六
眠れなくて、鈴は寝台の上でごろりと寝返りを打つ。左には凛音が膝を抱えるように丸まっており、ふかふかの布団は彼女と千種という女性が整えてくれたものだ。
殆ど抜け殻のように過ごしてきた二月。
松葉は勿論、凛音にも千種にも随分迷惑をかけた。そしてこれから、もっといろんな人達に無理を言うことになる。
(眠れない……)
頭を使いすぎたせいだろうか、睡魔は一向に眼裏に現れてくれなかった。緊張もあるのかもしれない。
(昨年の今頃はまだ、九国の里にいたのに)
この一年で、鈴の人生は本当に目まぐるしく動き、流れていった。
若宮の妃に選ばれて、入内の為に京都へ向かったあの日がもう遠い昔のことのように感じられるがまだ一年も経っていないのだった。
ごろりとまた転がる。いや、ダメだ寝れそうにないと見切りをつけ、少し夜風に当たろうと鈴は寝台を抜け出して、この二月過ごしてきた露台へ向かう。
硝子戸を開けると、真っ暗な海が月明かりの下に広がっていた。丸卓と椅子の置かれた露台は十二国の時に泊まっていた屋敷のものより広く、少し向こうにある柵に人影が見える。
「あ……」
振り返った人影は、青幡だった。気まずさに視線を斜めに逸らす。
「眠れない?」
「……うん」
「ま、そうだよな」
漣の音に混じってふっと笑う気配がして、鈴はゆっくり、一定の距離は保ちつつ彼のそばに近寄る。彼の手には陶器の酒瓶が握られており、鈴は思わず目を丸めたが彼も確かにいい大人だ。酒くらい飲むだろう。
「お酒って、美味しい?」
「呑んでみる?」
「……いい」
「何も入ってないよ」
「そんなこと言ってないじゃない」
「顔に書いてある。ま、疑って当然だよな。むしろここで呑むって言われる方がびっくりするよ」
「そういうつもりじゃ……いえ、そうね」
鈴にとってずっと、青幡は味方ではなかった。自分を攫って、茅羽夜を殺そうとした人。それ以上でもそれ以下でもない。
けれど、ふと思う。
「〈暮星のような人を生まない為に〉」
「……」
「わたしを攫った時、あなたはそう言ったわね。斎妃として殺されるって知ってたから、あなたも松兄さんもあんなことをしたの?」
「……まあ、こうなるなら最初っから若宮くんに打診しとくんだったな」
肯定の代わりに届いたそんな言葉に鈴は隣の青幡を見た。柵を背中にして酒瓶を傾ける彼に、いつものような人懐っこい笑みはなく、ぼんやりと空を見上げている。
「正直言って、俺はいまだに反対してる。本当にそんな方法をあの裏切り者が知ってるかわかんないのに、今本島へ渡るなんて飛んで火にいる鴨葱だよ」
「……裏切り者?」
「巫女様の姉兄神。彼らは迦具土に自ら末の妹を差し出したんだ」
「え……」
「彼らは迦具土を、暴れる迦具土によって殺される民を憐んで自分たちの末の妹を呪いの生贄に差し出した。全部迦具土の自業自得なのに」
自業自得。確かにそうだ。しかし呪いに身を灼かれて気が狂い、それによって数多の命が消えゆくのを、ただ見ているのもきっと辛い選択だったのではないだろうか。
迦具土が自業自得なのは否定しないけれど、それを言ったら、一番哀れなのは沈んだ唐の民たちだろう。神龍が唐から来たとは言え、隣国での争いに国全部を沈められるなんて言ってしまえばとばっちりも良いところだ。迷惑極まりない話である。
「姉兄たちはみんな唐の民を捨てて、本島へ渡っていった中、巫女様だけがここに残った。ここは唐で唯一沈まずに残った霊山の一部なんだよ」
「えっじゃあここ、唐なの? すごい、わたし今、何千年も前に沈んだ幻の国に立っているのね……」
神様も幻の亡国も、神話や歴史書の中だけの存在だと思っていたものが、次々と目の前に形となって現れているのはどこか不思議な感覚だった。
ちょっと前までは山神に豊穣と明日の平穏を祈るばかりだった村娘であったのに、東宮に嫁ぎ、先代斎妃であった九国の姫の娘であることが判明し、果ては神話の神に嫁いだ少女の血筋ときた。銀朱に教えたら目を輝かせて小説の種にしそうだ。
(銀朱様も葵依様も、皆様無事かしら……)
聞けば帝の妃たちはそれぞれ蟄居中らしく、一応生存は確認されている。奈月彦はともかく、彼女たちは国長の娘だ。さすがに理由もなく危害を加えられたりしないだろう。
(小鞠も露草も……どうにか無事が確認出来たらいいんだけど)
松葉によると、その二人の詳細は掴めていないらしい。例の地震による火事での被害はお堂だけで、街の方はそこまで酷くないとのことなので、火事に巻き込まれて亡くなった者の中にふたりは確認出来なかったと言っていた。
そういえば、とふと思う。
「ねえ、ここからどうやって本島へ行くの? やはり船かしら」
「いや、龍脈を使って行く」
「どういうこと……?」
「前に俺が姫宮たちの前から転移した時のことを覚えている?」
記憶を手繰る。鈴を拐い、茅羽夜が助けに来てくれた時のことだろう。確か、北斗によく似た鴉が来て、それから。
「北斗と良く似た子を召喚した時のこと?」
「そう。ああ、ちょっと待ってて」
そう言うと、彼はピィーと高く指笛を吹いた。ややあって遠くから風を切る音が聞こえてくる。その方へじっと目を凝らすと、闇夜に混じって一羽の大鴉がこちらへ飛んでくるのが見える。鴉はくるりと空を旋回し、普通のそれを同じ大きさになると、青幡の腕にちょこんと留まった。
「こいつは紗々。姫宮のとこの鴉の妹。こいつは渡鴉っていって、龍脈を使った転移術の補助をしてくれるんだ」
「じゃあ東和全部を飛び回れるってこと?」
「全部じゃないよ。あの時もお社があっただろ? ああいった龍脈が強い場所にしか飛べない」
「なるほど……」
だが何日もかけて東和中を横断しなくていいのは大変に助かる話だ。鈴が青幡の腕に留まる大鴉を見上げると、彼女はぴかぴかと光る瞳を丸くしてカア!とひとつ鳴いた。
「こんにちは……ええっと、紗々さん?」
「カァッ!」
「紗々でいいって」
「なんて言ってるのかわかるの?」
「いや何となく。俺の使部じゃないから」
「え、そうなの?」
てっきり青幡の使部かと思っていたが、どうやら違うらしい。それにしてはよく懐いていると思うのだが。
「こいつは巫女様のとこの子。でも俺が一番あちこち行くから手伝って貰ってる」
「仲良しなのね」
「最近俺よりもあのちびっこと仲良しなんだけど」
「ちびっこ?……あ、凛音?」
「そうその子。彼女どうも紗々の言っていることがわかるみたいで。多分、力が巫女様の系統だから波長が合うんだろう」
「系統……?」
占いに派閥があることは前に聞いたが力にも系統があるのか。
問い掛けると鴉の喉を指で撫でながら、青幡は少し難しい顔をして、話始める。
「神龍と一緒にこっちに来た術者の系統と元々東和に住んでいた人間が作った術では少し系統が違うんだ。例えば俺は母方の血筋は唐だけど、父は生粋の東和系統だったから生まれ持った霊力の色が混ざってるんだよね。だから術の編み方も自己流」
「へえ〜……そういうものなのね。じゃあ、凛音は唐の血が濃いのかしら」
「たぶん。まあこの二千年くらいで俺みたいに混ざった者の方が多分多いけど、十二国に限らず山守の一族がいるとこは大抵そうだよ。六国と九国、三国、それと十二国かな。姫宮の父親……蒼一郎もそうだった」
ざざんと遠くに波の音が聞こえる。無意識の内に、襟元の首飾りを人差し指で撫でた。
両親の置いて行った、唯一のそれを月明かりに透かして見る。楕円形のそれは柔らかな月光を通して、縁を飾る銀も相まってまるで月明かりそのものようだ。
「あのね、聞いていい?……わたしの両親ってどんなひとたちだった?」
「一言でいうなら、頭がめちゃくちゃ悪かったよ」
「えっ?」
突然の悪口にびっくりした。青幡は腕に留まった紗々を肩に乗せて、酒瓶をあおる。
「身重で指名手配の逃亡生活なのにやたら元気で、困ってる人見たら放っておけなくてすぐに揉め事に首突っ込むし、おまけに両親亡くした子供まで引き取っちゃうし……」
その子供が彼らをどう思っているのか、よくわかる声音だった。
「ほんと考えなしで自分勝手で、困ったひとたちだったよ」
(─────ああ)
どこか実感のなかった気持ちが形になる。彼らが本当に生きてたという証とか、遺したものとか、そういうもの。
伽藍堂だと思っていた青幡という青年の虚は、ちゃんと目に見えない何かで満たされていた。
(両親はわたしを置いて行った)
そのことが、悲しくなかったかと言えば嘘になる。けれどふたりが遺してくれたものは、形を変えてちゃんと鈴の未来に続いている。
そのことが嬉しかった。
「……ねえ、聞いても無駄だとは思うけど、本当に君は行くの?」
「行くわ」
「ここにいれば、きっと一生安心して生きていけるのに?」
「そうね、でもここには茅羽夜がいないから」
きっぱりと鈴は言った。随分、迷ってしまったけれど。
けれど結局どんな理想郷でも、隣に彼がいないなら意味がない。
「わたしは彼のいない世界で百年生きるよりも、彼の隣で一日を生きたい」
彼の痛みも、苦しみも、共に分け合って。
思い出だけではわたしは生きていけないから。
「……あーあ、女の子って恋をすると本当に逞しくなっちゃうよね」
「男の人は違うの?」
「若宮くんみたらわかるでしょ。あいつすっごいへたれじゃん」
「……確かに。でもそこが可愛いんじゃないの」
はいはい、ご馳走様でした、と笑う彼につられて、鈴も久しぶりに声をあげて笑った。




