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神すか。

作者: 春花とおく


「マジすか」


犬飼青年は言った。シュークリーム専門店「Maman」の、面接での事だ。犬飼青年は大学生、と言っても先月なったばかりのペーペーの新入生で、バイトを探していた。小学生以来続く、人生の黒歴史たる陰で過ごす日々から脱却するために、お金が欲しかったし、受験を終わらせた息子を「無職」と揶揄する父親に一矢報いたかったのもある。彼自身否定しているが、彼女を作りたいというのも存分にあった。


「神すか」


彼のささやかな趣味に、お菓子作りという、男には些か不似合いなものがあった。いざバイトを探すにも、やはり自分の好きな事を。女子も多そうだ。犬飼青年は否定するが、彼の大学生活最大の目標は彼女を作ることである。


人生初の面接を、緊張しつつもこなした三十分弱を経て、目前に座る四十手前ほどの男性、これはバイト先の店長となるのだが、今しがた彼に「採用」と言われた。


まだ四月だと言うのに半袖のシャツを着て、その健康的な腕にはこれまた健康的にもたくましい毛をたたえる店長は、「ままん」から想起されるイメージとはあまりに乖離している。「ぱぱん」あるいは、「ダディ」そう言いたくなるのだが、それはこの際良い。犬飼青年は感激に打ち震えた。一発で面接に通った喜びは初めての経験で、これは中々悪くない。自分を全肯定されるような気分だ。それはまるで、童貞あるいは処女を満足の内に捨てられたのに似ている。ちなみに犬飼青年に彼女がいた事はなく、当然性行為やそれに準ずる行いをしたこともない。




店のオープンは五月で、それまでに他の従業員との顔合わせ、社内の座学、店舗はショッピングモール内にあるから、その従業員講習と、犬飼青年は持ち前の真面目さでそれらをこなしていった。彼の通っていた高校はそれなりの偏差値を誇っていたし、彼はサッカー部に所属していた。オープン日には既に彼は頼れる従業員としての風格を身につけんとしていた。


従業員は彼以外に男は一人、これは面接をした店長で、残りは女性となっている。高校生と、大学生、主婦の者もいた。若い女性が多くに、若い男性は一人。犬飼青年はその胸に期待を抱きつつ、オープン日を迎える。




「ついに今日からオープンです。頑張りましょー!」


開店一時間前、従業員を前に言ったのは、あの剛毛店長ではなかった。皆の前に立ち、「おー!」と一人拳を突き出すのは、背の低い高校生、大人びた中学生にも見えなく無い女性だった。


「あ、私は熊谷さんの代理で来た、根津桃子と申します。ネズコって呼んでください!これでも、三十歳です!」


「合法ロリ」という言葉が浮かんで、消えた。いい大人となった自分を話題のアニメの人気キャラ名で呼ぶよう求める様は、まるで大人には見えず、ではあるが流石に失礼かと考えた。また、彼女はとても可愛らしく、犬飼青年はドキリとしたのだった。


「熊谷さん、昨日倒れちゃったんですって。命に別状はないんだけど、暫くは無理そうだから、私が店長の座に抜擢されました!」


あの、まさにクマのような大男も病には倒れるのか、と軽く驚くと共に、嬉嬉として語る根津桃子に犬飼青年は困惑する。あまりに不謹慎ではないか、と。逆に、その無邪気とも言える様は中学生と言うに相応しく、でもやはり犬飼青年は困惑する。周りの同僚も同じようで、戸惑うままに九時を迎え、シュークリーム専門店「Maman」も開店を迎えた。




「犬飼青年」


犬飼青年が昼休憩を取っていた所、根津桃子が話しかけてきたものだから、犬飼青年は慌ててペットボトルのお茶で口内のおにぎりを流し込んだ。


「なんすか」


「君は、大学生一年生だね。もう少年ではないね」


「ええ、そうすけど」


空は青く、クマは大きく、犬は従順で、猫は愛らしいといった、当たり前のことを言われ、犬飼青年は困惑する。今朝から困惑しっぱなしの自分にも、困惑する。


「十八てことは、現役であの大学かあ。勉強頑張ったんだね」


「そんな。直前までE判定だったんすよ。当日神がかってましたね。ところで、ネズコさん本当に三十なんすか」


犬飼青年が尋ねると、根津桃子は大袈裟に目を見開いて、「心外だ」という表情をした。


「私が、サバ読んでるっていうの?もっと老けてるだろって?」


「いや、そうじゃなくて」


「ええい、仕方ない。犬飼青年にだけは教えてあげる。実は、三十二歳よ」


「逆に、もっと若いのかと思って」と言い出せず、寧ろもっと歳をとっていると白状された気持ちは筆舌に尽くし難く、これは「神がかって」いても入試にでたら答えられない。と、犬飼青年は舌を巻く思いだ。


「君、女の子に歳聞くのはやめなよ。で、まだ始まったばかりだけど、どう?女の子ばかりの職場だけど」


「まだ何とも言えないっすね。男が僕だけなんで、向こうも声掛けずらいでしょうし」


「そうかそうか」


根津桃子は満足そうに微笑み、「おおい、静香ちゃん」と、別の従業員を捕まえに行った。犬飼青年はドキリとしながら、「そうだ。まだ始まったばかりだ」と、自分に喝を入れる。


「気長に頑張ります」


彼は、現時点で三時間働いたものの、未だに事務的なものを除けば他の同僚と交わした会話はゼロだった。いざとなれば頼ろうと考えていた唯一の男性たる熊谷もいない。同僚に声をかけようにも、生真面目に生きてきた犬飼青年は、その生真面目さ故に女子を前にすると緊張してしまうという問題があった。その自己に孕んだ問題を認知していなかった点で、犬飼青年の生真面目さの程が推し量れよう。


彼は後悔し始めていた。どうして女性ばかりのバイトを選んでしまったのだ!ふと思う。熊谷さんは女性ばかりの職場で孤立する事を恐れて俺を採用したのではないか。そうだ。そうに違いない。細身の自分とは大違いの、大男に急に親近感を覚え、犬飼青年は心の中で祈る。熊谷さん、頑張って、戻ってきてください。しかし、その祈りが届くことは無い。熊谷は無事退院するもののこの機に転職を果たし、かつてからの夢であったトラックドライバーの道を歩むのである。犬飼青年はそうとも知らず、あの逞しい腕が繊細な動きでシュークリームを作る様を想像した。




オープン日よりはや一ヶ月。季節は夏に足を踏み入れつつあるものの、一向に熊谷が「Maman」に姿を見せることはない。犬飼青年は熊谷に思いを馳せつつも、病室で一人物思いに耽り、「どうして自分は悩んでまで女性の多いシュークリーム専門店で働いているのだ、ただでさえ男の中でも男らしいのに」と自問する熊谷を知らない。


犬飼青年はレジに立ちながらぼんやり思案していた。平日の夜中にわざわざシュークリーム屋を訪れる客は稀で、言ってしまえば暇だった。大学入学から二ヶ月がすぎ、講義も本格化してくる。最近はもっぱら夕方からのシフトを組んでいた。大学に行き、バイトに行き、ぼーっとする。これが犬飼青年の日常となっていた。考えることは多岐に及ぶ。こんなに何もしてないのに給料を貰って良いものか、あの子には自分からは話しかけない方が良いのだろうか、そう言えば熊谷さんはまだ帰ってこないのか。


今は、隣で、通常は忙しくシュークリームを焼くはずの同僚、同い歳の兎崎静香が手持ち無沙汰にしているのを横目に、帰りに声をかけるべきかどうか犬飼青年は悩んでいた。


よし、今日こそ声をかけようと決心し、眠気を飛ばすべく自らの頬を叩いたその時、珍しくも客が現れた。後数十分で閉店だというのに、と犬飼青年はげんなりする。先程まで暇を持て余していたというのに、いざ客が来るとこれだ。しかし、彼がそうなるのも当然かも知れない。何故なら現れた客というのが、三人組で、さらには見てすぐ「ガラが悪い」と思わせる風貌であったのだ。




独自性を出そうとしてかえって失敗したとしか思えない金髪三人組の、中でもガタイのいい耳にピアスをした一人が犬飼青年に「パイシュー二つ」とピースサインをつきだした。


こんな明らかに不良そうな輩から「パイシュー」というメルヘンチックな言葉が飛び出すことが、まさに平和、ピースなのではないか。犬飼青年は袋にシュークリームを詰めながら思う。しかし、それは間違いであったと、数秒後知る事となるとは、思いもしない。彼らが不良である事はあっていた。しかし、彼らがピースサインをした所で世の中は、殊に犬飼青年の生活は全くピースにはならないのである。


「パイが二つでパイパイってな」


注文をしたピアス男の右隣、細身の男が下卑た笑みを浮かべて言った。それに追従するように左側の、小太りの男が「パイシューが二つでパイパイ、シューシュー」と、己の胸を掴み、揉む。アダルトビデオでよく見る、と言うよりアダルトビデオでしか見ない、というより現実で見る機会のない、あれだ。と犬飼青年は呆れ、同時に怒りを覚えた。


細身の男の下品な言葉と小太りの男の下品な行動が、レジで対応する犬飼青年に向けられたものであったからでは無い。犬飼青年の胸には多少の筋肉はあるものの、揉みしだき間にモノを挟む柔らかさはない。それは、犬飼青年の隣、彼が密かに想いを寄せる兎崎静香に向けられていたのだ。


「おい」


犬飼青年は言った。それは、客とは言えあまりに礼儀を欠いているのではないか。


ギャハハと、これまた下品に笑う三人組は犬飼青年の「おい」に反応し、彼を睨んだ。犬飼青年はその凄みに怯み、予定していた言葉を放棄し、代わりにシュークリームの入った袋を渡した。「おい、パイシュー二点でございます」


ピアス男は視線で犬飼青年を刺しながら、シュークリームを受け取ると、袋ごと小太りの男に渡した。

小太りの男はそれを取り出し、一口ずつ、計二口で食べ終えると、汚らしく口周りのクリームを舌で舐めとった。


犬飼青年はその、徹底した汚らしさに寧ろ感心すら覚え、ふと「小太りが全部食べるためにこの男はわざわざ閉店間際にやって来たのか」と思う。「この、見るからにリーダー格の男は配下にパイシューを二つ与える慈悲に満ちた指導者なのか」


しかし、どうやらそうではなかったようで、散々笑った後、ピアス男が言った。


「ねえ、君もう終わりでしょ。この後、どう?」


犬飼青年はハッとした。その言葉が自分に向けられたものであったからではない。その言葉は犬飼青年の隣で、自らの胸を見下ろしている、兎崎静香に向けられたものであったのだ。

犬飼青年は憤慨した。


おい、それは俺が先に言おうとしたんだぞ。「家まで送るよ」って。一ヶ月ゆっくり打ち解けて、やっと少し話せるようになったのだ。それを、新参者の下卑たピアス男などに!


「どうって」


隣で、兎崎静香が言った。犬飼青年は慌てる。まさか、彼女はついて行きやしないだろうな。


「そりゃあ、ブラブラしたり、イチャイチャしたり」


「イチャイチャ」の所で小太り男と細身男がニヤニヤとした。素晴らしく統制の取れた汚らしさに、犬飼青年はもはや形式美すら覚え、困惑した。しかし、数秒後、まだ困惑させられる羽目になるとは知るはずもない。


「でも私、アレ出来ないよ」


兎崎静香は言った。「アレ?」と、ピアス男は素っ頓狂な声で聞き返す。それは「アレ」とはなんだという単純な疑問にも、兎崎静香のような一見おしとやかな女性が、アダルトビデオで繰り返される例の行為をほのめかす言葉を発する、そのことに対する驚きのようにも聞こえた。


「ほら、そこの男の」


兎崎静香は心底軽蔑するように眉をしかめつつ、小太りの男を指さす。指さされた男は、そうされたことで初めて恥ずかしくなったのか、顔を赤くした。

これには豚を想起させられずにいられない。

ここまで不快感をたぎらせる小太りの男に、驚きを超え犬飼青年は敬意すら抱き始める。


「ギャハハ」と、再び三人は笑った。


兎崎静香にはこのような、言わば天然な所がある。

それは彼女の可愛らしさを存分に引き出すのだが、「Maman」の従業員はどちらかと言えば人口の美を備えた者が多く、犬飼青年は密かに兎崎静香を天然記念物と名付けていた。

それを、このようなちゃんちゃらおかしい男達の笑いの種にされるなんて。今朝の講義の、保護したアマミノクロウサギをマングースに殺された気持ちをとうとうと語る教授を思い出す。居眠りして申し訳ない。今ならあなたの気持ちが痛いほどわかります。


「おい」犬飼青年は再び言っていた。


しかし三人組に睨まれ、またしても発する言葉を見失ってしまう。まさに蛇に睨まれた蛙といったところか。このピアス男はマングースではなくて、ハブだったのやもしれぬ。犬飼青年は縮みあがる。


「おい、代金は340円でございます」


犬飼青年の言葉に三人組は無視を決め込み、「アレは出来なくても、もっと良い事教えてやるよ」と再び兎崎静香に下卑た笑みを向けた。「待ってるよ」


「すみません。今日ははやく帰らないと。弟の誕生日で」


兎崎静香は静かに、ではあるがハッキリと言った。彼女の言葉は全くのデタラメで、弟はおろかきょうだいすらいない。本心では「てめぇがはやく帰りやがれ」と言いたいところではあったが、バイトの身とはいえ客商売、耳が痛くなるほど「お客様は神様だ」に準ずる事を言われていた手前、仕方なく「すみません」と言った。


それでもしつこくピアス男は手を変え品の代わりに言葉を変え、兎崎静香を口説こうとする。しかし兎崎静香も負けてはいない。断る口実は二転三転、「彼氏が許さない」には人知れず犬飼青年が傷付いた。


兎崎静香が、今度は「実は、彼氏が」と切り出したその時、犬飼青年が彼氏が何なのだ、と身構えたその時、三人組の中心、ピアス男が小太りの男に目配せをした。兎崎静香は先に続ける言葉を探しておりそれに気が付いてない。犬飼青年も先に続く言葉が気になって気付いていない。


「ああっ」


小太りの男が、少々演技くさく声を上げた。「なんだ、これシュークリームの中に」そう言って口の中から汚らしくクリームにまみれた細い棒状の何かを取り出した。「猫田、これ」


ピアス男は、猫田と言うのか。可愛い名前して、これは猫への風評被害も甚だしい。そう言えば、ウサギの天敵に猫もいたな。犬飼青年は考えつつ、未だ名の判明しない小太りの男の、まるまるとした指の間でこじんまりと収まる「何か」を注視した。


それは茶色く、どこかで見た形をしている。小太りの男の汚い口から現れたものである以前に、嫌悪感を覚えるフォルムだ。


「虫の足か」


猫田が言う。「顔に寄せるな。汚ねえな」


「それも、これゴキブリのだぜ」


「え」


犬飼青年の隣で兎崎静香が呟いた。作ったのは彼女であるから、驚いたのだ。それを聞き逃さなかった猫田はけしかけるように「おい、これどうすんだよ」と凄む。兎崎静香はもちろん、犬飼青年も怯み、うろたえる。


「そんな」


兎崎静香の顔は蒼白で、どうしてゴキブリの片足だけがとか、元から口に入れていたのではないかなどとは思いもつかない。実際はそのゴキブリの片足に見えるものは、それを模した玩具であり、まさしく事前から小太りの男の口に含まれていたのだった。しかし少し離れた位置から見る犬飼青年達からはそうとわからない。また、確認しようにも汚い。


「どう落とし前つけてくれんだよ」


「す、すみません!」


犬飼青年は咄嗟に叫んだ。その後、自分にこれ程までの声が出るものかと感心する。


それはファインプレーと言えた。少なくとも兎崎静香は、頼りなさげに見えた同僚を、彼は本当に頼りないのだが、見直した。


また、その彼の、決死の行動とも言える叫びは新たな援軍を呼び寄せた。


控え室で本部に提出する書類を記入していた店長、根津桃子が現れたのだ。


「お客様、どうか致しましたか」


彼女は、そこはやはり流石大人と言うべきで冷静だった。「うちの従業員が、ご迷惑をおかけしましたか」


「従業員の態度が悪い上に、お客様に渡す大切なシュークリームに異物混入たあどうなってんだ」


「いや」犬飼青年は胸の内で言う。「従業員の態度は悪くはなかった」彼は声を荒げることはなかったし、兎崎静香も丁寧に断っていた。あ、そうか。彼女に彼氏がいることがショックだったのか。その気持ちはわかる。犬飼青年は同情と怒りの混じった面持ちで猫田を見た。


「ホントだぜ。ゴキブリの足食った俺の気持ちを考えろ」


小太りの男が、手に持ったゴキブリの玩具を根津桃子に示すように差し出す。


「おい、汚ねぇな」


小太り男が差し出した手が、ちょうど猫田の頬に触れそうになり、それを猫田が咄嗟に手で払った。ゴキブリの玩具は小太り男の手を離れ、ショッピングモールの、磨かれた床に落ちる。それは「チャリン」と小さく音を立てた。


「あれ」


犬飼青年と、兎崎静香は同時に呟いた。「チャリン」という音は、虫の足が落ちた音として有るまじきものだ。小太りの男は慌ててゴキブリの玩具を拾うも、遅い。犬飼青年らの懐疑は確信へと変わる。あれは、おもちゃだ。


「おい」


犬飼青年は、降って湧いた怒りに任せて言った。またしても睨まれてしまうが、今度ばかりは譲らない。


「おい、お前」


しかし、その先が見つからない。この怒りをなんと形容しようか!犬飼青年は金魚さながらに口をパクパクさせた。空気を求めるように、言葉を求めた。


「『お前』って、俺らぁお客様だぞ。話になんねえ。もっと上のやつ連れてこい」


猫田が声をはりあげた。それでも犬飼青年は負けない。「店員にカマかけるやつぁお客様って言わねえんだよ」そう、応戦しようとしたのを、根津桃子の手が遮った。「私が」整った眉をへの字に曲げて言う。「私が、責任者です」


「へえ」


言いながらも猫田は驚嘆の色を隠せていない。しかし、やがてその顔には余裕が浮かび、軽蔑の色に変わる。


「責任者さんよお。随分と若ぇようだが、しっかり責任は取ってもらうぜ」


「本当に申し訳ございません!」


根津桃子は頭を下げ、閑散としたショッピングモールいっぱいに響く声で言った。「お代はお返し致しますし、シュークリームも新しいものとお取り代えします」


根津桃子の行動はあまりにはやく、犬飼青年に付け入るすきを与えなかった。兎崎静香が根津桃子と同時に頭を下げるのを確認し、遅れながらも追従する。


「そんなの当たり前だろ。それに、もう食っちまったからな。シュークリームはこいつの腹の中だ」


猫田は小太りの男を指し、笑う。「こいつが吐き出したら交換してくれるか?」


「猫田、俺吐けねえよ」


小太りの男は言った。彼の声はあまりに迫真に迫ったものであり、犬飼青年は不覚にも吹き出しそうになる。


「#豚座__いのこざ__#、お前は黙れ」


「いのこざ」と呼ばれた小太り男は何か言いたそうに大きな鼻を膨らませたが、やがて口を閉ざした。


聞いたことのない名前だ。漢字はどう書くのだろう。「いの」だから、猪か。ならば、「豚のようだ」という感想はあながち間違ってはなかった。犬飼青年は頭を下げつつ考える。降って湧いていた怒りは下げた頭と共にどこかへ流出している。


「誠意ってものを示してもらわねえとな。中卒でもわかるだろ。誠心誠意の、誠だよ」


「申し訳ございません」


根津桃子は未だに顔をあげない。


「誠意っつうのはよ、ただ謝ればいいってもんじゃねえんだよ」


猫田は吐き捨て、右隣、細身の男に言う。「狐井、手本を見せてやれ」


すると、狐井と呼ばれた細身の男はすっと前に出てきて、そのまま流れるように膝をついた。手を重ねるように床におく。その状態のまま深深と頭を下げ、床につける。いわゆる土下座というものだが、狐井のそれはあまりに流麗、水が流れるが様で、すっかり顔を上げていた犬飼青年は思わずも見とれてしまう。


「これが誠意ってもんだよ」


猫田は、土下座の状態をキープしたままピクリとも動かない、もはや一種の芸術品と化した狐井を一瞥し言った。


犬飼青年の隣で、兎崎静香が嘆息を漏らした。それで、彼はハッとする。「ネズコさん、土下座なんてする必要はありません。そりゃ彼は美しいですけど、アレはアレで問題です」そう訴えかけようとした犬飼青年は、再び根津桃子の手によって遮られる。


「見てなさい」


根津桃子は小さく言い、三人組の前へと歩みでる。膝をつき、手を重ね、床におき、頭を下げる。狐井ほどの滑らかさは見られないものの、躊躇いもまたない。


「ギャハハ」と三人組が笑った。犬飼青年は怒りを忘れ、上司の土下座姿をまじまじと見た。彼女の陽気さゆえか普段はあまり感じられなかったことだが、根津桃子の体が酷く小さく見える。卑屈さは全く無いが、その狭い背中は弱々しく、店ひとつの命運を一身に背負うには、あまりに非力に思えた。


「真に申し訳ありませんでした」


あの小さな体からよくぞここまで、と思わせるハッキリとした声だった。


「わかればいいんだよ、わかれば」


そう言い残し三人組は去っていった。後には犬飼青年、兎崎静香、根津桃子の三人が取り残される。「Maman」の閉店時間はおろか、ショッピングモールの閉店時間すら迫っていた。照明が段々と消えゆく数分の間、ずっと根津桃子は顔を上げなかった。




「兎崎さん」


片付けを終え、犬飼青年は自らを奮い立たせて言った。「一緒に帰りませんか」


兎崎静香は「いいよ」と応える。「アイツらが待ち伏せしてたら、ヤバイし」


犬飼青年はほっと胸をなでおろし、根津桃子にも同様に声をかける。「ネズコさんも。確か、同じ方向でしたよね」


すると、根津桃子は手を振り、「ありがとう」と言った。「ありがとう。でも、本部に書類を届けに行かないと」


「アイツらのせいすか」


犬飼青年は三人組の事を思い出し、気分を悪くする。どこへかやった怒りが舞い戻ってくる。「あんなヤツら、ほっておけば良かったんすよ」


「あはは」と、根津桃子は曖昧に笑った。「そうだね。アイツらはクズだけどね。怒らせたら面倒だし」


「いざとなれば、俺が」


犬飼青年は拳を握る。殴り合いの喧嘩は記憶にある限りしたことがないが、何故か自信はあった。いざとなれば、俺が、返り討ちにしてやりますよ。


「タカシ君はいいんだけどね、静香ちゃんが狙われると、ほら、大変でしょ。だから今日は彼女を守ってあげておくれよ、犬飼ナイト」


根津桃子に肩を叩かれ、犬飼青年の心は燃える。そうだ、俺が守ってやらねば。拳を握る力も、自然と強くなる。


「天網恢恢疎にして漏らさず、って言葉知ってる?」


根津桃子が尋ねると、犬飼青年と兎崎静香は共に首を振った。


「天の神様は見てるから悪い事してたら絶対罰があたるよーってことなんだけど」


「因果応報ってやつすね」


「天罰覿面とも」


「そうそう。タカシ君が手を下さなくても、神様がアイツらを罰してくれるから」


根津桃子はそう言い、犬飼青年たちの向かう方とは逆の方向へと立ち去った。


「帰ろっか」




ふと、兎崎静香は言う。「ねえ、犬飼君はどうして私に敬語なの」


言われてみれば、同い歳なのに敬語はおかしいのかもしれない。犬飼青年はハッとした。それは彼が今までいかに女性との付き合いがなかったのかの裏返しであるのだが、ドキリとした。急に女性に対し打ち解けた口調にするというのは、彼に異常な緊張を与えたからだ。


「そう、かな。じゃあ、コレからは、タメで」


高まる胸の鼓動で、ドクンドクンと口から内臓がこぼれ落ちやしないかと不安になりながらも犬飼青年は応える。


「あ」


兎崎静香が言い、犬飼青年は身構えた。先の三人組への警戒と、想い人と二人きりという状況が相まって、彼は異常な興奮状態にある。何が出てくる?愛の告白か、それとも例の三人組か。兎崎静香の発した言葉はそのどちらでもなく、ではあるが存分に犬飼青年に衝撃を与えた。


「私もうバイトやめようと思うから、コレからは無いね」


「え、」と零しながら、犬飼青年は口に手を当てた。内臓がこぼれ落ちたような気がしたからだ。しかし、その手には血反吐はおろか、埃ひとつついていない。これは閉店時に彼が入念に手洗いをしたからであり、また内臓がこぼれ落ちたというのは彼のショックを形容する比喩であるからだ。強いて言うならば、心の臓、彼の恋する心が吐き出され、ベチャリと音を立て潰れた。


「私の家、店から近いでしょ。もしヤツらに付きまとわれたら怖いし」


兎崎静香は顔をしかめて言った。「元から考えてたんだ。大学も思ったより忙しいしね」


犬飼青年は何も言わなかった。正確には何も言えなかったのだが、それを隠すために二度咳をした。


兎崎静香が犬飼青年に言った「大丈夫?」を最後に会話は途絶える。正確には、実の所大丈夫では無いのに、そうと言えないがために犬飼青年は黙り込んでしまい、兎崎静香は何となく話すことがなく口を閉ざしていた。


「そう言えば」


犬飼青年の前を歩いていた兎崎静香が突如立ち止まり、ふりかえる。彼女の長い髪がうねり、扇のように風を送り出す。それを真っ向に浴びた犬飼青年は、その慣れぬ香りに酔いそうになる。


「さっき、私の代わりに謝ってくれたよね」


はて、と犬飼青年は思案する。しかし、彼が兎崎静香の代わりに謝ったなどという心当たりはない。酔いで頭が回らないせいか。犬飼青年は周囲の空気をかき消そうとして、首を振る。それは傍から見ればぶんぶんと、何かを否定するようだった。


「ほら、ホントに異物混入したなら、作った私が悪いのに」


「なるほど」と合点がいき、次にまた「なるほど」と思う。「なるほど、アレは兎崎さんを庇ったようであるかもしれない」犬飼青年は、実の所アレは単に恐ろしく、動揺してしまった故のものなのだが、自分の行動を再評価した。「あれは、かっこよかったのやもしれぬ」


「ありがとう。結構かっこよかったよ」


兎崎静香が思った通りに言うものだから、犬飼青年は舞い上がる。「でもさ」兎崎静香は続ける。犬飼青年は期待の眼差しで彼女を見て、ひょっとすると、ひょっとするかもしれないと、心の内で手足をバタバタさせている。


「あの、『おい』からの『パイシューでございます』は最高にかっこ悪かったね」


兎崎静香は無邪気な笑みを見せた。これほどまでに自然な笑みは、実は兎崎静香は近しい者以外には見せなかったのだが、それに犬飼青年は気が付かない。舞い上ったはいいものの、翼を持たない犬飼青年はアスファルトの地面に墜落し、心に大きく傷を負ってしまったのだった。


「私は辞めちゃうけどさ」兎崎静香は満身創痍の犬飼青年に気が付かない。


「もし、またアイツらが来たら、次はネズコさんを守ってあげて」


犬飼青年は、数分間土下座を続け、やっと顔を上げた時の上司の表情を思い、化粧の崩れた顔を無理に歪め、笑顔を作る店長を思い、別れ際気丈に振る舞う根津桃子を思い、そして頷いた。


「頑張って」と兎崎静香は言い残し、犬飼青年と別の道を行った。住宅街の闇へ消えゆこうとする兎崎静香の背を見つめ、犬飼青年は拳を握る。「次こそ」と呟いた瞬間、突如振り返った兎崎静香と目が合い、とび上がりそうになる。胸を高まらせる犬飼青年を他所に、兎崎静香はきりりと彼を見つめ、彼の元へと歩み寄る。


「連絡先、教えてなかったよね」


SNSのIDを述べる兎崎静香をぼーっと眺め、犬飼青年は思う。「次、あるじゃん」


「今度こそ、じゃあね」


兎崎静香を見送り、犬飼青年は空を見上げる。雲は無く、星もない。真っ暗闇が広がる中、月だけが煌々と輝いている。狼が遠吠えをするように、犬飼青年は月に向かって叫びたくなる。が、そんな度胸は無く、「神すか」と呟くに留めた。信賞必罰という言葉が想起させられる。神は、立派な者は救い、罪を犯す者には必ずや罰を下してくれる。そうに違いない。


この頃、深夜の病室ではなかなか寝付けない熊谷が思案に暮れていた。人間五十年、俺はあと十年。それすらも危うい状況にある。この機に、本当にしたい事をしておくべきではないだろうか。俺がしたい事。かつて、十分に恋はした。金もあるにはある。世間体を気にする必要も無い。何でも出来るじゃないか!そこで熊谷は偶然置いてあった車のカタログを目にする。そうだ、俺は車が好きだった。特にトラックだ。子供の頃、ドラマなどで恋人を追い空港へと急ぐ青年を乗せる運ちゃんに憧れていた。


ふと、思う。そう言えば、あの「話せばわかる」と言った首相と同じ名前の、何か良い事があった時に「神すか」と言いがちな、あの青年はどうしているだろうか。




時が過ぎること二ヶ月、春のポカポカとした暖かさや涼しさというものは去り、太陽は赤く、高く、地面を焦がす、八月となる。草木は青々と茂り、風が吹く度ザワザワと葉を揺らす。それは外を歩く人間からすれば、草木がこの暑さにうんざりとし「嫌よ、嫌よ」と首を振っているかのように見える。今年は特に暑い。夜となってすら暑い。昼とは異なる趣で人々を苦しめる。湿気と熱気のコンビネーションはムシムシ、人々はイライラ。


そんな八月であるが、某ショッピングモールの中は清涼ここに極まれりといった具合で、常にエアコンは稼働し、砂漠の中のオアシスの如く、人々に安らぎを提供していた。


数多の人が現れては消えてゆくショッピングモールの、フードコート内の一角、シュークリーム専門店「Maman」では、犬飼青年がその日最後の客の相手をしていた。その客というのは四十過ぎと思われる男で、恐らく仕事帰りなのだろう、スーツに身を包んでいた。強面な男であり、慣れぬ様子で「どれがいいやろうか」と聞く姿は傍から見ればやましい取引のようでいて、パステルカラーのエプロンをした犬飼青年とのギャップには微笑ましさを覚える。


「そうすね…」子どもへのお土産だろうか。「お子さんへのお土産とかすか?」


「実は」男は気恥しそうに頬を弛めた。「ちょうど、君くらいの娘なんやけど」


「良いお父さんすね。えっと、個人的にはこのパイシューがオススメなんすけど」


犬飼青年はふと、ふた月前の三人組を思い出した。嫌な気分になり、「でも、こっちのが女性には人気すね」とクッキーシューの写真を指した。


「恥ずかしい事やけど」男は本当に恥ずかしそうにする。「娘とは上手くいってなくてな」


「ムズカシイお年頃っすからねー」


犬飼青年は笑いながら、後ろに控える後輩の猿田友香をチラと見る。猿田友香は「何よ?」と言いたげに反抗的な目を返した。猿田友香は、バイトでは後輩と言えるが、年齢は犬飼青年のひとつ上。しかし同学年の大学生という、ややこしい関係の彼女は性格も少々ややこしく、よく言えばポジティブ、悪く言えばナルシストな彼女に犬飼青年は密かに悪印象を抱いている。


犬飼青年と猿田友香の応酬の間に男は悩んでいたようで、うんうんと唸っていたが、やがて言った。「どっちも、三つずつ頼むわ」


代金を受け取り、男を見送ると、犬飼青年は安堵のため息をついた。大学生活も本格化してきたこの頃は大学から直行して六時から十時まで働くということが多い。うんと伸びをして、片付けに入ろうと振り返ると、目前に猿田友香が目をいからせて立っていた。


「あんた、さっきの何」


猿田友香が犬飼青年に詰め寄る。「私がムズカシイ女ってわけ」


犬飼青年は慌てて、時計を確認するふりをした。「あ、もう九時すよ。早くしないと、待たしてしまいますよ」


猿田友香は「誰を?」と言いながら、視線で犬飼青年を刺すように見つめる。


「ほら、あの、彼すよ」犬飼青年はさっさとエプロンを外し、指を立てる。「あの、イケメンで、某有名大医学部の、彼」


すると、猿田友香は犬飼青年を睨みつけながらも満足そうな笑みを浮かべ、更衣室へ消えていった。犬飼青年は再び安堵のため息をつき、掃除を始める。




「ネズコさん、送っていきますよ」


片付けを終え、犬飼青年は根津桃子に声をかける。訪れる客の少ないこの時間帯の勤務は、もっぱら少人数で、店長たる根津桃子とバイトが数人の場合が多い。根津桃子の住居は「Maman」の近所であり、そのしばらく先に犬飼青年の家がある。近頃は根津幸子は閉店後消えるように帰ってしまうため、こうして誘うのも久しぶりのことだ。犬飼青年は躊躇いを感じつつ、言った。


「お、犬飼青年、紳士だねえ」


根津桃子は「わはは」と散々笑ったあと、「お願いします。我がナイト」と、冗談めかして言った。


「ナイトというか、俺は犬っすよ。番犬的な」


「あれ、友香ちゃんは?」


「猿田さんは、迎えが来て。彼の」


「彼って、親が医者で、学生にしてベンツ乗りの、彼?」


「ええ」と犬飼青年は頷く。猿田友香の彼氏自慢は店長にまで及ぶ。


「イギリスとのハーフで、トリリンガルの、彼です」


根津桃子は再び「わはは」と声を上げ笑った。


「そう言えば」歩みを進めながら、犬飼青年は言う。「ネズコさんはご結婚されてるんですか」


「そういうこと聞くの、今時セクハラだよ」


「すみません。ふと、思って」


「冗談」根津桃子は今度は声を抑え「うふふ」と笑う。「してないよ。恥ずかしいことに」


「恥ずかしいだなんて!」


「じゃあ、私もセクハラするけど」根津桃子は犬飼青年の前に出て、彼の顔を覗き見る。根津桃子の身長は百五十センチメートル弱であるから、身長百七十センチメートルの犬飼青年とは実に二十センチメートルの差がある。故に、根津幸子は犬飼青年をかなり見上げることになるのだが、往々にして男は女に上目遣いで見られると動揺するもので、犬飼青年も例に漏れずドキリとした。


「犬飼青年は付き合ってる人はいるのかい?」


「いないっすね。恥ずかしいことに」犬飼青年は答えつつ、高鳴る胸を押さえつつ、思う。本当に、根津桃子とはひと周り以上も歳が違うのか。失礼と知りつつ、パートの同僚を思う。肌のハリも、声も、まるで違う。ひょっとすると、彼女はバイト先の店長のフリをした何かの刺客なのではないか!


「あら、それは失礼」


犬飼青年たちの働くショッピングモールは高速道路の側に位置し、それなりに交通の便はいいものの、街までは少し歩かねばならない。排気ガスの臭い漂う大路を過ぎ、歩道橋を越え、それなりの喧騒と灯りを伴う街へと辿り着く、その時には心地よい疲労感が身体を、特に脚の当たりを包み込んでいた。


「可哀想な犬飼青年に、何か奢ってあげようかな」


根津桃子が道路の向かいに見えるコンビニを指して言った。


「神すか」犬飼青年はすきっ腹を押さえて言う。「じゃあ、俺も可哀想なネズコさんに、何か奢ってあげようかな」


「何がいい?きびだんご?」


「シュークリーム以外でお願いします」


「ハーゲンダッツでお願いします」


そんなやり取りを交わしつつ、横断歩道を渡ると、駐車場で座り込み煙草を吹かす男たちがいる事がわかった。しかし、犬飼青年は気にもとめず自動ドアをくぐろうとする。


「待って」


根津桃子が小さく言い、犬飼青年の腕を掴んだ。犬飼青年は、根津幸子の突然の大胆な行動に動揺し、振り向く。彼の後頭部を自動ドアか、漏れ出たコンビニの照明が照らす。


「あ」


その明かりは犬飼青年を越え、暗黒の駐車場までもほのかに照らす。


「お前らは」


明かりに照らされた、耳にピアスをした男は言った。「は」の口から徐々にその口角を上げ、下卑た笑みを浮かべた。自動ドアが閉まり、光が遮られ、再び闇が訪れる。闇の中で猫田が恐ろしい笑顔を浮かべるその様を想像し、犬飼青年は縮み上がった。




根津桃子の行動は早かった。掴んだ犬飼青年の腕をそのまま引っ張り、コンビニを立ち去ろうとした。その力は、彼女のガタイからすると思ったより強い。犬飼青年はグイグイと引かれつつ、思う。これじゃあ、俺はホントに犬じゃないか!


横断歩道を渡り、暗闇の中を、ほとんど走るように進む。少しばかり閑静な住宅街に差し掛かる。しかし、犬飼青年には見覚えがなく「知ってるとこすか」と、後ろに迫る猫田達に戦々恐々としつつ聞く。


「知らない」


根津桃子は息を切らしながら答えた。


駆け足になり、公園を抜け、角を曲がった所で、当然根津桃子は立ち止まった。正確には、それ以上先に進めなかった。二メートルはあろうかという塀が、彼女らの行く手を妨げていた。


「お前ら、なんで逃げんだよ」


猫田は肩で呼吸をしてつつ、それでも余裕感を出そうと、笑みを浮かべた。犬飼青年は「お前たちこそどうして追いかけてくるんだ」と思いつつ、動悸を抑えるのに必死だ。


「俺ら、暇なんだよ。ちょっと遊ぼうぜ」


犬飼青年の思いが届いた訳では無いが、猫田は言った。が、その言葉は根津桃子に向けられている。「何する?土下座?それとも、もっといい事する?」二ヶ月ぶりの登場でも、下品な笑顔は健在だ。


「俺らは暇じゃねえよ」と内心で吐き捨てた犬飼青年は、ふと二ヶ月前の、最近では返信の遅れがちな、兎崎静香の言葉を思い出す。ついに、その時が、次こそと言ったその時が来たのではないか。俺がネズコさんを守らなくては。そしてその事を報告し、兎崎さんとの関係も守らなくては!


「その前に、いくら持ってる?」


猫田の声を合図に、狐井が横から飛び出した。根津桃子の側へ出ると、そのまま彼女の抱えたバッグを奪い取る。犬が咥えたボールを持ってくるように、狐井は猫田の元へ戻り、奪ったバッグを渡した。


「さすが店長。けっこー持ってんじゃん」


財布を漁りながら、猫田が言った。


「へえー、根津桃子ちゃんって言うんだ……ん?」


財布から取り出された免許証を見たその時、猫田の卑しい顔に驚嘆の色が浮かんだ。


「マジか、コレが三十二歳かよ!」


根津桃子と免許証を交互に見つつ、興奮気味に言った。


「合法ロリってか」


暗闇の中で猫田が舌なめずりしたような気がした。犬飼青年の頭に、ネズミを前に舌をチラつかせる蛇が浮かぶ。


「おい、お前」


犬飼青年は言った。猫田が鋭い目で睨みつけるが、今度ばかりは怯まない。しかし、またしても肝心のその先に続く言葉が浮かばなかった。この怒りをなんと形容しようか!犬飼青年は、鯉さながらに口をパクパクとさせた。エサを求める代わりに、言葉を求めた。


だが、猫田は犬飼青年の「おい」を無視し、「おねーさん、俺らとオトナの遊びしない?」と根津桃子に詰め寄ろうとした。


犬飼青年は強く拳を握っていた。彼に格闘技の経験は無いが、怒りと、使命感が彼に然るべき行動を取らせていた。左足を一歩前に出し、上半身を捻る。腕をネジのように回転させつつ、問答無用で拳を突きだした。言葉の代わりに、拳をぶつけた。


犬飼青年渾身のパンチは、傍目に見る根津桃子からしても、また敵である狐井たちから見ても悪くなかった。その拳はまっすぐに猫田の顔を目指し、やがて乾いた音を闇夜の住宅街へと響き渡らせた。




「ちっ、いってえな」


猫田が顔をしかめた。犬飼青年の拳を捕らえた手に息をふきかけ、「こりゃ折れたかもしんねえ」と手を握ったり開いたりを繰り返している。


犬飼青年は、猫田の顔面を捉えたはずの己の拳を見つめている。彼の目が再び猫田を見んとした時、彼の視界は平衡を失い、頬に残る強烈な痛みと、遅れてやってくる理解の内で犬飼青年はアスファルトの地面を見つめていた。


「何するの!」


根津桃子は犬飼青年に駆け寄ろうとした。密かに背後にまわっていた狐井がそれを羽交い締めにする。


「『何するの!』はこっちのセリフだぜ?正当防衛だよ、コレは」


猫田は倒れる犬飼青年を跨ぎ、根津桃子のに歩み寄る。根津桃子の顎へと腕をのばし、掴む。いわゆる「アゴクイ」と呼ばれるそれは、通常もつロマンティックさとは真反対の、異常な残酷さをもって犬飼青年の目に写った。


犬飼青年は立ち上がろうと膝を立てる。が、力が入らず崩れ落ちるように倒れてしまう。無力感に打ちひしがれ、涙が溢れてくる。それを零すまいと、顔を上げた。目前では猫田の手が根津桃子の顎から服へと移っていた。


「店員の罪は店長の罪だよなあ?」


零した涙で、砂のように脆く崩れそうな足を固め、犬飼青年は立ち上がった。「おい」猫田の背後から、拳を振り下ろす。


しかし、その渾身の拳は猫田に届かなかった。ゆっくりと振り返った猫田の笑みに犬飼青年は絶望し、背後で己を捕える豚のように太った男が、一体いつからそこにいたのかと思案した。


再び猫田に殴られ、犬飼青年は吹っ飛び、壁に激突する。


「声出しても無駄だぜ」


朦朧とする意識の中、猫田が根津桃子の口を塞ぐのを見る。遠くで車の音が聞こえた。「助けて!」と胸の内で叫ぶも、その音は遠ざかっていった。犬飼青年は全てを諦め、目を瞑る。まぶたの裏に兎崎静香の姿が浮かび、「ごめん」と呟いた。「ごめん、ネズコさんを守れなかった。奴らに、天誅を下せなかった」




その時、暗闇の中で鈍い音が響いた。


犬飼青年が目を開くと、これは幻覚なのではないかと思わせる光景が広がっていて、再び目を瞑った。まぶたの裏で、根津桃子が足を振り、猫田の股間を蹴りあげる様がスローモーションで再生され、目を開けるとまさにその場所に猫田がうずくまっていた。


体が軽くなった。と思うと、目前に巨体が現れ、根津桃子に襲いかかる。根津桃子はそれを華麗ににかわし、その勢いのままに拳を突き出した。そのパンチは犬飼青年のような、怒りや本能に裏打ちされたものでなく、伝統と格式に基づいた、美しさと威力を兼ね備えた拳であった。


犬飼青年の時よりも大きく、乾いた音が夜の住宅街に響く。それは、殴られた男が太っていたからというだけでなく、根津桃子の拳がいかに素晴らしいものかを物語っていた。


根津桃子は地面に伏せる#豚座__いのこざ__#を一瞥し、呆けている狐井を睨みつけた。すると、狐井が根津桃子の足元で土下座を始めたものだから、犬飼青年は吹き出しそうになる。二ヶ月経っても狐井の土下座のクオリティは健在であり、根津桃子は苦い記憶を思い出しつつ、やはり笑ってしまう。


その隙をついて猫田が走り出した。犬飼青年は身構えるも、その目的は明らかに逃避にあり、次いで豚座、遅れて狐井と三人が駆けて行くのを確認すると彼は息をついて、言った。「ネズコさん」


根津桃子は、未だファイティングポーズを崩さないままに犬飼青年に微笑みかける。


「これが、まさに『窮鼠猫を噛む』ってやつすか」


すると、根津桃子は大袈裟に目を見開いて、「心外だ」という顔をした。


「私が、ネズミだっていうの?」


「え、だって」犬飼青年は自己紹介で自らネズコと呼ぶように言った根津桃子を思い、「ネズコって自分が」と、困惑した。


「犬飼青年は」根津桃子は口を開いたが、途中でうんうんと自分の意見に同意するかのように頷いた。「君は、無意識に少し女性というものを見下しているようだね。弱いって」


犬飼青年は突然の宣告に驚き、慌てて否定する。「そんな」


「覚えておきなさい。女の子はね、ネズミにもネコにもなれるんだよ」


根津桃子はニンマリと笑った。犬飼青年は辟易し、曖昧な笑みを浮かべつつ黙っていたが、ふと、ある事を思い出し、呟いた。「ネズコさん」


根津桃子が犬飼青年の顔を覗き込む。互いの目が合ってしまい、気恥ずかしくて目をそらした。


「神すか」




遠くから甲高い音が聞こえた。


犬飼青年と根津桃子は目を見合せ、頷き合って音の方へと歩き出す。


「あんなに強いなら、どうして前の時土下座なんてしたんですか」


「あの日、自分が弱いなあって痛感したから、鍛えたんだよ」


「なら、もっと早くに助けて下さいよ」


「まさか、犬飼青年があんなに勇敢だとは思わなかったんだよね。あっけに取られたというか」


角を曲がり、公園を抜けた所で、先程は見なかった赤い車が停車していた。運転手と思われる若い男が側で夜空を仰ぎ、さらにその側でまた別の男が倒れていた。


「あれ」と、犬飼青年と根津桃子は同時に呟いた。「あれ、猫田君だね」


倒れている男というのは先程まで根津桃子に金的をくらわされ、伸びていていた猫田であり、今は、おそらく側の車に一撃をくらい、伸びていた。根津桃子にやられた時もかなり参っていたようだが、今度ばかりはピクリともしない。横で狐井と豚座が猫田の肩をゆすり、必死で声をかけている。


「コイツらが」車の持ち主と見られる男が、顔を覆う手の間から漏らした。「コイツらが、急に飛び出してきたんだ」


暗くて顔は見えないが、赤い車の補助席には女が座っている。しかし、男は彼女の事には気がまわらない様子でぶつぶつと何やら呟いていた。


「どうしたんですか」


犬飼青年は「どうしたら良いものか」また「猫田は死んだのか」と動揺し、立ち呆けていたが、さすが立派な大人と言うべきか、根津桃子は運転手の男に歩み寄っていった。


「どうしたもこうしたも」


男はオロオロして、今にも泣き出しそうに顔をしかめた。太い眉をハの字にして、「コイツらが」とまた言った。


「落ち着いて。大丈夫、コイツ、まだ生きてるから」


根津桃子が心底憎たらしそうな目で倒れる猫田を見ているものだから、犬飼青年は笑ってしまう。


「とりあえず、証拠隠滅のためもっかい轢いちゃいましょうか。三人まとめて」


「ひい」と、狐井たちがか細くないた。


「あんたたち、今すぐ寝てるアホ連れて帰ったら、今回の事は見逃してやるから、はやく」


根津桃子が狐井たちをひと睨みし、低い声で言った。「そんな恐ろしい声が、あんなに可愛らしい人からでるのか」と犬飼青年は驚く。それは狐井たちも同じようで、豚座が猫田を担ぎあげると、すたこらと去っていった。


「ネズコさん、どうして逃がすんですか」


犬飼青年は困惑し、根津桃子に問うた。「警察につき出してやればいいのに」


「車の中の子」根津桃子は赤い車の、助手席を指す。


犬飼青年は目を細めて見るが、やはり暗くて誰だかは判別がつかない。「誰すか」


「あれ、友香ちゃんだよ」根津桃子が言った。「車はベンツじゃないけどね」


「よくみえますね!」犬飼青年は本心から叫ぶ。徐々に暗闇に目が慣れてくると、言われてみれば、猿田友香に見えなくもない。


「私は猫目だからね」根津桃子は笑う。「暗闇の中でも結構見えるんだ」


「じゃあ、あの彼は」


イギリス人とのハーフで、某有名大医学部の。犬飼青年が言いかけたところで、根津桃子が遮って「彼はハーフじゃなさそうだけど」と言った。「でも、彼が困ると友香ちゃんも困るだろうし、もう天罰も下したし」根津桃子が笑いかけるのが暗闇でもわかった。彼女が手を振ると、助手席の女がうずくまり、なるほど根津桃子の目は確かなようだと犬飼青年は感心した。


根津桃子は、猿田友香が明らかに嫌がる素振りを見せたに関わらず、車に近づいて行った。おずおずと顔を出す猿田友香の顔は蒼白で、何がそれ程嫌なのか、いつもの自慢話はやはり誇張だったのか、と犬飼青年は呆れる。コンコンと窓を叩き、何やら話している根津桃子を眺めながら思う。これは、兎崎静香に話してもいいものだろうか。彼女の気を引くための誇張だと思われやしないだろうか。




時は過ぎ、夏は過ぎ、十二月。勤続五ヶ月を過ぎた犬飼青年は、あの日以来やけに殊勝になった猿田友香と、あの日を弱みに時々無理難題を押し付けてくる根津桃子と共にシュークリーム専門店「Maman」で日々働いている。


目下の敵は、斜向かいに出来たクレープ専門店「鬼ヶ島」だ。やけにいかめしいその名に反し甘味を極めたそのクレープは、主に若年層を取り込み、同じくスイーツ分野である「Maman」の売上を激減させた。


「Maman」は新しく入ってきた男性従業員、高校生の鳥山望を加え、根津桃子を筆頭に日々宣伝に開発にと打倒鬼ヶ島に精を尽くしている。


そのような忙しい毎日に犬飼青年は忘れていたが、長らく待ち望んでいた熊谷との再会は未だ果たせていない。その頃熊谷は、念願であったトラックドライバーへの転職をはたし、日々高速道路を駆けていた。約半年後、恋人を追いかけ空港へ向かう青年を空港へ送り出すことになるのだが、そしてその後休憩に寄ったショッピングモールで、犬飼青年と再会を果たすのだが、当然犬飼青年には知る由もない。


犬飼青年は一人帰る夜、ふと思う。俺に女性を抱いて眠るような夜は来るのだろうか、と。しかし、約半年後思わぬ再会に感涙し、屈強な大男を抱きしめる方が先になるとは、当然彼に知る由はない。


一年後、束縛気味の彼氏と別れた兎崎静香を励ました事をきっかけとして、漁夫の利を得るかのように、犬飼青年は彼女と交際を始めることになる。しかし、今の彼がそのことを知るはずもなく、一週間毎の返信に一喜一憂し、時に自暴自棄に日々を過ごすのみである。


犬が従順で、猫は愛くるしく、天は悪を尽く捕え罰を下し、そして女の子は強くも弱くもあるように。また、張り巡らされた伏線が全て回収されるとは限らない無いように、これは当然なのだが、それは、神のみぞ知る。


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[一言] 独特な文章、言い回しなのですが、感じたのは豊かな表現力です。単調さ、冗長さがみじんもなく、「ああ、こういう書き方もあるのかぁ」と非常に勉強になりました。 内容もとても興味深いものでした。犬飼…
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