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8-3 私ネ、お母さんになったのよ

 夜半を過ぎていた。


 彼女は執筆を終えたのだろうか、隣のブースの扉が開いたのがわかった。


 俺のシンパシーはタブーを駆逐しようとしていた。興味本位ではなく、畏敬の念を込めて、彼女に一言だけお礼を言いたかった。そして叶うならば、あの神速のごとき執筆技術にあやかりたい、教示してもらいたいと図々しいことを考えていた。作家同士という共通項にぶらさがろうと。


 きっと彼女も気づいていたはずだ、隣にも小説を書いている者がいると。


 簡素なドアを開いて廊下を覗き見たとき、彼女の背中は狭い通路の三メートル先にあった。


 薄暗いネカフェの廊下を、足裏を引きずるような歩き方でドリンクコーナーに向かう後ろ姿はだらしない。ジャージの上下に突っかけ。頭はロングヘアを三つ編みに編んでいた。


 年齢はよく判らなかったが、そんなことはどうでもいい。同じ執筆者として、紳士的に真摯に彼女に声をかけることにした。


「あの……ちょっといいですか」


 彼女の背中は、びくりと肩を跳ね上げた。


 その姿をみて、しまったと思った。


俺は途端に冷静さを取り戻す。さっきまでの熱情が無機質なネカフェ内に放散してゆく。 物書き同士のタブー以前に、ネカフェのような公共的プライベート空間で声をかけるのはマナー違反だと思い直した。


 女性であってもネカフェに行くのにメイクを施し、洒落た格好をする人はごく希だろう。誰でも自宅とほぼ同じか、場合によってはそれより怠惰な格好をしているものだ。


 他の客の存在は他人どころか、物体に過ぎない。


 ここに居る誰もが、他者とのコミュニケーションなど端から想定していないのだ。


 振り返った顔はおそらくすっぴんだろうと、今更すまない気持ちになり、心せず俯き加減になった。

 そんな俺に振り返った彼女は、一瞬戸惑い、半歩後ろに身を引いた。


 当然だ。


 つま先の動きからしてあきらかに警戒されている。だが今更引くことは出来ない。

 ええいままよと、俺は視線を彼女の顔に向けた。


 ところが、


 俺の「すみません!」と同時に、彼女は「く、国重君?」と俺を見て言ったのだ。

 

 売り切れごめんで売り出してみたものの、もはや潰してジュースにするしかないほどの熟れきり果実は三十六歳独身。完全無欠のボディスーツに身を包み、聡明なる頭脳と狡猾なる言説で青少年を惑わしながら、時折見せる隙だらけの少女のような可憐さは、さながら食虫花のように美しくもおぞましくも強かな求心力を秘め、その実、妙齢をとっくに過ぎた大人女性として、悩ましげな表情を浮かべて桃色の溜息を吐く様は、高校女教師として、男子生徒の羨望と渇望と淫心を搔き立てながら、密かなズリネタになっていた事実を知ってか知らでか、まるでその惑う瞳は、まさに猥雑な色香を無駄に振りまく咎を悔いているようにすら見える八面六臂の女神。


 吉原・ヴィーナス・美奈子……だった。


 その彼女が、今目の前にいる。


 だが彼女は俺の知る、あの日あの時、あの場所での彼女ではなかった。


 黒縁の実用一辺倒の眼鏡に、女学生のように三つ編みにしたおさげを肩に垂らし、高校時代から愛用していると思われる、けして身体の凹凸を意識させないえんじ地に三本白色ラインのダサジャージ。本来ならその真正面にそそり立つはずの連峰は、滑らかなメリヤスのベールに包まれて荒々しい稜線を潜めている。


 メイクを施さない彼女の両のまぶたは一重で、メリハリのない顔は全体的にくすんで、体調が悪い女かのように見えた。さすがに長時間の執筆で疲れているのだろうかとも考えたが、いや、それは単に、眉毛が描かれていないせいだとすぐに気づいた。


「やだ、こんな顔なのに……」わっと両手で頬を押さえてはにかむ彼女に、心の臓が高鳴った。

 ――――いや、違う。俺は何を考えたのだ。


 隣のブースでは確かに小説を書いていた。隣のブースから出てきた女は吉原美奈子だ。


 小説執筆は国語教師としての嗜みか。


 あれだけ部室で俺達に高説を垂れ続けた女だ。自分も趣味で小説を書いているとは口に出せなかったのも頷ける。なぜなら、多くの映画評論家が撮った映画がクソなのと同様、小説を読み、説き、論じる能力と、書く能力は全く別物だからだ。


 吉原美奈子も、さぞクソな小説を書いていたのであろう。


 流麗なキータッチはワープロ教室で習得したものか。


 高度な文書作成能力は国語教師なら備えていて当然であろう。


 俺は警戒心が怒りに切り替わる寸前で、即座に感情線を降りた。


「はは……いえ、いつもと変わらずお綺麗ですよ、先生」


 美奈子は一瞬呆気にとられたように動作を止めたが、やがて気づいたようにドリンクサーバーに向かいコップを手に取ると、「もお、お世辞なんて生意気ね。それに、その呼び方はやめてよ。もう先生じゃないんだから……」と、前髪を弄びつつ、紅を引いていない唇を嚙んで、眼鏡の向こう、やや上目遣いで俺の瞳に向かって苦言を呈した。


 俺はここまできて、とんでもない失態を犯した事に気づいた。


 俺がここに居ることが、吉原美奈子にバレたということだ。


 もはや彼女は女教師でもなければ、文芸部の顧問でもないが、白鳥を擁立した女であり、文芸改革者として業界で名を馳せた人物であり、俺の名を奪い地位を奪い、文芸部追放に至るまでの道筋をナビゲートしたコンシュルジュであり、俺の作家転落劇のコーディネーターである。


 だが、「ネェ、国重君は何にする?」そんな事実は一切なかった、“実はあなたを追い落としたのは、冷酷な私の双子の姉なのよ”とでも言いたげに、ドリンクサーバーのボタン操作をしながら無邪気な微笑み。


 もはやかつての生徒と教師という関係性はないといっても、気を許す訳にはいくまい。一体何を企んでいるのか、吉原美奈子。


 その探りを入れるためにも、久しぶりだし少し話をしましょうか、という美奈子の誘いにのることにした。


 基本的にブース内での込み入った会話は周囲の迷惑となるため、談話室に移動することにした。ここのネカフェではガラス張りの隔離した喫煙室兼、談話室が別に備えられている。


「もう随分遅いけど、お家のほうは大丈夫なの?」談話室の時計を仰ぎ見て、初めて時間に気づいたようだ。それほど集中していたということだろうか。


「エエ、今晩はネカフェに泊まるって言ってますから。家じゃなかなか気が散って執筆に集中できませんからね」


「相変わらず熱心ね。ちゃんと勉強もしてる?」


 あきらかにこの二年間の吉原美奈子ではない。


 正確に言えば俺が校内でみていた吉原先生ではない。今の彼女は出会った時の吉原・マドンナ・美奈子よりもさらにみずみずしくかつ肉食感のない、素朴な優しい味わいをした天然素材、吉原・ヴィーガン・美奈子だった。


「先生……あ、いや……吉原さんは、今何を?」


 美奈子はぷっと吹き出した。やはり吉原さんなんて呼ぶのは他人行儀に過ぎるか。


「ううん、ごめん、そうだね。あたし(・・・)は君からみたらもう、ただの小母おばさんだもんね」


 そんなことは思っていない。あなたは教師を辞めても吉原美奈子だ。二年間俺の前に立ち塞がり続けた、双丘の悪魔。おっぱいの形をした悪魔だ。


「今は、夢だった自分の仕事に取り組んでるの。教師をやりながらじゃとても出来なくなったからね」くいとストローから一口、アイスコーヒーを口に含むと、粗末な金属製の灰皿に手を伸ばし「いい?」と、煙草をジャージのポケットから取り出してみせる。


 加熱式煙草ではなく、ちゃんと火を点けて煙が出る、本物の煙草だ。


「煙草、吸うんですね。しらなかった」


「学校じゃ吸えないでしょ。ずっと辞めらんなくてネェ……」


 美奈子は一服大きく吸い込むと、煙草を持った手の甲を眉間に当て、目を瞑り、天井を仰ぐようにして、ゆっくり煙を吐き出す。


「……あの、訊いてもいいですか?」


「うん?」


「夢って……吉原さんの夢って、なんですか? 夢が叶ったんですか?」


 本当に訊きたかったのはそれではない。本当は俺を追い詰めて追い落として、自分は早々に場外退場した理由だ。とどめを刺す訳でもなく、一連の追跡劇に加担する訳でもなく。一体あなたは何がしたかったのか。何故突然姿を消したのか。


 まさかこの世の全ての女性の夢など知れたこと、――ネェ国重君、聞いて。……私ネ、お母さんになったのよ、――なんて世俗的な理由ではあるまい。――あるまいが、ありえまい、いや、あってはならない。


 美奈子が人並みの女性の幸せに収まるなど、到底許されぬ事だ。彼女は日々喘ぎ暴走する独身の身体を、完全無欠ボディスーツという拘束具で締め付けてこそ正気を保つ事が出来るのだ……その、はずだ。


「うーん……そうだなぁ、どう言ったらいいのかなぁ…………」


 俺があまりに真剣に彼女のことを見つめすぎたせいだろうか「ゴメン、ちょっとトイレ。すぐ戻ってくる、コレ見ててね」美奈子はまるで少女のように、ぽんと椅子から立ち上がって、喫煙室から出て行ってしまった。


 目の前には彼女が残していったメンソールの煙草にスマホと財布、そして汗をかいたアイスコーヒーのグラス。


 まさか逃げた、という訳ではあるまい。スマホと財布を置いていくなど、彼女はあまりに無防備に過ぎると言わざるを得ない。そして、ジャージの下に完全無欠の拘束具は確認できない。


 なれば試す価値はある。


 俺はおもむろに、ポケットから茶色の小瓶を取り出す。


 三条が科学部からくすねてきたという“媚薬”だ。今まで効果を試した訳ではなかったが、危険なものではないという検分は、自身で可能な限り調べた。最終的には少量だが、俺が実際に舐めてみたのだから間違いはない。ただ、俺には何も起きなかった。男性には効かないのかもしれないし、常日頃からエロいことを考えている人間にとって、効果が実感できるものではないのかもしれない。


 媚薬は無臭で液体には色がついておらず、味は極々薄い砂糖水のようにも思えた。甘いと感じたのは媚薬という響きによる先入観のせいかもしれない。


 この様な薬品は相手に悟られずに摂取させる事こそ肝要なため、舌触りや匂いという点ではひときわ研究が重ねられたはずだ。結果、この様な無色透明、無味無臭の薬液となったのではないだろうか。


 半分は実験、もう半分はあの日、俺が愛を失い追われ人となるきっかけを作った、ゲライモ踏み絵騒動の張本人への復讐の意味を考えれば、さほどに罪悪感はなかった。


 彼女のアイスコーヒーに大さじ一杯分ほど入れる。三条の話では小さじ程度でも充分効果があるらしいが、万全を期してのことだ。


 これを摂取した者は、視界に入った異性の言うことをなんでもきく様になる。秘密を話せと言えばぺらんこぺらんこしゃべり始めるし、俺のことを好きになれと言えば身をすり寄せ桃色の吐息を吐き出す。さらには淫れろと言えば跨がったまま前後左右に激しくグラインド、という寸法らしい。


 あんなことになってしまった俺の恋人、桐生幸子を元に戻すには、もはや媚薬の力に頼らざるをえない、と考え出していた。そのために美奈子を犠牲にする事には何の抵抗もなかった。


 それに上手くゆけば、彼女を利用し、作家人生へと返り咲くことも可能かもしれない。


「ごめんごめん」戻ってきた美奈子は、おっさんさながら笑顔で手刀を切りつつ、また元の席にすとんと収まった。そしてストローを咥えて、つつとアイスコーヒーを半分ほど飲んだ。


 美奈子の喉と同時に、俺の喉も鳴った。


 即効性だとは言っていたが、どのくらいで効果が現れるのかは解らない。だからいきなり核心を突かないように、何気ない会話でできるだけ時間を稼いだ。


「僕らに何も言わずに急に辞めちゃうなんてひどいなぁ、って言ってたんですよ、三条と」


「そうね――うん、本当はね、この春くらいには決まってた事なの。それを学園長から引き留められちゃってね、ずるずると三ヶ月」


「まあ、仕方ないですね。吉原さんはうちの文芸部の立役者ですし――白鳥や桐生はいいにしても、僕らみたいな盆暗を残して辞めるってのは気が気じゃなかったでしょうけど」


「うふふ、相変わらず自虐的ねぇ――ん、詳しくは話せないけど、君が賞を取って一段落したってのもあるし、ちょっと部に関わる問題が発生したってのもあるし、ま色々大人の世界にはあるのよ」


 そう、あの文芸部には問題ありまくりだ。彼女がどこまでを把握していたのかは判らないし、関与していたのかも判らないが、今それを訊いても答えてはくれないだろう。ただ、媚薬が効けば話は別だ。

「吉原さんはなんでネカフェなんかに? まさか僕のように小説を書いてたりして?」少し意地悪な口調で彼女にカマをかける。彼女は俺が隣のブースにいたことを知らないはずだ。


「あはは、まさか……でも実はね、高校生の頃にちょっとだけ――なんだか恥ずかしいから、君たちには言ったことなかったけど」媚薬の効果かどうかは解らないが、やや瞳が潤んでいるように見えた。


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