十三
翌朝、鈴は一晩考えたことを浮雲たちに伝えた。松葉や青幡は反対したけれど鈴も譲らず、最終的に折れたのは松葉たちだった。
「姫宮」
ちょうど荷造りを終えたところで呼ばれて振り向くと、そこに三光が立っていた。
「今聞いた。七国の国都に行くってどういうこと」
「葵依様に会いに行こうと思って」
そう告げた瞬間、珍しく彼はひどく打ちのめされたような動揺を見せた。それはこの飄々とした男が鈴に見せた、剥き出しの本音だったように思う。
その時、鈴は気付いた。青幡と同じく、この人も八年前のあの日からずっと動けずにいたのだと。
「……ばかじゃない?」
鋭い声で彼は言った。いつも薄絹を被せたような物言いをする彼にしては珍しく、直情的な色だった。
「会って、本当のことを言ってどうする気なの? 君がこの状況で、七星と全面的に対立したら自分の立場がどうなるのか考えられないような愚か者だとは思わなかったよ。下手したら殺されかねないってこと、ちゃんとわかって言ってる?」
「わかってる」
「いやわかってない。君にとって一番大事なものはなに? 若宮くんだろう?」
その言葉に、鈴はどう答えるべきか計りかねていた。けれど短く「そうよ」と確かな意思を持って答えた。
鈴にとって茅羽夜こそが己の半身だ。
彼を失う痛みに比べたら、何だって耐えられるとさえ思う。
「それならこんなとこで過去の、それも君自身には何も関係ない精算のために無意味に危険を冒す必要がどこにあるわけ? まさかとは思うけど僕のためだなんて言わないよね」
「そんなわけないでしょ」
「じゃあ何」
「わたしの心のためよ」
きっぱりと答えた鈴に三光は幾ばくか後ずさった。先程まで捲し立てるように話していた三光が一瞬にして逆転していた。
「親方さんと話してようやく心の在り方を見つけた気がしたの」
「……なに、それ」
「簡単なことだったの。今更、顔も知らない親の罪を背負うつもりはないわ。あの方は既に己の潔斎を終えているし、そのことでわたしはもう罪悪を感じたりしない。わたしは、」
わたしは。
「わたしが歩んでいくもの、選ぶもの、その全てに誠実でありたい」
迷うことも、悔やむことも、これから何度だってある。立ち止まって、そのたびにあの時の選択は正しかったのか悩むだろう。
でもその時に、その選択をしたのは自分なのだと。
自分が考えて、選んで、歩んで、求めて、自分の心を裏切らないでいることがきっと自分にとっての最善に繋がるのだ。
「わたしは誰でもない、ただひとりのわたしになりたい」
その言葉を、三光は眩しいものを見る眼差しで受け止めた。
面差しは全く似ていないのに彼がただひとり心を寄せる少女に見えて。
それは覚悟を宿した瞳だった。目の前の少女は三光が空想の中でどこか軽んじていた姫君ではなくて、無垢で、それでいて強い光を放っている。
(……蒼一郎さま)
三光はあの日から、ただの一度も浮かべなかった名前を口の中だけで呟いた。愛した女のために、世界を巻き込んで国を相手取った末に死んでいった愚かな男。三光にとって彼の名前は後ろめたいような、忌諱したいような、そんな存在だった。
そんな彼の娘が目の前にいる。
あの人とは違う、強くて静かな決意を宿して。
(本当に、よく似ている)
姿形は父親似だ。けれどやはり、彼女は龍の巫女であるのだと強く感じた。
三光たち山守が頭を垂れるべき、尊ぶべき方。
人は感極まると泣きたくなるのだと三光はこの時、初めて知った。
「そのために、葵依様に会いたいの。わたしはあの戦いで何も失っていないけれど、全くの無関係でもないから。きっと彼女と話すことがひとつのけじめなんだと思う」
「それで彼女が君を憎んだらどうするつもり」
「別にどうもしないわ。それが葵依さまの選択なら受け入れるだけよ」
「そんなの君の身勝手な自己満足だ。君が楽になりたいだけだろ。だってそんなの、告げられた方はどうしたらいいんだよ、あの子と友達なんだろ」
葵依のことを三光は何も知らないが、すすんで友を憎みたいような人間なんていない。自分の友人が許嫁を奪った教主の娘だなんて知らない方が幸せに決まっている。世の中には知らない方が幸せなことなんて、たくさんあるのだ。正しさや優しさばかりが人を幸せするとは限らない。憎しみが、時には人を生かすことも。それを目の前の少女はわかっていない。
「みんながみんな、君みたいに強いわけじゃないんだよ。あの子は僕を仇だと思っていた方がいいんだ」
「……後悔しているのね」
静かな水面のような眼差しだった。しくったなと思った。少女は気付いてしまった、三光の中にずっと居座っていた感情の存在に。
「真尋殿下を亡くしたことが、あなたの後悔なのね」
心の柔らかいところを匙ですくわれたような、そんな苦くて痛い気持ちが口の中に広がる。この少女を前にすると長い年月をかけて自分を隠すように覆っていた殻が、一枚ずつ剥がされていく気がした。とるに足らないと思っていた少女なのに。
「そうね、あなたの言う通り、わたしが楽になりたいだけなのよ。茅羽夜を救うために身軽でいたいの。他人の人生って重いのよ、すごく。だから返したいだけ」
「……身勝手」
「あら、知らなかったの? わたしは自分勝手で身勝手な人間なのよ。そうじゃなければあなた達を巻き込んでこんなとこまで来ていないでしょ」
でも、と少女は言う。迷いの晴れた顔で。
「これがわたしの選択だから誰のせいにもしないわ。これで葵依さまに恨まれても仕方ないけど、その代わりわたしは誰も恨まないし、謝らないわよ」
清々しいほどの開き直りだった。いや、実際に彼女に原因があるわけではないのだから開き直りというのは違うのかもしれないが。
(─────ああ)
彼女は夏に降る雨のような人だった。渇いた世界に優しく降り注ぎ、恵みを与えて風を連れてくる。
昔の自分に彼女のようなしなやかさがあれば、何かひとつでも運命は変えられただろうか。それとももっと早く、もしも彼女が自分の立場に生まれていれば、兄は、里は、国は。
いや、本当はわかっている。彼女が彼女として生まれたことに意味があるのだ。星一粒ほどの偶然と必然を糸にして織りあって、そうして出来たのが彼女を包む世界だった。
「……わかった、もう何も言わない」
「三光」
「でもその代わり、僕も行く」
鈴は大きな目をさらにめいっぱい広げて三光を見た。菫色と海色の星が落っこちそうだ。
「何? 文句あるの?」
「いや、ないけど……」
「だったらこの話は終わり。さっさと準備して」
「三光……」
「何」
「ありがとう」
「別に」
端的に言う三光に鈴はふふふと笑った。何、と返すと「何でもない」と返ってくる。
「八代の言う通りだったなってちょっと思っただけよ」




