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8-2 俺はなんの危機感もなく、無防備に賢者時間を過ごしていたのだ

 八月も中盤を過ぎると、ラノベを持ち上げる行為が一種のブームのように盛り上がっていた。それと共に、俺が作り出した覆面ゲリラ作家『処女貫徹』が注目を浴びるようになって、すっかり『文芸界の叛賊国重』のほとぼりは冷めていた。


 根暗な嫉妬者ジェラシスト先駆者パイオニアを叩くのが何よりのご褒美であろう。出る杭は打ちたくなるから、打つべしと声を上げる。だが、出すぎた杭はやがて柱となるのだ。自主性もなく主義主張もなく、自身の能力の是非を問われたくない小心者チキンは、地面の虫をついばみながら柱の周りを駆け回り、夜ごと日ごとに鶏鳴するのだ。


 こうなってはもはや逃げ回る必要はなかったが、日本一周をしてくると言った手前、家にも帰れず、かといって処女貫徹の活動をやめる訳にもいかず、印税が尽きるまでネカフェ通い、および寝泊をし続けていた。


 そんなある晩のことだ。


 いつものようにカウンターで利用の受付をしていると、おどおどした大学生らしきアルバイト従業員が囁くように俺に告げる。もう俺は常連客なのだが、このバイト君は初めて見る顔だった。新入りかもしれない。


「あの、ほら、最近ネットを騒がせている『処女貫徹』って人いるじゃないですか。うちもこの前警察官から聞き取りがあったんですけど、その時言われたのが、どうやら処女貫徹はこの町を中心として活動しているらしいんですね。うちのIPも検出されたことがあるって」


 素知らぬふりをする俺に対して、バイト君がさも自分の手柄だと言わんばかりに、捜査包囲網の概略と、プロファイリングを説いてくれる。


 処女貫徹が使用したIPアドレスの分布を見れば、半径十数キロの移動の限界を示唆する行動だと。そこから推察して移動手段は自転車、すなわち被疑者は自動車やバイク、あるいは免許そのものを持たない人物であると。もしくは自宅がこの街にあるため、帰宅出来る範囲の人間か。


 また作品内容に盛り込まれたパロディやオマージュ、リスペクト性要素から考えて、最も多くのファンタジー作品に触れた三十台あたりの男性、かつ昼間の投稿時間帯から考えると、無職者、ニートと見られていたが、時期的なことを勘案すれば、この付近の夏休み中の学生か、子供がいない専業主婦の可能性も否めない、と。


 どこまでが本当の話かはわからないが、「へえ、そうなんですか、大変ですね」と俺はとぼけて相づちを打ちつつ、従業員の視界に映らない背中で興奮していた。


 ファンタジー規制法とエロ規制法は青少年に対する、作品の執筆や所持、閲覧を規制したもので、法的な罰則規定はない。ただアマチュア作品公開規制のほうは、年齢にかかわらず公の場への発表を全面的に禁じており、こちらは二年以下の懲役または二五〇万円以下の罰金という、猥褻物頒布わいせつぶつはんぷ等の罪、などと同等の扱いであり、立派な犯罪であるからして警察が動いている。


 充分な犯罪を犯している自覚も、捕縛される恐れもあった。


 だが反面、打ち倒される覚悟で、地を杭で穿つカタルシスにも酔っていた。


 俺はそれでよかった。もはや何も棄てるものなどないのだ。


 一つだけ、ただ一つだけ望みがあるなら、このまま捕まることなく、せめて完結まで書ききりたかった。


「――ま、彼が何者かは別にしても、大した度胸ですよ。我々オタクの希望の星だね」バイト君はこれまた、さも処女貫徹が自らの同志であるかのような物言いを呈し、自らもオタクであることを公言した。


 その彼の極めて風見鶏な言い分に不快感を覚えた。


 だから俺は、「僕は興味ないですね、どうしてあんな文字ばかりのものに真剣になれるんでしょうね? こんな時代に小説書いてる人なんてホントにいるんですか?」と、軽薄に首をかしげ、彼に笑いかけた。


 バイト君は俺の言いように一瞬眉をひそめたが、イニシアティブはこちらにあらんとばかりにクスッと笑い、「君が暢気にそう考えるならいいんだけど」、と前置きしたうえで眼鏡越しの視線をブースの奥へと向け、「いるんだよね、ウチの常連で怪しい人が」と言う。


 ほう、それは穏やかではないな。


 奥のブースで、連日高速でキーボードを叩いている者がいるのだという。


 従業員だからといって、いちいちどこのブースの人間が、いかなる人物なのかまでは把握していないので、それ以上の情報は聞けずだったが、たしかにそれは小説執筆者の可能性が高い。


 だが無論、そいつは処女貫徹ではない。


 処女貫徹は貴様の目の前にいる、この俺である。


「とはいえ、まぁ、僕には関係ないことですよ。――もっとも、そんな怪しい人がいたら通報してしまうかもしれませんけどね、あなた達の希望の星を」そう軽口を叩きながらも、当然興味が湧いた。


 その者が本当に小説を書いているのならば、キーボードの打音が奏でるリズムで判別できる。そいつが優れた執筆者かどうかも。


 俺は様子をうかがおうと、耳を澄ましキーボードの打音がするブースを捜したのだが、何の事はない、俺が入るブースの廊下を挟んで向かい側だった。


 キータッチはスムーズそのもの。ほとんどが一発書きで加除修正削除キー操作などはほぼ行っていないとおもわれる。それにキーボードはネカフェ備え付けのものではなく、持ち込みの“マイキーボード”だ。よく整備されている高級品のようだ。ショートカットキーも完全にマスターしているらしく、マウスのスライド動作もクリック音もほとんどない。


 何より驚くべきはその打弦速度だ。小説執筆者の超速打弦とは、単にキーボードに慣れているというだけでは獲得できないスキルである。


 執筆、それは頭に浮かんだ意明示いめいじを瞬時に、意味とリズムに乗せながら文字に変換する作業であり、ソフト側にも作家の意明示相応の単語登録と学習能力が必要とされる訳で、普通の人間には一朝一夕で思うままの執筆が出来る環境は構築できない。


 俺はこれほどの速度でキーを打てる執筆者など、桐生先輩以外には知らない。


 もしかすると、この壁の向こうの御仁は何らかのプロ作家なのだろうか。


 小説執筆に限らず、ネカフェは集中して作業をするにはよい環境だから、気の散る職場や自宅を抜けて、わざわざネカフェに作業場を求める各種の物書きが多いとも聞く。


 それにしてもいいリズムだ。波に乗っている。言葉の大海という凪いだ海を力強く進むガレオン船のようだ。俺もこれほど滑らかに、迷いなくキーを打てたなら、言葉を書き漏らすこともないだろう。一瞬頭に浮かんだ意明示にあてる言葉が、瞬時に出てくるなら、より正確な、心のままの表現が出来るのではないだろうか。


 正直、嫉妬するほどに鮮やかな打弦だ。


 しばし聞き惚れて目を閉じていると、まるで心地のよい音楽を聴いているかのように、俺の心は宇宙に浮かぶ星屑のように彷徨いだす。


 そうだ、音楽が連続した音の集まりならば、小説は文字の集まりが言葉となり、言葉が文節をつくり、それらが連続して物語を紡ぐのだ。今俺は物語が綴られる音を聞いているのだ。キーボードの打弦音とはすなわち、物語という華麗なる織物を織る、機織機の音。


 だが、その機織る者の姿を覗き見る事はけして許されない。


 いかに勇猛果敢な勇者が活躍するファンタジー小説であろうが、異性に散々裏切られ、現実を知らしめられ、すっかり忘れかけていた甘酸っぱい気持ちを勃起させる恋愛小説だろうが、心の澱を全て溶かして全世界を涙線崩壊という災禍に見舞う感動小説であろうが、その内実、物語を生み出すのは何の変哲もないこの世界の片隅に生きている人、すなわち作家などという穀潰しに過ぎないからだ。


 製本には、著者近影などと表紙裏に写真が載っていることもあるだろうが、一体彼らの業界では何十年間が近影なのだろうか、と思った事はないだろうか。


 無論、見た目ではない。


 どんな人物が書いているかなど問題ではない。


 そこは突っ込んではいけないのだ。


 ブース内の壁に背をつけ、ふうと息を吐く。


 落ち着け俺。


 向かいのブースにいる手練れは無視できない存在かもしれぬが、今はまだその時ではない。今のままの俺では返り討ちに遭うだけだ。奴は、あきらかに、俺よりも、できる。


 そう思った途端、膝の力が抜けて、尻餅をついた。


 そしてそれと同時に、まるで威嚇をやめたかのように、奴の打弦音が止まった。


 何事かと耳を澄ますと、おおきく深呼吸をしている。


 そして「うあぁあああ……」と肺の奥の方で唸るような声。


 女性だった。そして暫くしてからまた超速の打弦。


 向かいの小説家じょせいはこれを何分かおきに繰り返した。


 俺はその熱気に当てられたように、全身が熱くなり、呼吸が速くなり、自身の作品に立ち向かわずにはおれなくなった。


 彼女の超速打弦には及ばずとも、その日の俺の指先は、彼女に導かれるように軽やかだった。まるで不器用な協奏曲であったが、俺と彼女はまるで一つのキーボードを連弾して、一つの作品を作っているかのような錯覚に陥った。


 タタン――


 彼女と俺のエンターキーがオーバーラップリンクする。


 なんという快感、なんという清々しさ。


 気づけば愚息はカチンコチンに勃起していた。


 俺は思わず立ち上がり、両手を開いて神の啓示を受けるが如く、薄暗い天井にはめ込まれた粗末なダウンライトを仰いだ。


 きっと彼女も今書ききった身を、背もたれに預けて息をついているだろう。


 気づけばいつもの倍の量を書いていた。


 だから、サービス精神も手伝って、いつもはしない連投を行ってしまっていた。


 連投といっても同一掲示板への連続書き込みではない。いつものように、別の掲示板を二三はしごして同時に投稿したのだ。あまりに調子がよすぎた。最初の投稿から随分と時間が経っているにもかかわらず、俺は筆勢の余韻をブースの壁にもたれかかり反芻していた。


 そう、この時の俺はなんの危機感もなく、無防備に賢者時間しふくのじかんを過ごしていたのだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 流石に無防備すぎましたね!笑
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