九
うつらうつらとした目の端で、薄明に照らされて、星の微睡が消え去っていく。射し込んだ曙光に目を擦り、背凭れのように寄りかかっていた天草が押し付けてくる鼻を掻いてやると自分もというようにすぐ側に北斗が降りてきた。
ふと見れば膝にあった重みは消えており、弾かれるように立ち上がった。お堂の中に茅羽夜の姿はなく、しかし慌てて外へ出ると、ちょうど森の方から歩いてくる彼とかち合う。おまけに茅羽夜は雪燈の手綱を引いており、鈴を二つの意味で驚愕させた。
「雪燈!よかった、あなたも無事だったのね」
「近くで草を食んでいたのを見つけたのです。賢い子で助かりました、大きな怪我もないようですし」
「そうだ、茅羽夜さまはもう大丈夫なのですか?あれだけの怪我だったのに?」
「はい。丈夫なので」
そう言う茅羽夜の顔には確かに色が戻り、昨晩よりずっと良かった。雪燈の手綱を引く様子も、足取りもしっかりしている。もう一日二日、寝込んでもおかしくない怪我だったのに。
怪しむ鈴だが、茅羽夜はいつもと変わらない仏頂面のまま、雪燈の鼻を撫でている。いつの間にか天草と北斗の姿はなく、鈴は茅羽夜に手伝って貰いながら、雪燈へ乗り込んだ。
「鈴!」
山道を抜けて、街道に出るとすぐに宿場町の門が見えた。そこ門付近に固まっていた人集りの一人が、雪燈に乗った鈴に気付き、駆け寄ってくる。顔を泥だらけにした松葉は鈴を見て、明かにほっとしたように表情を緩ませた。その後ろには小鞠もいる。鈴もようやく、胸を撫で下ろして雪燈から降りると、その中によく見知った、けれど昨日まではいなかった顔を見つけて目を丸めた。
「縁兄さん……?」
「久し振りですね、鈴」
小鞠の後ろからやってきたのは上の兄、縁寿だった。相変わらず、几帳面が袴を履いて歩いているような顔立ちに似合わない野暮ったい丸眼鏡を掛けている。明朗快活、殷賑といった松葉とは逆に、鷹揚自若といった体の長兄は妹の顔を見るなり安堵したように微笑んだ。
顔の造りは実弟である松葉とはあまり似ていないので、鈴は松葉が父親似で、縁寿が母親似なのだろうと思っている。実際、目を眇めた時や眉を釣り上げる仕草は、縁寿は婆さまそっくりだった。その説で行くと、婆さまも歳若い時はきっと美人だったに違いないが、一体それは何十年前の事なのか鈴の知るところではない。さすがに百までは超えていないと思うが。……多分。あまり自信はなかった。
医師である縁寿は鈴とは一回り以上も年が離れており、鈴が立って歩く前には医学の勉強の為に都へ出ていた。筆まめな性格なので四季折々には鈴や婆さまの健康を気遣う手紙を送ってくれたし、正月等には帰省してたが、それも官吏に取り立てられたここ数年はご無沙汰だった故に顔を見たのは随分と久し振りだった。最後にあったのは鈴が十を過ぎた頃の正月だ。さすがに幼い頃のように抱きつく事はしなかったが、鈴は兄のすぐ側まで駆け寄って破顔してみせた。
「どうしてここに?」
「宮からの遣いですよ。それから医師として行列に加わるよう、若様から命を受けていましてね。藤屋に詰めて待っていたんですよ」
縁寿は鈴に怪我がないか軽く検分すると、緩やかに頷く。そしてちらりと茅羽夜を見て、またすぐに鈴に向き合った。
「茅羽夜殿から使いの鳥が来ていましたから生きているのはわかっていましたが、大きな怪我もないようで安心しました」
「それはこっちの台詞だわ。松兄さんも、小鞠も、無事で本当によかった。他の方は?」
「……全員無事というわけではないが、あの規模の土砂崩れに遭った割には、被害は少ない方だ」
松葉が悔しそうに、頭を振った。後方にいた者の数人が、土砂に巻き込まれて山の裾へ落ちたのだという。同郷の者ではないが、それでも数日旅路を共にした者たちだ。心が痛まないわけがなかった。賊は皆、お縄にかけられ役人へ引き渡したらしい。
宿屋へ向かうと、大広間には崩れた箇所に近かった男達はあちこちを包帯で巻かれ、青い顔をして横たわっていた。この怪我では行列への参列は無理だろうという者も何人かいた。
ひとり逃げ出した罪悪感が、今になって足元に忍び寄ってくる。何と声をかけたらいいのかわからなくて、部屋の戸口に佇んでいると、小鞠がやって来て部屋へ用意したと告げた。
「姫様、顔色が悪うございます。今はお休みになって下さい」
「平気よ。それよりも怪我人の手当てを手伝いたい」
「なりません」
「でも」
「街場の方々が手を貸して下さって、人手は足りております。そんな青い顔をした方に手伝って頂くような事はありませんわ。今お湯とたらいをお持ちしますから、体を浄めてお休み下さいませ」
「……わかった」
自分の顔は見えないが、小鞠がここまで言うからにはとても見れたものじゃないだろう。そんな人間に手当てされても、怪我人だって休まる筈がない。自分だって怖い目にあっただろうに、小鞠はてきぱきと鈴の体を拭いてくれ、着付けを手伝ってくれた。床へ押し込められて、温かい卵粥を匙ですくって口に含むと、どっと恐怖と疲れが胃の中に落ちてきた。
山を抉っていく土砂に道が、人が、飲み込まれていく光景。悲鳴、卑下た男たちの声、血の匂い。それらが脳裏にこびり付いて、今更になって手が震えた。
お上の命で育った故郷や親元から引き離された上に、どうしてこんな目に合うのだろう。巻き込まれた人たちにだって家族は居ただろうに、土砂に巻き込まれた彼らは遺体すら、帰ることも叶わない。
小鞠が器を下げた後、横になってみて初めて、鈴は自分が思っていた以上に疲れている事に気が付いた。少し休んだら、今度こそ何か手伝えないか聞いてみようと思いながら、ゆっくりと目蓋を下ろした。
しかしその日の昼頃から鈴は高い熱を出して寝込む羽目になってしまい、縁寿は怪我人を診る傍ら、鈴の看病もしてくれた。早速縁寿の仕事を増やしてしまったな、と痛む頭を抱えながら情けなく思う。里にいた頃は怪我こそ絶えない子供だったが、風邪ひとつ引かない健康優良児だったのに。
熱に浮かされると、精神的に弱るのか、嫌な夢ばかり見た。とくに夢に出るのは十年前、先代が身罷り国が荒れた時の事だ。鈴はまだ六つだったが、それでもよく覚えている。
最初に浮かんだのは、小鞠と玉藻の兄を抱いて茫然とする百合絵の憔悴しきった顔だった。彼は食べる物を小鞠達下の子に分け与えて、殆ど自分は食べていなかったらしい。そのせいで風邪にかかって、あっという間に高熱を出して死んでしまった。
百合絵は気付いてやれなかったと自分を酷く責めたが、里にいるものは誰も彼女を責めなかった。あの時は誰もが疲れた顔をしていた。子供たちでさえも、乳飲み子以外は皆総出で食べ物を採り、冬に備えて炭作りの木を探した。
山守として、婆さまが疲れた顔で、恙無く彼岸へ行けるようにと玉串を捧げて祈る。この辺りでは葬送が出来るのは婆さまのみだったので、そのたびに鈴を伴って出かけて行った。鈴達が葬送に駆り出されるのはその冬の始めだけでもう片手の数より多かった。
啜り泣く小鞠の手を握る玉藻はまだ五つでどうして皆が泣いているのかも理解していないようで、丸い目をきょろきょろと動かしている。
────千早振る、神より出し人の子の罷るは神に帰るなりけり。
どういう意味かと訊ねると、人の子は皆神様から生まれたから、死ねばその御霊は神様の元へ還るものだということだよと、婆さまは言った。
鈴は神様というものが、どういうものなのか知らない。けれどその時は、もうどうか彼が苦しまずに済むようにとただ神様に祈った。祈る事しか、鈴には出来なかった。
『おまえがしねばよかったのに』
鈴の後ろでそう言った里の男の子がいた。振り向いて見れば、死んだ小鞠の兄と仲の良かった男の子だった。彼は捨て子のお前が代わりに死ねばよかったのにと、泣きじゃくりながら鈴を詰った。
その子の言葉に鈴はただ謝るしかなかった。鈴も、小鞠の兄から食べ物を分けてもらったことがあったから。自分はさっき父から粥を分けて貰ったからいいのだと、その言葉を何の疑いもなく信じて。
松葉も婆さまもひどく怒ってくれた。あんなやつ、もう二度と口を聞いてはだめだと言ってくれたのが心強かった反面で、自分が死ねば小鞠の兄は助かったのだろうかとぼんやりと思った。
『どうしてきみは、ひとを助けることをあたりまえにできるの』
今度は違う男の子の声だった。鈴が助けたあの男の子だ。顔はもう思い出せない。だからなのか、洞穴に枯れ草を引いて作った寝台の上に横たわっている少年の顔の部分は影になっていて、見えなかった。
手を引いてくれた松葉よりもずっと小さくて、痩せっぽちで、今にも目を閉じたら風に飛ばされてしまいそうな子供だった。
鈴は自分の食べ物を婆さまに気付かれないように、少しずつ彼に分け与えた。小鞠の兄がしてくれたように。もしかしたら小鞠の兄が食べ物を与えてくれて、鈴を生かしてくれたのは、この子を生かすためだったのではと思ったのだ。
命を貰ったのなら、それは誰かへ、繋いで返すのが当たり前だと思った。
『くれるなら、もらっておけばいいだけなのに』
『きみはその子に、ゆるされたいの?』
ちがう。うまく言えないけれど、そうじゃないと思った。鈴は別に、自分を詰った男の子に謝ってほしいわけでも小鞠の兄に許されたいわけでもなかった。勿論目の前の男の子に、恩を着せたいわけでもなかった。そりゃあ、素っ気なくされるよりは、ありがとうと言って貰いたかったが、彼から何が欲しいわけでもなかった。
だってそもそも鈴だって、捨てられていた子供だ。国が荒廃しているこの時代に、人買いに鈴を差し出せば少なくともその冬は婆さまも松葉も飢える心配はない。縁寿ならその可能性に行き着いても不思議でもないのに、三人はそれをしなかった。ばかだね、と頭を撫でてくれた。
そんな三人に育てられた鈴が、どうして誰かを見捨てられようか。
『ひととして、あたりまえのことができるにんげんになりなさいってばあさまがいうの』
『与えられたら、だれかに与えなさいって?』
『さあ。でも、もしここであなたをほっておいたら、きっとやまがみさまにしかられるもん』
『かみさまなんていないよ』
固く暗い声だった。
でも鈴には、確信をもって神様はいると言えた。どうしてそういいきれるのかと訊ねる声に、小さな鈴は笑った。
『だってあなた、きっとやまがみさまにあいされた子よ。おがみとめがみのさいごのみこさま、りゅうのみこさまは、ゆきのかみと、いなほの目をしているってばあさまが言っていたもの』
ふと意識を浮上させて見ると、あたりは真っ暗になっていた。じんじんと目の奥が痛い。夢を見ていた気がするが、頭痛のせいか内容まではうまく思い出せない。
熱が出てからというものの、眠ったり起きたりを繰り返すばかりで今が朝なのか昼なのか夜なのか、判然としなかった。時折目が冷めた時に縁寿から粥と薬湯を貰ってまた眠るのを、何度繰り返したかも覚えていない。あたりが静寂に包まれているから、多分皆寝静まった頃なのだろうが。
『……使った後に……に触れたから、障ったんだと思う』
『それに多分……の中に……ああ、……から、……明日には……』
誰かがそばに居た。耳の中に薄い膜が張られているようにぼやけてしか聞こえないので、誰かまではわからない。
熱で潤む視界の中、誰かが前髪を掻き分けて額に触れた。既に温くなっていた手拭よりもひんやりと冷たい掌が気持ちよく、再び微睡む。話し声は途端に消えて、頭を撫でる感触は一人分だ。
「……だあれ……?」
問い掛けに、答えはない。けれど段々と鈴の熱がその人の掌の冷たさと溶けて交わり、温くなっていくのが心地良かったので、鈴は別段気にも留めなかった。ふと前に一度だけおたふく風邪で寝込んだことがあった。その時も婆さまがそうやって額に手をやって撫でてくれていた。
だから、きっとあの時の夢を見ているんだ。ううん、もしかしたら今までの事が、夢だったのかもしれない。ここは狭くて、色んなものが詰まった鈴の部屋で、婆さまがいて、小鞠と玉藻がいて、遠い地には縁寿と松葉がたまに手紙をくれる。九頭龍山の麓、鈴の育った故郷なのだろう。
「婆さま、あのね、さっき夢をみたわ」
「……どんな夢?」
「男の子の夢よ。婆さまが言ってみたいに、白い髪と稲穂の目をしていた。きっと、龍の神子さまに違いないのよ……」
口にしてみるとああそうだ、やっぱりそうだと思えてくる。あれは神様だったのだ。月黄泉様と照日奈様の十三番目に御生まれになった神子様。あの子がそうだったんだ。
助けられてよかった。きっと小鞠の兄も、彼が龍神様と黄泉を治めておられる男神・月黄泉様の元へ運んでくれただろう。よかった、よかったとしきりに呟いて、鈴はまた深い眠りに落ちた。
「……その子は、神様なんかじゃないよ。鈴」
おやすみという優しさを含んだ小さな声とその言葉は、再び夢路に旅立った鈴の耳には届いていなかった。