蟹と老人(1)
日焼けした肌に真っ白なヒゲと髪。十数年前に妻に先立たれ、息子は都会へ出ていった。以来ずっと一人暮らしながら身だしなみには常に気を遣う老紳士。その名はクロマツ。
これはココノ村一のカニ獲り名人として知られる彼の、とある一日の物語。
カニ獲り名人クロマツの朝は早い。川ガニ漁真っ盛りの夏場ともなれば、まだ日も昇らないうちに目を覚ます。
というか、ココノ村は農村なので実は皆そんなものである。顔を洗って服を着替え外に出ると、やはり他の村民の姿がちらほら見えた。早くも畑で働いている者も少なくない。
「おはよう皆の衆! 今日も精が出るのう!」
「おはようさん。アンタ、今日もカニ獲りかい?」
「おう、ワシにゃこれしか能がないもんでな」
「ちがいないわい、ひぇっへっへっ」
ウメさんは口が悪い。しかし作る野菜は美味い。今夜あたり、貰ったきゅうりに味噌をつけて食うとしようか。クロマツは日課のスズちゃん体操をしながら早くも晩酌のことを考え始めた。
ちなみにスズちゃん体操とは賢すぎてみんなびっくり神童スズランちゃんが考えた健康に良い体操である。凝り固まった筋肉をほぐし、関節のズレを整え、自然治癒力を高める効果があるとかないとか。
信憑性は不明だが一所懸命実演してくれた姿があまりに可愛らしかったため動きが記憶に焼き付いてしまい、村の皆はすぐにやり方を覚えた。それに、これを始めてからなんとなく快調な日が続いているような気もする。なので、もうしばらくは続けてみるつもりである。
「さて、今日も顔を見に行くかの」
この村に三人しかいない子供達は全員が孫のようなもの。一日一回は姿を見ないと落ち着かない。とはいえ、流石にまだ子供が起きるには早い時間だろう。それまで少しそこらを散歩して来ようか。
「おはようさん」
「おはよう」
「よう、おはようさん」
「今日も早いなクロマツ」
「お互い様じゃ」
村のあちこちで知り合いと挨拶する。知り合いというか、全員家族みたいなもの。この村で生まれ、一緒に育った連中ばかりだから。女達の中には外から嫁に来た人間もいるが、それから何十年も経っているので、やはり他人という気がしない。
そうして適当に歩き回ってから雑貨屋の裏まで来ると、ちょうどカタバミとスズランが中から出て来るところだった。子供ならもっとゆっくり寝て良いと思うのだが、スズランは働き者なのである。
「おはよう、カタバミ、スズちゃん」
「おはようクロマツさん」
「おはようございますっ」
スズランのその声は、名前の通り鈴の音のように良く響き耳に心地よい。うるさく鳴り響くそれではなく、そよ風に揺られて時折歌う風鈴というか、心を弾ませ同時に安らぎも与える、そんな不思議な音色だ。
一緒にいるカタバミの声もすっかり優しくなったものだ。子供の頃はどちらかというと勝ち気で隣家の幼馴染であるカズラ以外が相手の場合、攻撃的なところが目立つ娘だった。しかしスズランを引き取って以来、その刺々しさが無くなった。今の彼女と話していると、遠い昔に亡くなった母や死なせてしまった妻のことを思い出す。どちらも息子に優しい母親だった。
二人は畑に入るとてきぱきした動きで茶葉を摘み始めた。まだ畑を作ってから四年ほどだというのに手慣れたものである。
「今年の茶はどうだい?」
「良い出来よ~、スズの作ってくれる肥料のおかげね」
「お母さんが、がんばってるからだよ」
「スズのおかげよ」
「いや、お母さんが」
「仲がええのう」
互いに功績を譲り合う二人を見て近くの椅子に腰かけながら微笑む。今まで何百という組み合わせの親子を見て来たが、この二人ほど仲の良い母娘はそうはいなかった。とても血が繋がっていないとは思えない。
ちなみにこんな早朝に茶摘みをしているのは、朝摘みと午後になってから摘むのとでは味わいが変わってしまうからなのだそうだ。前に両方を試飲させてもらったことがあるが、たしかに微妙な違いを感じられた。しかし微妙過ぎるからどっちでもいいんじゃないかと言ったところ、二人がかりで睨まれたものである。この母娘どちらも茶の味には深くこだわる。実の親子でなくとも一緒に暮らしていれば、やはり性格は似通るものらしい。
しばらく作業を眺めながら他愛ない世間話をしていたクロマツだったが、やがて二人がわざわざ自分のためにと設置してくれた椅子からゆっくり腰を上げる。名残惜しいものの、自分もそろそろ仕事にかからねばならない。
「さて、ほいじゃ行くかの」
「今日もカニ獲り?」
「うむ、そうじゃよ」
「そういえば私、カニを獲るところってまだ見たことない」
「おや、そうかい?」
「あたしも無いわね。小さな沢ガニならそこの小川で捕まえられるけど、クロマツさんが獲って来るやつってもっと大きいのよね。どこで捕まえてるの?」
「ふむ」
三人揃って首を傾げる。スズランはともかく、カタバミまで知らないというのは意外な事実だ。まあ、昔からこの村ではカニ獲りは男の仕事と決まっている。だから偶然触れる機会が無ければ、全く知らなくてもしかたないかもしれない。
どれ、ならばこの名人が少しばかり教えてやるとしよう。
「漁場はもっと上流じゃよ。小さいカニは子供じゃ。このへんのカニは卵から孵ると一旦下流に避難する。上流に行くほど天敵が多くなるでな。で、ある程度育ったら冬を待って遡上して来る」
「冬に?」
スズランの浮かべた疑問符にクロマツは小さく頷いて答える。
「奴らの天敵はクマと鳥じゃ。しかしクマは冬眠するし鳥は越冬のため南へ渡る。だから冬は安全なんじゃ」
「なるほど……カニも色々考えてるのね」
「うむ、奴らはあれでけっこう賢い」
今度はカタバミに対して頷き返し、それから顎に手を当てる。少し考えてから提案してみた。
「一度見に来るかね?」
「え? いいの?」
「前にお父さんからカニ獲りは男の人の仕事だって」
「ハハ、それはな、カニの中に危険な種類がおるからなんじゃ。それに奴らを狙っているクマと出くわすこともあるんで、そういうことにしとるだけじゃよ」
彼がそう言うと、カタバミは顔を引きつらせ娘の肩を掴んだ。
「そ、それじゃあ遠慮しようかな……」
「心配せんでもクマはクマよけの鈴さえ鳴らしとったら滅多に出くわすこたあない。危険な種類のカニも、まあ今の季節ならまだ洞窟の奥から出て来とらんじゃろ」
「そのカニは洞窟に棲んでるの?」
「うむ、奴は川の絶対王者じゃ。基本的には滝の裏の洞窟から遠く離れて行動することは無い。だから東の大きな滝の見えるあたりまで行かなければ心配いらん。とはいえ本当に危険なんで絶対あの滝の近くには行っちゃならんぞ? 晩秋から春先にかけては特に」
「うん、わかった」
素直に頷くスズラン。良い子だ。しかし何かが引っかかる。
「スズちゃん?」
「なあに?」
「絶対に駄目じゃよ?」
「うん」
「……うん、まあ」
気のせいだろう。どういうわけか、この素直なスズランが黙って洞窟まで行ってしまいそうな不安を覚えたものの、こんな良い子が聞き分けの無いことをするはずもない。
「まあ、そんなわけだから、もし気になるなら昼飯の後で迎えに来るんで見学に来なさい。心配だったらカズラ……じゃ、ちょっと頼りないな。サザンカかムクゲにも声をかけるとええ」
「わかった。じゃあ後で」
「はいよ」
考えとくではなく、じゃあ後でということは、カタバミは行く気になったようだ。だとするとスズランも来るから、スズランの行くところ必ずついて回るモモハルも来るに違いない。今日の午後の漁は騒がしくなりそうだ。そんなこと思いつつ、仕掛けを持って行くため一度自宅に戻った。
──しばらく後、いつもの漁場で罠にかかっていたカニを魚篭に放り込んだクロマツは、予想外の事態に出くわし冷や汗をかくこととなった。
目の前にクマがいる。運悪く鉢合わせてしまった。しかもかなりの大物。探せば他にも獲物はいるだろうに、明らかに物欲しそうな目でこちらの腰に視線を注いでいる。
ついさっきスズラン達にあんなこと言ったばかりなのに鈴を付けて来るのを忘れていた。歳を取るとこんな風にうっかりが増えてしょうがない。ただ今回のうっかりは命に関わるかもしれない。
(まずいのう……これ置いてったら見逃してくれんかのう……)
こんな時に慌てて動いてはいけない。クマから視線を外さないように見つめ合ったまま、ゆっくり腰の魚篭を外して手近な岩と岩の間に挟んで立てる。そしてやはり慎重に時間をかけて後退った。それに合わせてクマも少しずつ歩を進めて来る。
(カニだけで満足しとくれよ……こんな爺さん食っても美味かないぞ)
と、祈りながら水を出たところでクマは魚篭の元に辿り着いた。
だが、中身を覗き込んだそいつは不満そうな顔でさらに前進してくる。
(足らんのかい!!)
たしかに小粒なのが二匹だけなのだが、それはあんまり無体だろう。かといってクマに抗議しても理解できるはずは無い。絶体絶命の状況でやむなく山刀に手をかける。勝てるとは思っていない。それでも、どうにか驚かすことさえできれば逃げる隙くらいは作れるかもしれない。
老いた足で素早い熊から逃げ切れるかどうかは、この際だから考えないことにして意を決し──
「なむさん!!」
昔から一か八かの時にはこう言うものだ。なのに意味は全く知らない謎のかけ声と共に山刀を顔面めがけて投げつける。
投げつけた、つもりだった。ところが自覚以上に腕力が弱っていたようでそいつは標的の手前で水面に落ちる。派手な飛沫こそ上げたが、それだけの成果に留まり水中に没してしまう。
「そんなあ……」
いよいよもって万事休す。どころか状況はより悪化した。顔面に水をかけられたクマが怒って立ち上がったのだ。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「ひぃっ!?」
のけぞりつつも水中から大きめの石を拾い上げるクロマツ。まだ諦めてはいない。
すると首にかけていた手ぬぐいが突風にさらわれクマの方へ飛んで行った。そして彼の生存欲求に応えるように強烈な閃光を放つ。
「な、なんじゃあ!?」
「グオッ!?」
驚いたクマも目を見開き、素早く背中を向けた。そしてそのまま森の奥へと走り去って行く。
なんだかわからないが、とにかく助かったようだ。
「今のはいったい……?」
首を傾げつつ流されて手元に戻って来た手ぬぐいを回収する。つい先日雑貨屋で買ったばかりの新品だ。たしかスズランのお手製だと聞いている。それらしくなんともハイカラな柄に染められていた。この柄がお洒落だと思って買ったのである。
「うーむ……神様が助けて下さったんかのう」
彼女を実の孫同然に可愛がっている彼も、まさかそれがスズランの仕込んだ護符によるものだとは思わなかった。この時、彼女が魔女であることはまだ知られていなかったから。
そしてスズランの魔力を受けなければ効果を発揮しないはずの護符が、どうしてこの時だけ輝いたのかも、彼には知る由も無かった。