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8-4 少年期における文筆活動など、参考書に挟んで隠してレジに持ち込むエロ本のようなもの

 本が好きな者なら一度は錯覚するものだ、“自分にもこれくらい書けるのではないか”と。


 初めて書いた小説とは、死んでも人に見られたくない、忘れ得ぬ支離滅裂の暗黒文書である。


 やはりあなたもそうだったか。俺はこのネタで彼女を強請ゆすりたい衝動に駆られる。


「どんな話だったんですか。聴かせてくださいよ」向かい合った席から彼女の座るソファへと移動する。わずかに、身体の一部が触れる。


「えっ、やだ……恥ずかしいし、それに、もう覚えてないよ」


 美奈子は顔を赤らめて、俺から距離を置こうと身体を反らした。


 俺はその空いた空間に素早く身体を潜り込ませて、彼女との距離を縮める。


「覚えていないはずはないですよ。どんな作家でも初めて書いた小説の内容は必ず覚えているものです。あんな恥ずかしいこと、忘れられるはずがない……違いますか?」


「おぼえてないったら、もうっ! ――大人をからかうのはよしなさい」


 美奈子は愛想笑いをしていた口元を引き締め、息を吸うと少しだけ声を正した。


 だが、もはや俺はあなたの生徒ではない。


 そしてからかってなどはいない。


 今ではすっかり熟れたあなたではあるが、かつては果実ですらなく、雨水にさえ触れられる事を厭うような堅い花弁を、ようやく開き始めた一輪の花であった事実。


 その過去に今俺は触れようとしている。


「いいえ、覚えているはずですよ。十六歳の乙女の淡い思いを綴ったのではないですか? あなたは、少女と女性の境界線上で喘ぐ不安と期待を織り交ぜた、日々泉のように沸き立つリビドーを文字へと落とし込むことで、精神の安定を得ていたのですから……少年期における文筆活動など、参考書に挟んで隠してレジに持ち込むエロ本のようなものですよ、違いませんか?」


 息づかいを感じるほどに近く寄り添い、彼女の顔を覗き込むようにして囁くと、美奈子は少女のようにやや俯き加減に、より頬を赤らめた。


「……エエ。違わないわ……君の言う通りね」


「人は花を見てその花弁の色艶や形、全体を構成する得もいえぬ美麗さに目を奪われがちですが、実のところそのぱっくりと開いた中心部に鎮座しているのは性器そのものです。あなた方女性は我が身の凜とした美を誇示しているかに見えつつも、無意識的に性的欲求を露わにしているのです。私だけは違う、なんてあなたには言えるでしょうか? 否、言えますまい……その後ろめたさの反作用こそがあなたのその強さであるのでしょう。ええ、文学への情熱とは根源的に矛盾をはらんでいるものですよ」


 淀むことなく言い終えた俺は、目を伏せ、緩やかに首を左右に振りつつ、彼女からの返答を待つ。


「え、ええ……あの頃の私は穢れを知らなかったわ。世界は広く明るく素晴らしいものだと確信していたし、物語は報われるものだと信じていた」


「――悲恋などあり得ない」


「紆余曲折あったとしても、主人公は最後には救われなければならなかった。咲き誇った花をそのまま枯らしてしまうことなど、出来はしないじゃない!」


 美奈子は身体を震わせ、激昂した。


 仕方のない女だとばかりに、俺は息をつき立ち上がると、胸を包むように自身の両手で肩を抱きしめる美奈子のことをじっと見下ろした。


「そうして――そうして、あなたは恋愛ものを書き綴った。運命の出会い、非業な別れ、困難に抗い、引き寄せ、たぐり寄せた再会、手に手を取り合い壁を乗り越え、やがてたどり着く何者にも犯されることのない楽園を目指して。情欲、その果てにある愛、そして破滅……そう、新たな楽園などなかった、そこにあったのは破滅だけ」


 俺はいつしか美奈子に覆い被さるように、耳元へと唇を近づけ、吐息を吹きかけていた。


「美奈子は……好きな人いたの?」


「やだ……」


「うん? どうしちゃったの? はずかしいの? 君らしくもない――さあ、僕に教えて」


「ひ、一つ上の、先輩……」


「告白しちゃったの? 先輩に? キスしたの? ねえ?」


「やめて、やだ……恥ずかしいよ……」


 俺は彼女の太ももに手を置いて、ちろりと舌先で耳たぶに触れる。


 わずかに彼女の肩がピクリと跳ね「やだ……」と口腔の奥でかすかに、言葉の意を伴わない拒否を試みる。


「じゃあ、続きは個室でじっくり聞かせてもらおうかな。いいよね? 美奈子」」

 

「え、でも……ブースはシングルだし、それに……」


 美奈子はさらに両肩を縮めて、身もだえした。


「料金はお互いの部屋分を支払っているんだ。なんの問題もないさ。旅行に来たカップルがホテルでダブルの部屋を取るのは当然だけども、ベッドを別にして眠るなどあり得ない。そうだろう?」


 理路整然と俺達が個室に赴くことの正当性を説いた。聡明なあなたとて、もはやこうなっては反論は出来まい。


「え、エエ……そんなのはあり得ないわ、非現実的よ。男と女が一晩ベッドの上で過ごして何もないなんて……」


 そう、いい子だ、美奈子。


 俺はつい鼻息を荒げてしまわぬよう、グッと息を止めた。淑女を愛の巣へとエスコートする紳士たらんと。


 ここで慌てて竿を引けば、獲物は鋭い針に気づいて口を離してしまう。ここは溜めるのだ。彼女が自ら針を飲んでしまうまで。


「でも待ってください、センセイ……こんなのはよくない……いえ、たとえ二人きりになったとて、僕らは無防備に眠ってしまうかもしれない」


 俺はわざと身を引き、悲しげに顔を背けてみせた。美奈子は潤んだ声で問いかける「どうしてそう思うの」と。


「僕らは、――僕らは生きることに疲れすぎているから……」俺は肩越しに、今にもすがりそうな美奈子に視線を投げる。


すると、はたと気づいたように顔を上げ、美奈子はゆっくり立ち上がり、俺の手をとった。


「――――国重君……きて」


 俺は彼女にぐいと力強く手を引かれ、談話室のソファから剥がされた。


 そのまま、来た時とは逆回りで回廊を歩き、元のブース前に移動していた。俺のブースはBの26番。吉原美奈子のブースはA25番。


 美奈子はちらと扉に書かれたそのブース番号を確認し、俺のことを覗き見て、わずかに息を呑んだ。

 突然ぐいと俺のシャツが引っ張られ、強すぎない力で「国重君、入って」と、彼女のブースの簡素な扉の内側へ引き込まれた。


 たった二畳ばかりのカーペット敷きの狭小な空間は、どのブースも同じ構造だ。なかば強引に引きずり込まれた俺は、美奈子の身体と密着せざるを得なかった。


 さすがに驚いた。ここまでは媚薬の効果だとしても、この先の展開を考えると正直チェリーはびびった。これではまるでAVではないか。


 何が起きようとしているのかは想像がつきすぎて、俺はさっきまで昂ぶらせた情欲の熱が冷め止もうとしていた。


 そして残念ながら気づいてしまうのだ。


 彼女のこの行動は媚薬のせいなどではないということを……いや、もっと違う。


 もう彼女のその声は、天然素材の素朴な甘みを感じさせるものではなく、今の彼女はあの時の、俺達がよく知る、いつもの、あの彼女だった。


「黙って。頭を下げて」まるで俺をその身体の内へしまい込んでしまおうとするかのように、吉原美奈子はぐいと俺の頭を引き寄せた。

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