蟹と老人(2)
お昼時、漁場から戻った彼はいつものようにサザンカの経営する宿屋“ケンエン亭”に向かった。村に一軒しかない宿に名前があることはほとんどの村民が忘れている。なにせ皆“宿屋”としか呼ばない。一軒だけなのでそれでも誰も困らないのだ。しかしクロマツは店の名付け親なのでちゃんと覚えている。先代の店主とその妻は彼の幼馴染で、二人が店を開いた時、あれこれ協力してやったら名付けを頼まれた。それで子供時代には犬と猿のように仲が悪かったあの二人の思い出にちなみ“ケンエン亭”と名付けた。
村に入って少し歩くと店の看板が見えて来る。ケンエン亭なのにそれには店名と一緒にキジの意匠が彫られていた。キジは繁殖力が強く、それゆえ子孫繁栄を意味する。大人になってからは人目もはばからずいちゃつくほど仲睦まじくなった先代夫婦。彼等はそれを知ってムクゲの父親に頼み、これを彫ってもらった。そのおかげかは知らないが、少子化の進んだこの村でもケンエン亭にはまだ二人の子がいる。
(にしても……)
イヌにサルにキジと来て跡取り息子がモモハルなのだから、まるでモモタロウのようだ。女神ウィンゲイトから人々に伝えられた異界の勇者の物語。モモハルも、ひょっとしたらそんな偉大な男になるのかもしれない。もちろん父の跡を継いで料理人になったとしても、それはそれで立派な仕事だ。村の子供達は全員、今後どう育っていくのかが楽しみでならない。
直後、さらに店に近付いて行った彼は異変を察する。
「なんじゃ?」
いつもと違って店の方がやけに騒がしい。何事かと思って小走りで正面まで回り込むと、何故か大勢の村人がそこに詰め掛けていた。
「どうしたんじゃ皆の衆?」
「あっ、クロマツさん! アンタ、カニ獲りにいっとったんか?」
「ああ」
「じゃあもしかして、アレ、アンタの仕業かい!?」
「は?」
なんのことかと思って人垣をかき分け、中を覗き込んでギョッとした。
「あ、あ、あれはっ!?」
さらに強引に前に出て、テーブルの上に鎮座する巨体を見上げつつ叫ぶ。
「クマクイダイオウガニ!!」
体高二ヒフ。両足を広げれば幅四ヒフに近い超大物。間違いない、滝の裏の洞窟に潜む川の主。いったいどうしてこいつがここに?
「あっクロマツさん」
「なにっ!? ちょうどいいとこに来てくれた、コイツの調理法を教えてくれ! こんなの流石にどうしたらいいかわかんねえよ!」
サザンカが泣きついて来る。無理もあるまい。こいつの調理は彼の父親だって一回しか経験が無い。なにせカニの天敵であるクマすら逆に捕食してしまう怪物。危険すぎて誰も近寄りたがらない。
「お、お前の親父はツゲさんに手伝ってもらって解体して、外で焼いておったわい……」
「やっぱりそれしかねえか。こんなもん鍋にも窯にも入らねえしな。よし、手伝ってくれツゲさん! あと皆も食いたかったら手伝ってくれよな!!」
「おう、任せろ!! ハハハハ、何十年かぶりで腕が鳴るわい。昔食ったやつぁ美味かったのう」
「そういやワシも子供の時に食ったなあ」
「あん時ゃクロマツが里まで迷い出て来たやつを退治したんだったか」
「えっ!?」
村人達の言葉に、やはりその場にいたスズランが驚く。
またしても引っかかるものを感じたクロマツは少女に問いかけた。
「スズちゃん、あのカニ、どうしたんじゃ?」
「えっ? あっ、えと、川を流れて来たんだよ」
「流れて?」
「うん、気絶して泡を吹いた状態でブクブクって。何があったんだろうね」
「……ううむ」
川を流れて来たなら、その川沿いに帰って来た自分も目撃していなければおかしい気がする。歳を食ったとはいえ流石にこんなデカブツを見逃したりはしない。
無意識に、手ぬぐいを握り締めつつ改めて問うた。
「スズちゃん、何か隠しとらんかね?」
「ううん? 何も?」
そう返しつつ少女の目線は泳いでいた。なんとも嘘をつくのが下手な子だ。
まあ、何を隠しているかは知らないが、きっと悪いことではない。そう信じられる程度には、このスズランという娘をよく観察してきたつもりだ。
それに誰が相手でも、まず信じてやらねば上手くはいかない。
彼はそれを、昔この村にいた一人の魔女から教わった。
「そうか。ほいじゃ腹ごしらえをして、それから“また”カニを獲りに行こう」
「うん!」
こちらのカマかけには気付かず素直に頷く少女。
本当に嘘をつくのが下手な子だ。
(この子もどういう風に育つんじゃろうな……いったい、どちらの“母親”により似とるのやら)
スズランは、ひょっとしたらこの小さな村に収まる器ではないのかもしれない。そんな予感に、彼は一抹の寂しさを覚えるのだった。
「モモハル! そっちに行った!!」
「わっ!? うわわわっ!!」
「おにいちゃんがんばって!!」
「コラコラ、料理人が食材から逃げてどうすんだ」
スズランの追い立てたカニがモモハルの方へ移動する。彼の顔より大きいそいつに怯え、逃げ回るモモハル。応援する妹と父親。
川縁に座ったクロマツは、左右に立つカタバミとレンゲに挟まれた状態で定期的にクマ除けの鈴をチリンチリンと鳴らしていた。
(この騒がしさなら必要無いかもしれんがの)
「あっ、スズちゃん! 今度はスズちゃんの方に行くよ!!」
「うわっぷ!?」
「ちょ、スズ、大丈夫!? こんの、うちの子によくも!!」
カニの急襲に驚いて転ぶスズラン。その姿を見るなり袖をまくり上げ突進していくカタバミ。やはり男勝りなところは完全には治っていないらしい。
そして今度はカタバミも加えた三人で一匹のカニを追いかける。やつも可哀想に。たまたまここにいて逃げ遅れたばっかりに。
「クロマツさん、ごめんね騒がしくして。これじゃ仕事にならないでしょ?」
「いいんじゃよ、ワシから誘ったんだもの。たまにはこんな日があってもええさ。今日はもう腹一杯カニを食ったしな」
「あれには驚いたわね。まさかダイオウガニが流されてくるなんて」
「落石にでも見舞われたのかもしれんの」
例の川の主の頭には何かがぶつかったような跡があった。甲羅の一部が割れてへこんでいたのだ。昔、直に戦ったことがあるからわかるが、あんな傷は力自慢の怪力男でも到底付けられるもんではない。なにせクマを捕食する怪物なのだ。
それこそ“魔法”でも使えないと無理だろう。
「スズちゃんの隠し事はそれかの……」
「えっ? なに?」
「なんでもない、独り言じゃ」
本人にまだ言うつもりが無いようだし、しばらく黙っていてやるとしよう。あの子なら決心さえつけば自ら明かしてくれるはず。
(それにしてもスズちゃんとモモハルは今月で八歳か。大きくなったもんじゃな。子供の成長は早い早い)
そんなことを考える度、脳裏には十数年前に村から出て行ってしまった息子の顔がちらつく。あの馬鹿息子も今ではミヤギで立派に父親をしているらしい。孫達もこれからますます手がかかるだろうし、病気や怪我などしなければいいのだが。
その孫達には一度も会ったことが無い。時々手紙は送られてくるものの、いつも送り主の名は息子でなく息子の嫁だ。まあ、しかたないだろう。帰って来いなどと言うつもりもない。自分にそんな資格は無いから。
(リンドウ……信じてやれんで、すまんかったなあ)
昔、村に住んでいた魔女。彼女がくれた薬を飲ませなかったせいで妻は死んだ。よそ者の上に村の平和をかき乱した女を、どうしても信用できなかった。
息子とはそれが原因で喧嘩別れ。ナスベリと仲の良い若者達の中にはリンドウに対する大人達の態度を快く思わない者も何人かいた。息子もその一人だった。しかも薬のことがバレ、薬さえ飲ませていればきっと母さんは助かったのにと責め立てられ、カッとなったクロマツは怒鳴り返し、互いに激昂して殴り合いになった。
その夜、小さな鞄一つを背負い「じゃあな」と言って出て行ったのが最後に見た息子の姿。
薬は、後で医者に調べてもらったところ本物だとわかった。あの魔女は嘘を言っていなかったのだ。本当に、自分に対して辛く当たっていたうちの一人を助けようとしてくれた。
それを知って以来、ずっと悔んでいる。妻が死んだのも、息子が村を捨てたのも、嫁や孫達に会うことができないのも全ては自業自得。
それに、
(ナスベリも……ワシが、ワシらが意固地にならなければ、今頃は村で……)
歳を取れば取るほど、人は疑い深くなる。
積み重ねた経験がそうさせる。
それでも、やはり他人を信じることを忘れてはいけない。
あの親子にしてしまった仕打ちの、その苦い記憶は彼にそう教えてくれた。
だから、だからもし、もう一度機会を得られたなら、その時には絶対──
「クロマツさん?」
「いや、なんでもない……なんでもないよ」
「……なんでもないことはないでしょ」
涙ぐんでいる彼を見て、隣に座り、頭をもたれかけてくるレンゲ。
「この村は皆が家族じゃない。だから何かあるならちゃんと聞かせて、お父さん」
「せめて、おじさんにしときなさい」
まだ生きている父親に申し訳ない。
クロマツは涙を拭って白い歯を覗かせる。
「実はな、今度あの馬鹿息子が帰って来るらしいんじゃ」
「えっ? ほんとに?」
「ああ、ようやく嫁と孫の顔を見られるわい。カズラとカタバミのおかげじゃな」
「そうね、きっとそう」
あの二人が村から出て行った幼馴染達に手紙を送り続けていることなど、すでに村中に知れ渡っている。本人達はこっそりやっているつもりらしいが。
「お前さんとサザンカには頭が上がらんよ」
「私達に? どうして、手紙を送ったのは──」
「お前さん達がいなければ、あの二人は帰って来なかった。お前とサザンカが信じ続けてやったから、ワシらが冷たい態度を取っても、あの二人は村に残った。そうじゃろ?」
横目で見ると、レンゲは照れ臭そうにそっぽを向く。
「……まあ、そうかも」
「だからじゃよ、ありがとなレンゲ。後でサザンカにも礼を言わにゃな」
「なら夕飯の後でね。あのカニまだ残ってるんだから。今夜はカニ尽くしでクロマツさん達と呑むんだって張り切ってたわよ」
「そうかそうか、それは楽しみじゃ。ムクゲあたりも誘ってやるとしよう」
「でも、あんまり大声で騒がないでね。モモはあんまり気にしないけど、ノイチゴは繊細なんだから」
「わかっとるわかっとる。静かにやるわい」
二度三度と頷いてみせ、その直後に上がった歓声に二人揃って川の方へ視線を戻す。
ついにモモハルとスズランが二人でカニを捕まえ、高々と掲げていた。
「やった!」
「つかまえたーーーーっ!!」
二人ともずぶ濡れだ。カタバミとノイチゴも。サザンカだけがまだ大して濡れていない。
それを見たレンゲが悪戯っぽい笑みを浮かべ、立ち上がる。
「さては高みの見物を決め込んでたわね。父親らしく今度は子供達に手本を示してもらいましょうか」
「お手柔らかにな」
「何言ってるのよ、クロマツさんも来るの。名人なんでしょ?」
「いや、ワシは罠を仕掛けるのが得意なんであって、この歳で走って追いかけ回すのは」
「いいからいいから、せっかくなんだから予行演習よ。お孫さん達が来た時のためのね」
言われて、それもいいかと立ち上がる。話によると孫は三人いるそうだ。末っ子は大人しいが長女と次女は活発だそうで、きっと初めて会うじじいなど好き放題に振り回されてしまうのだろう。
今からその時が楽しみだ。自分の息子はどんな嫁を見つけ、どんな子供を育てているのやら。想像しながらカニ獲りの輪に加わる。
サザンカはレンゲに尻をひっぱたかれ、強制参加を決められていた。
その晩、サザンカの店には昔からの友人達と談笑するクロマツの姿があった。
そして、そんな彼等の前にドンと大きな土鍋が置かれる。
「できたぜ、特製カニ鍋だ!」
「ハッハッハッ、夏に食うようなもんじゃないのう」
「いやいや、冷たいもんばっかりより健康にはよかろうて。冷蔵箱が普及してから夏場は冷えたもんばっか飲み食いしとるからの」
「そういうこった。それじゃあ早速頂こうじゃないか皆の衆」
「やれやれ、やっと飲める」
サザンカが座るのを待ち、全員で乾杯する。せっかくだから料理と呑み仲間が揃うまで待とうと今まで誰も呑んでいなかったのだ。
「乾杯」
「乾杯」
「乾杯」
「乾杯。ありがとうな、サザンカ」
「あん? なんのこったいクロマツさん?」
「そりゃお前、上手い飯と酒への礼じゃろう。なあクロマツさん!」
それだけでは無いのだが、まあこの楽しい席でしんみりするような話をすることもあるまい。そう思ったクロマツはニコニコ笑いながら杯の中身を一気に呷る。
「ぷはあっ、美味い」
「おいおい、無理すんなよ。みんなもう歳なんだからよ」
「なんだとサザンカ!? お前、お前だってな、そろそろ脂っこいもんがきつくなってきた頃じゃろ!」
「ま、まだだ! まだオレは全然いける!!」
「よし! よく言ったサザンカ! じゃあお前さんにはこの天ぷらを譲る。代わりにお前さんの茶碗蒸しはワシが頂こう」
「ちょっ、まっ、オレだって茶碗蒸しは食いてえよムクゲさん!?」
「黙らんか若造! あっさりしたもんは年寄りに譲れ!」
「んな横暴な!?」
「わっはっはっはっ!!」
思わずクロマツは笑ってしまった。年寄りばかりになってしまったこの村でも、友達が揃えばまだこんなに騒げる。楽しめる。自分達の人生はこれからだ。
だからきっと、いつかは密かな願いが叶う日も来よう。過ちを正し、先達として若者に道を示せる、そんな日が。
「おいおいお前さん方、もう少し声を抑えなさい」
「あん? どしたい村長さん?」
「さっきからレンゲが睨んでおるぞ」
「げっ」
村長の言葉通り二階へ続く階段の上からレンゲがこちらを見据えていた。笑顔だが目は笑っていない。
「あなた、こっちへ」
「はい」
手招きされて素直に駆け寄って行くサザンカ。
パーンという強烈な音が響いた。
帰って来た彼の頬には、まだ夏だというのに立派な紅葉。
声を押し殺して笑う、他の三人。
唇を尖らせ、鍋の中身を黙々とつつき始めるサザンカ。
かくして男達の宴は静かに粛々と続けられた。
酔いが回ってタガが外れるまでは。
「わっはっはっはっ!」
「やるのうサザンカ! 流石は釣り名人!」
「ヘッヘッヘッ、こうよ! わかる? 竿をな、ピピピっときたら、こう引くのよ!」
「なるほどのう、なるほどのう」
怒ったレンゲが再び降りて来て全員にビンタを食らわせたことは、言うまでも無い。
翌朝、酔っ払って家に帰ったクロマツは、それでもいつも通りの時間帯に目を覚ましてしまった。
「あいててて」
二日酔いによる頭の痛み、ではない。レンゲに引っ叩かれた頬だ。ちょっと調子に乗り過ぎてしまった。
「次からはうちでやることにするか」
どうせ男の一人やもめだ。隣家ともそれなりに距離があるから夜中に騒いでも迷惑にはなるまい。
冷水で体を洗い、服を着替え、酒の匂いを多少なりとも緩和してから外へ出る。やはり今朝も早起きの老人達が散歩したり畑仕事に精を出したりしていた。
「おはようクロマツさん。アンタ、昨日は村長達と散々飲んだらしいのに相変わらず強いのう」
「まあな」
昔から酒には滅法強い。二日酔いというのも数回しか経験したことが無かった。
「ん~っ」
伸びをしつつ胸一杯に息を吸う。今日もココノ村の空気は澄んでいる。
それから日課のスズちゃん体操を済ませて散歩へ。まだ酒の匂いが残っているし、スズラン達のところへ顔を出すのはやめておこう。そう思いながら歩いているとふと村の入口から視線を感じた。
「ん?」
村の南側の街道に一人の女が立っている。すでにこちらに背を向けていたが長い蜂蜜色の髪で背の高い女だ。おそらくまだ若い。なんとなく物凄い美人なような気もする。
しかし彼は、その後ろ姿に妙に不吉なものを感じた。
まさか──
いや、
最初から疑ってかかってはいけない。信じることが大切だと考えを改めたではないか。
そう、この村に何の用があったのかは知らないが悪い相手だとは限らない。もしも次に見かけたら、こちらから声をかけてみてもいい。
そんな風に考えるクロマツはまだ知らなかった。それがゲッケイという名の凶悪な魔法使いで、スズランとモモハルの二人を狙っているのだと。数日後、村の存亡をかけた激闘を繰り広げる相手だということも。
そして半月後、ずっと再会を待ち望んでいた相手と意外な形で巡り合うことも、やはり知らない。
知らないので、彼はいつもと同じことを考える。
「さーて、朝飯を食ったら今日もカニ獲りに行くか」
昨日あれだけ食ったばかりなのに一晩寝たらまた胃袋がカニを欲している。彼のカニに対する情熱は尽きることが無いらしい。
ココノ村一番のカニ獲り名人は今日も明日もカニを獲り続けるだろう。何故なら、もう彼以外にカニ獲りをする人間はいないからだ。深刻な後継者不足である。
孫達が来たら昨日と同じようにカニ獲りに連れて行かねば。自分の孫なら案外ハマッてくれるかもしれない。未来を見据え、彼はこっそりそんな計画も練り始めた。