四
「最近、弟子が出来たそうね?」
円柱の形をした洋座布団を下敷きにして、毛足の長い敷物の上で寝そべる男に、少女は言った。三光はそれに顔すら上げず、書物を捲りながら「弟子?」と鸚鵡返しに聞き返す。
「弟子なんて取った覚えないけど」
「あら、でも最近よく出入りしている子がいるんでしょう」
「彼女は本棚の掃除係だよ」
「あなたが自分の部屋に通すこと自体が、心を許した証のようなものでなくて?」
「そんなわけ……」
「責任を感じているのよね」
人の話を聞けと思いながら、三光は何でもないフリをして書物の頁を捲った。しかし幾重にも垂れ下がった薄絹の向こうにいる彼女は白魚の指で三光を手招いているのを、無視出来なかった。
ひとつ溜息を吐いて、見えない糸に引っ張られるように、三光は薄絹を潜る。この巫女の御座へ入れるのは、彼女に許された者だけだ。少女の側に腰を下ろすとそのまま膝に頭を寄せる。
「孤児院の子たちは、残念だったわね」
「…………」
「大丈夫よ。あの子だちは皆、水底の国へ還ったわ。きっとまた会える」
「生まれ変わっても、彼らは彼らじゃない」
魂が星となり、幽宮へ渡って傷を癒し、月黄泉の手でまた巡る。でもそれは、彼らであって彼らじゃない。死んだら何も残らない。
「そうね。でもそれはあなたが背負わなくていいの。みんな、波間に預けてしまいなさい。わたくしが死ぬ時、すべてを持っていくから」
「いやだ」
駄々をこねる子供みたいに、三光は言った。実際、少女からしたら駄々をこねる子供のようだっただろう。彼女の前では、誰もが幼い子供だ。
「ねえ、三光。今この島には三人もの末御がいるの。長年生きて来たけれど、あの方々の末御が揃うことなんて初めてよ」
顎龍山の山守の裔である三光。
天龍山の山守の一族を母に持つ千種。
九頭龍山の山守である鈴。
神龍が眠った後、島を発っていった彼らを、裏切り者だと呼ぶ一族の者もいる。けれど少女は知っていた。
「これは偶然ではない。わたくしはそう思うの」
彼らは待っているのだ。誰も辿り着けなかった最果てに、手を伸ばす誰かを。
「きみがそう言うならそうなんだろう……でも水早、僕は世界なんてどうでもいい。君が慕うあの子が生きようが死のうが、これっぽっちも興味がない」
でも、と青年は自分の髪を梳く指に意識が引っ張られる。
「────君が望むなら、僕はどんなことでもするよ。君に拾われて、名を与えられた時から僕は君のものだから」
何もかもを喪って、たったひとりついて来てくれた幼馴染みを犠牲にして。
今も瞼の裏に張り付くのは、あの優しい眼差しだ。全てが終わったら迎えに行きたい人がいるのだと、笑っていた紫水晶の星の人。
────助けられなかった、人の手。
「ありがとう、わたくしの月日星」
髪を梳く揺蕩うような声に、夢を渡る鳥の子は微睡んで、やがて意識を手放した。
凛音は悩んでいた。それというのも三光の部屋の書物が思っていた以上に難しく、また殆どが古語で書かれていたせいだ。
「読めるわけないよー!」
書物から顔を上げて、凛音はくったりと机に突っ伏した。何度か辞書と書物を行ったり来たりして、わかる単語を拾って術の仕組みを解くけれど、一冊読むのに時間がかかり過ぎる。おまけに千種の手伝いの合間くらいしか読める時間もないので、遅々として進まなかった。
「うう……」
何も一朝一夕で扱えるようになれるとは思っていない。しかし早くしなければ、鈴の体力の底が尽きてしまう。
「凛音、ちょっと手伝って欲しいのだけれど良いかしら」
「あ、はい!」
栞を挟んで本を閉じると、千種はその本に目を留めて「あら」と頰に手を添えた。
「また懐かしい本を読んでいるのね」
「え?」
「私も小さい頃に読んだわ」
「え⁉︎ 千種さま、巫術が使えるの?」
「あら、言わなかったかしら。私の母は六国の天龍山にお仕えしていたの。だから、この島のことも小さい頃に聞かされていたわ。私のご先祖様はこの島が……まだ国であった時に、此処で生まれたの」
唐に纏わる神話は、凛音も知っている。白浬教の教義にも、唐からやって来た貴き龍神とその花嫁の話はあった。
今の東宮が、かの龍神の生まれ変わりである、ということも。本当かどうかはわからないが、少なくとも信者はそれを真実だと思っていた。凛音はその龍神を、若宮を憑坐にして蘇らせる為の器だったのだから。
「……千種さま、もしかして古語読める?」
「読めるわよ」
「本当⁉︎ ねえ、これ読める?」
凛音は先程開いていた頁を広げて引っかかっていた単語を指さす。
「……凛音、これって招魂の術よね?」
「うん、そう」
「誰の魂を呼び寄せたいの?」
固い声に、凛音は一瞬たじろいだ。招魂は、ただ一度きり、幽世に眠る魂を呼び起こす術だ。蘇らせるわけではないので禁術ではないが、かなりの技量がいる。ともすれば何年も研鑽を重ねなければ、幽世の数多在る中から正しく魂を招くことなど出来ない。
でも、それでも必要なのだと思った。
彼女を夢から引き戻すには。
「お姉ちゃんの大事な人」
「凛音、あなた」
「違うの!これは、お姉ちゃんのためじゃなくて、わたしの我がままなの。だってわたし、わたしにはね、お姉ちゃんの心がまだ迷っているように思えたの」
緩やかに衰弱していく少女。けれど、命を絶つならばもっと確実な方法はいくらでもある。それでも彼女はただ時の流れに身を任せているだけだ。
凛音には、それがただ迷っているように見えた。彼女は今も、夢の海を彷徨っている。
「ねえ、千種さま。あのね、絶対に取り返しのつかないことって、きっと世界にはたくさんあると思うの。出雲さまのこともそう。死んだ人は、もう、生き返ったりしないもの」
「……」
「でも、でもね、お姉ちゃんはまだ生きてる。ぎりぎりのところで、思い止まってくれていると思うの」
だから、と少女は言う。もしもまだ、彼女がこの世界を見捨てていないのなら。たった星屑一粒分でも、何か見知らぬ光があるのなら。
「わたしは、諦めたくない」
ふたりが話す扉の向こうで、静かに佇む人影があった。面倒を見てあげてね、と言われて渋々自分の部屋から本を持ち逃げした少女の進捗を見に来た三光は、戸を背につけて天井を仰ぐ。
(諦めたくない、か)
瞼の裏の、紫の星が浮かぶ。もう八年も経つのに、あの罪の面影が焼き付いて離れない。
三光にとって、それは絶対取り返しのつかない後悔のひとつだった。
家族を見捨てて自分だけ逃げたこと。
その時連れ出してくれた幼馴染みを囮にしたこと。
そして───そして、彼を見殺しにしたこと。
八年。逃げてばかりだった三光が、ようやく辿り着いたのは幼い頃に聞かされた夢物語の中の国とひとりぼっちの少女。彼女のためなら、なんでもしよう。そう思っていたけれど。
(いやだなあ……これじゃまるで)
─────罰みたいじゃないか。
「招魂がしたいんだって?」
「!」
ふらりと現れた青年に、凛音は身を強張らせた。側にいた千種もはっと目を見開いて、猫のようにゆったりと歩み寄る三光の動向を見ている。
「急に巫術を教えて欲しいなんて言い出すから何事かと思えば、ね。こんな初歩の古語すら解けない君にはまだ無理だよ。諦めな」
「……無理であることは、諦めなくちゃいけない理由にはならないもん」
「十三やそこらの小娘が一丁前に言うね。でも君では無理だよ、技量が追いつかない。巫術の基礎も出来てないくせに」
「でも────」
「だから、僕がやる」
「え」
ぽかんと、目を皿のように見開いて、少女は今目の前の青年が言った言葉を反芻する。
三光は、凛音では無理だと言った。それは千種から見ても、少し巫術の基礎がわかる人ならば誰の目にも明らかだ。基礎を学べば巫術は誰でも扱えるが、招魂ともなれば独自の属性や素養を理解して術を編み、式を組まねばならない。たかが数日、本を読み耽っただけで出来るならばこの世に巫術師なんてものは要らない。
でも、だからに続く言葉が、うまく理解できない。それは事の成り行きを見守っていた千種も思っていたらしい。
「三光さま、その意味をわかっておられるのですか」
「わかってるよ。凛音、初めに言っておくけど、この招魂は成功しない」
「え……」
「それでも、やるかい?」
少女は逡巡する。けれど、すぐに小さな顎をあげて、青年を見て、確かにひとつ頷いた。
真っ暗な闇の中に、少女はいた。
もう今日という日がいつなのか、朝なのか、昼なのか、夜なのかさえ、判然としない。
誰かが時折声を掛けてくれるけど、そのひとが誰なのかもわからない。どうでもいい、というのが本音だった。
もう何もかもが煩わしくて、けれど胸の奥の痛みに、確かにまだ生きていると実感する。
(────このまましんだら、茅羽夜は怒るかしら)
でも、彼に怒る権利はないはずだ。勝手に決めて、勝手にいなくなったのはあちらが先なのだから。
目を閉じると、遠くに微かな漣の音が聞こえる。
そうして、鈴は茅羽夜の夢を見る。海の底に落ちた星を追いかけるように、陽神が愛しい月へ会いに幽世へ降りたという神話のように。
けれど何度やっても、彼はどこにもいなかった。
「お姉ちゃん」
────声がした。聞き覚えのある声だった。でも、誰の声だったのかは頭に靄がかかったみたいにうまく思い出せない。
「大切なひとに、会いに行こう」
────引っ張られるようにして、瞳を開いた。
最初に映ったのは、見知らぬ部屋だった。机と長椅子、それから唐櫃が置いてあるだけの簡素な内装。そこに、ひとりの少女と青年が立っていた。青年は机に水盆を置いて、その中に何かを記した紙を浸す。玻璃の水盆にはきらきらと灯りを受けて煌めく黄玉。
(あれは、招魂……?)
はっきりとしない頭で、彼が行おうとしている術が幽世から魂を招くそれだと気付いて、鈴は数回瞬いた。
青年は瑠璃の耳飾りを外して噛み砕き、ふうっと吐息を吹きかけた。それは金の粒を纏った煙となって、紫煙のように部屋を満たす。鈴は思わず立ち上がって、その水盆から立ち上る煙に手を伸ばす。
────彼が呼ぼうとしている魂の名は。
「……え?」
しかし、煙は人の形を取る前に解けて、霧散した。金の星粒は尾を引いて、水盆へぽちゃんと落ちていく。
「なんで……?」
「居ないからだよ」
青年はまるで初めからわかっていたように事もなげに言った。
「居ない……?」
「そう、若宮くんの魂は幽世にいない。だから招魂したって呼べるわけない」
「どういう、ことなの。だって彼は……」
自分の命と引き換えに、自分の命を賭けた筈だ。だってそう言ったのだ。
斎妃の命を焼べなければ、呪いは彼を灼くのだと。
「そうだね、その認識は正しい。でも彼は……とある禁術によって、父の分の業も血も背負って半分不死の状態になってるんだ。普通死ぬくらいの傷があっという間に治ったのを見たことはない?」
青幡にやられた傷は、多少鈴が回復に底上げしたとしても、とても数日で動ける状態になれるものではなかった。龍の血ってすごいんだな、と呑気に思っていたけれど。
「不死っていっても万能じゃない。ようはめちゃくちゃ再生能力が高いってだけで、痛覚は普通にある。そこを踏まえて、これから僕の話を聞く勇気はある?」
青年は問い掛ける。明瞭な痛みを伴って。
その痛みが、鈴がまだ、生きていると教えてくれる。
「聞かせて」
「……じゃあまず、昔話から始めようか。異国から来た龍神と、この西の最果てに住む少女の話だ」
神々の争いに敗れた白き龍神と西の最果てに住む少女の恋の話。しかし結ばれた二人は悲劇的な最期を迎える。
迦具土は力に目が眩んだのか、それとも別の理由があったのか、龍神に致命傷を負わせて、少女を殺し、少女から陽の双玉を奪った。不死であった龍は怒り狂い、大嵐を呼び寄せた。
しかし傷付き、更には半身を失った龍神は力尽きて、海の底で深い眠りにつく。
その一方で、迦具土は取り込んだ陽の双玉に身を灼かれ、苦しんだ。彼は龍神と少女の末の娘を攫って娶り、彼らの間には力を宿す三つ子が生まれた。その後、娘は子供を抱く前に迦具土に殺され、迦具土自身も、その後を追うように自害した。
三つ子の末御は母と同じ白い髪と黄金の瞳を持ち、この国の最初の王となった。
(この王が、皇の祖。茅羽夜の先祖であり……龍神の娘が、斎妃の始まり)
「若宮くんが斎妃の本当の意味を知ったのは君とお別れする少し前だよ。それまで色々調べてたみたいだけど、皇はまあ、この事実をことごとく消し去ったからね。そりゃあそうだよねえ。だって皇の祖先が神殺しの一族だなんて醜聞遺しておくわけないもんんね」
まほろばの宮だなんてよく言ったものだよね、と青年は言う。
〈まほろば〉全ての理想郷である京都。けれど呪いから、その国は始まった。
「姫宮が知りたいのはここからかな。若宮くんは青幡から国の成り立ちを聞いて、ひとつ問い掛けた。君を救う手立てがあるかってね。青幡は答えた。ひとつだけ方法がある。簡単な話だ、君の代わりに死ねばいい」
「…………」
「でも若宮くんは既に半分不死だ。半分っていうのはまた中途半端だなって思ったろう?そう、彼は中途半端なんだ。彼は僕らよりもずっと高性能な治癒能力を保有しているんだけど、本物の神に比べたら二割くらいかな。まあでもちょっとやそっとの傷とかじゃ死なない。じゃあどうやったら死ねるのか?」
ふと思い出す。茅羽夜が出雲に問い掛けた言葉を。
茅羽夜は双玉はどこかと尋ねた。それに彼は「そこに」と茅羽夜を指差したことを。
「……もしかして、双玉の焔?」
「ぴんぽーん。大正解」
青年はぱちぱちと手を叩く。なんだか少しバカにされたように感じるのは彼の口調のせいだろうか。
「僕らの役目は白浬教の神龍と若宮くんの同化を止めることだった。そして、僕らが時間を稼いでいる間に彼は君に、星を返した」
「星を返す?」
「ああ、鏡見てないんだ。ほら」
手招かれて、鈴は水盆に映る自分を見る。随分やつれているが、それよりも驚いたのは自分の目の色だ。
鈴の目はどちらも菫色だった。けれど水鏡に映っている右目は、茅羽夜の右目と同じ深い海色だ。
(────あの時の)
右目の痛みと熱の記憶が甦って、無意識に右目を押さえた。十年前に貰ったものを返す、その意味をようやく理解した。
「まって、じゃあこの右目の色って、元々わたしのものなの?」
「……そうだよ」
「!」
声のする方を見ると、戸口の所に松葉が立っていた。松葉の鼻は赤くなっており、もしかしたら外にいたのかもしれない。一瞬、彼が鈴を見て泣きそうな顔をしたことに、少しだけ胸が軋む。
「生まれた時、お前の目は左右で違ってた。けどでも六つくらいの時に左目と同じ色になってたんだ」
「そ、そんな大事なこと、何で誰も教えてくれなかったの?」
「みんな母さんから口止めされたんだよ。これがこの子の運命ならって」
「婆さまが……?でも、一体何で?」
「さあな。あの人の考えることなんてさっぱりわかんねえ」
「まあそうだけど……」
婆さまの考えがわかる頃には自分も皺くちゃの婆さんになってそうだ。その頃にも、婆さまは何故か平然と生きてそうな気がするのは何故なんだろう。
「……ん、六つの頃?って確か、わたしが茅羽夜を助けた時?」
「ま、そうだろうね。姫宮はその時に、若宮くんに鎮めの力の半分を渡してるんだ。星石の原型になった話は聞いてる?」
「神龍が花嫁である少女に双玉の片割れを渡したって……」
「そう。その双玉が若宮くんの心臓部に埋め込まれているんだ。彼はね、生まれた時からずっと双玉の焔に心臓を灼かれ続けていたんだ」
「は……?」
言葉が出ない。頭が真っ白になって、何も見つからなかった。
「彼がまともな生活が出来るようになったのは六歳くらいだったらしいから確定だろうね。全く正気の沙汰じゃないよね、だって焼かれたそばから再生していくんだよ。延々、永遠に続くような痛みの中で生きていくなんて普通ならとっくに気が狂ってる」
「────」
『これくらい、すぐ治ります』
『呪いのようなものです』
『……だから、平気だと言っただろう』
『ない。見たのもこれが初めてだ』
張り裂けそうな痛みが、鈴の胸を刺した。俯いて唇を噛んで、必死に涙が零れるのを耐える。
鈴が当たり前の幸せの中で生きてきた時、彼はどれだけの痛みと熱と、絶望の中にいたのだろうか。
生まれた時からずっと、苦痛だけが彼を育てた。人との距離感をはかるのが下手なのも、自分の痛みに鈍感なのも、みんな、ただ耐えるばかりだった幼少期が生んだのだ。
(こんなことってないわ)
彼の幼い頃を考えるだけで全身が震えた。握りしめた掌に爪が食い込んで、血が滲む。皮肉にも、青幡や蒼一郎が皇を許せない気持ちが、今ようやく、理解出来た。
だって茅羽夜に、一体何の罪があったというのだろう。
彼はただ、生まれてきただけなのに。生まれたことが、最早罪なのか。
だったら罪とは何だというのだろう。
そして彼は再び、焔にその身を焚べることを決めた。鈴の為に。
(ばかよ。本当に、なんて人なの)
いつまで続くかわからない火刑に自らかけるなんて、狂ってる。信じられない。鈴を殺せば何もかも手に入るのに、彼は全てを捨てて、鈴の命を取った。どう考えても釣り合わない天秤。
────愛してる。
「……ばかよ、ほんとうに、信じられないくらいの大馬鹿者よ、あの人は」
でもそんなばかが、鈴の半身なのだ。
ひとつの星を共に分けたひと。
鈴が茅羽夜にとって陽神ならば、彼は鈴にとっての月神なのだろう。だって彼がいなくちゃ、鈴は眠ることさえできないのだから。
「……彼はまだ生きているのよね」
「幽世にいない所を見ると」
「そう、よかった」
眦に溜まった涙を乱雑に拭うと、鈴は一歩踏み出した。まともに歩いたのは二月振りだったので少しよろけたが、それでも自分の意思で、再び立った。
「なら、あの綺麗な顔を思いっきり殴りに行けるわね」
鈴がそういうと青年は一瞬惚けた顔をして、次の瞬間、思いっきり吹き出した。松葉も鈴も凜音も思わず目を丸める。
「あっはははは!僕らの姫宮は相変わらずだね!さすが出会い頭に僕を平手打ちしただけある〜」
(こんな綺麗な顔に平手打ちした記憶はないけど……ていうかそう言えば)
この人、誰だ。青幡と一緒にいた覚えはあるが、誰かまでは知らない。そう尋ねると、彼は体を二つに折ってまで笑い出した。
「そこから⁉︎ あははははは!君、誰かもわからないまま話聞いてたの⁉︎」
「…………」
ダメだこの人、一度ツボに入ると延々と笑い続ける人だ。
無言で松葉と凛音へ助けを求めて視線を送ると、二人は顔を見合わせて、首を横へ振って見せた。落ち着くまで待つしかないらしい。
それから彼が改めて自己紹介してくれたのは、暫く経ってからだった。
現状を整理しよう、と鈴は松葉と瑠璃色の瞳を持つ青年、三光に連れられて、小高い丘の屋敷へ向かった。殆ど寝たきり同然の生活をしていた為、上手く歩けない鈴を松葉がおぶってくれたが、この歳になって兄に背負われるというのも気恥ずかしい話だ。
前を行く三光と凛音は何やら言い争いをしており、歳の離れた兄妹にも見えた。仲が良いのだな、と思うけれど時々殺すだとか何とか物騒な単語が聞こえてくるのが気になる。
「松兄さん」
「ん?」
「……こないだ、八つ当たりしてごめん」
おぶられているので松葉の表情は見えない。しかし小さく笑う空気が、肩越しに伝わる。
「いいよ」
「怒ってない?」
「俺はお前の兄貴だからな、これくらいの八つ当たりで怒ってたら身が持たねぇ」
「ひっどい!」
幼い頃から迷惑ばかりかけてきた自覚はあるが、ここまでじゃないと思う。けれどいつも通りの軽口を言い合えることに、ほっと胸を撫で下ろした。
「俺も悪かったな。ずっと黙ってて」
「うん……縁兄さんにも」
「兄貴には確かに俺もびっくりしたなあ、でも兄貴も婿入りの立場だからな。子供だっているし、ああ見えて俺よりもずっと捨てられないものが多いひとだから」
「……」
「だから、話聞きに行こうぜ」
「え」
ぱちくりと瞬きをして聞き返す。
「そのつもりだったんだろ?付いてくよ、俺も兄貴には聞きたいことあるし」
「……うん」
揺れる背中の向こう側。幼い頃はよくこうしておぶってもらったことを、ふと思い出す。御山も、見慣れた田畑もないけれど、急に懐かしくて泣きそうだった。
(でも泣いてる場合じゃない)
ぐっと拳を握る。もう二月も無駄にしてしまった。今思えばすぐにでも招魂でも何でもして、苦情を言ってやればよかった。そうしたらもっと早く気が付けたかもしれないのに、ただただ、自分の不甲斐なさが今は許せなかった。
(わたしが行くまで死んだりしたら、今度こそ絶対に招魂でも何でもして、文句言ってやる)
けれど、今は、彼がまだ生きている。そのことが、唯一の導星のように心に灯ってることに、泣きたいくらい安堵した。




