますよ」俺はせめて、あざ笑うように呟くしかなかった。


 彼女が媚薬に酔った振りをして俺をここに誘ったのも、最初から奴らの気配を感じ取っていたからだ。彼女は惑いながらも冷静に対処していたのだ。


 いつしか俺は、ここに至るまでの道程をふりかえり、涙があふれ出していた。情けなくて、悔しくて、恥ずかしくて。


 男がめそめそと泣くもんじゃない。


 心でそう言い聞かせてはみるが、亀裂が入ったダムは、そう長く持ちこたえることは出来ない。


「俺がこんなことをしなきゃならなくなったのも、――元を正せばあの悪法、そしてそれを強く執拗に推進してきた政府であり、――それに加担した、あなただ! 作品をこき下ろし、俺達を組み伏せて、ゲライモを踏ませた。し、しょ、小説を愛するはずのあなたに、何故あんなことが、何故あんなことが、で、出来――デキるんですか! 想像創作規制法とは、あなたを、そんな風に変えてしまうほどの、ことなんですか!」


 勢いで俺は顔を上げ、そのまま美奈子の肩を掴み、覆い被さるように両手で床に組み伏せた。囁くようにして激しく彼女のことを詰った。


 なんなんだ、あなたは。俺達を弄んでいるのか? そして今度は俺を守るようなことをして、一体どういうつもりなんだよ?


 俺の涙の滴が視線を逸らす彼女の頬に落ちた。


 倒れた勢いで美奈子の三つ編みの片方が解けてしまい、揺蕩う黒髪が、安物のタイルカーペットを敷いた床に広がっていた。


 俺はその毛束を手に取り、指先に巻き付け弄んだ。髪の毛の一本一本を確かめるように、その細い線に含まれる嘘を探すように、執拗に何度も何度も。


「ごめんなさい。ずっと、今まで……」


 美奈子は仰向けになったまま、首を横にかたむけ、俺のことが直視できないようだった。


「はッ……何を、今更……。あなたは俺のことを、一度たりとも評価しなかったじゃないか」


 俺は彼女の髪をやや強く掴んでひっぱった。


 完全に脱力し怠惰ともとれる態度に苛ついたのもある。


 またはぐらかそうとするのかと。


 髪を掴んだ拳に力が入ると同時に美奈子は声を抑えようとしながら、か細く叫んだ。


「ちがうの! ……できなかったの!」


 力及ばず致し方なかったのだ、などと耳障りのいい、オトナがよくする言い訳など聴きたくはない。俺はあなたから真実という果実をもぎ取りたいのだ。さあ、言え!


「フッ、評価できないほどだった……と」


俺は彼女の髪を食み、舌先で舐め回し、唾液でべたべたにした。


 さあ言え、美奈子。


「いやっ、やめて!」


 その拒絶。俺の嗜虐心に再び灯が点る。


「今まで俺は、あなたに随分といたぶられてきました。このくらいの罰を受けても仕方がないんじゃないですか?」


 さらに彼女の髪を口に頬張る。さあ言え、言うんだ!


「ちがう、ちがう! そうじゃないの!」


「そうひゃない?」


「いやあ! もう髪を食べるのは止めて!」


 サディスティックに彼女を責めたてるのが本意だった訳じゃない。これは俺達がくぐらねばならない通過儀礼だ。あなたを赦すためにはこうするしかないんだ。けして髪を食べたい訳ではない。


「Gメン。あなたが呼んだんでしょう?」


「ちがう。……ちがうわ」


 彼女は即座に否定した。


 分かっているさ。そうじゃない。


 だが、


「ホラ、また俺を嵌めようとした。悪趣味に弄んだ」


「信じて、違うの……」


 分かっている。違うよ。


 だが責めずにはいられなかった。


「下手な芝居しないでください。萎えますよ……さっきトイレにゆくといって、通報したんでしょう」


「ちがうの! 信じて!」


 あの時、談話室の机上には、無造作に放置された彼女の財布とスマートフォンがあった。彼女が通報する手段などなかった。何より一番の原因を作ったのは、俺なのだ。

 

 俺が彼女を押し倒した衝撃で、彼女のブースのパソコンがスリープ状態から目を覚ましていた。そのディスプレイには書きかけの文書作成画面が浮かび上がっていた。


 それを目にした俺は、さらに心が冷めてゆくのを感じた。


 やはり、あなたは嘘つきだ。とんでもない嘘つきだ。


「あなたは、とんでもない悪女だ。これはもう、お仕置きをせねばなりませんね」


 そう言って俺は彼女の身体を跨ぎ、キーボードに手を伸ばし、震える手でバックスペースキーを押した。


「ちょ、国重くん! なにを……!」


 美奈子はか細く叫んだ。


「だから、お仕置きですよ、せんせい……イヤ、仕返しといった方がいいですかね?」


 俺は非道にも左手で彼女の顎を押さえながら、右手でバックスペースキーを押し続けた。次から次へと物語を形作る文字列が消えてゆく、俺の手で。


 小説執筆者にとって、今しがた形作った物語が単なるテキストデータとして記号的にデリートされてしまう喪失感は計り知れないものがある。どうしてバックアップを取っておかなかったのか、という悔悛以前に、もはやさっき執筆したときの気持ちに戻ることも、寄り添うことも出来ないジレンマに悶え苦しむのである。


「違うのよ! 私は!」


「ちがう、ちがう、ちがう――そうじゃない――そればっかりですね。じゃあ俺はどうすればいいんですか――ねえ、せ・ん・せ・い? ほら、どんどん消えてしまいます、あなたの物語が! あなたの物語が消えますよぉ!」


 彼女が必死で俺の右手の操作を遮ろうともがく姿に、俺のアナコンダは絶頂を迎えようとしていた。


 三十センチ下の、あなたの瞳から沸き立つ泉に、俺はダイブしたかった。


 俺はあなたの心の内を知りたかった。あなたという女性ヒトの本当を知りたかった。


 そして、俺はどうすればいいのか、この課外授業で教えて欲しかった。


「国重くん! 話を聴いて! もう、もう……やめてぇええ!」


 その押し殺した悲鳴は、俺の嗜虐心をマッドマックスに狂喜乱舞させた。俺は、俺は、ついにその果実をこの手に掴んだのだ。


 「いやぁあっ!」


 無防備にも腹を下に彼女を跨ぐような格好でいた俺は、見事に股間に膝蹴りを食らい、そのまま背中からもんどりをうって、簡素な扉を破ってブースの外に転げた。


 股間を押さえ、息が詰まりながらも、必死で体制を立て直し、ブースへ戻ろうとした。


「ごっ、めん……ごめんなさい! 国重くん大丈夫!」


 彼女が叫んだその時、騒ぎを聞きつけたのか、受付のほうから駆け足が近づいてくるのが分かった。

 それも複数、Gメンに違いない。


 十メートルほど先の廊下の角から揺れる人影を伴って、受付の男が現れた。


 一瞬ぎょっとして、倒れ込んでいる俺のことをみて立ち止まった。そして振り向きざまに目配せをしている。背後にいるGメンに向けたものだろう。


 万事休すだ。


 股間の痛みに耐えながら起き上がり、背を向ける。


 それと同時に、後ろから強引に脇を抱えられた。俺は美奈子に手を引かれGメンらが迫り来る方向とは逆へと駆けた。


「右の角を曲がってずっと奥に、施錠されていない裏口があるわ! さっき確認しておいたの! そこから逃げなさい!」と、美奈子は指図すると俺の背中を押した。


「吉原、さん……」


「事情は訊かないで。何も訊かないで。今までの全てを忘れて日常へ戻りなさい。さあっ、はやく!」

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