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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
五章 星を喰らうひと
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「千種帰ったぞー」

 屋敷に戻った守千賀がウキウキした声音で戸を潜ると、夕餉の仕込みをしていた細君は鬱陶しげに眉根を寄せた。その隣には凛音が千種の手伝いとして豆の筋取りをしている。

「うるさいのが帰ってきたわ……」

「えー!ひでぇ、お前の愛しい旦那さまだぞ⁉︎」

「でかいのよ、声が。てか声も」

「ははは!声以外だとどこがでかいって?」

「はーもうマジでうるさい黙って回れ右」

「ひっでぇ」

 そう言いながらも締まりのない顔で厨をうろうろする守千賀は、確かに邪魔そうだった。凛音は木の椅子にちんまりと座って、千種と守千賀のやり取りを困ったように見ている。

「守千賀さん、奥さんの邪魔したら悪いっすよ、ほら」

「さすが松葉くん気が利く〜ほらそこの無駄にデカいの、剣以外はまるで役に立たないんだからあっち行った行った」

 守千賀は「槍も使えるぞ!」と訴えるが「うるさい」と一蹴されるだけだった。結局しっしっと犬の子を追い払うように厨を追い出されて、彼は厨の前でしょんぼりと肩を落とした。

「数日振りにあった奥さんが俺にだけ冷たい……」

「仕込みに忙しいんすよ。きっと今日の夕餉は守千賀さんの好物ばっかっすよ」

「あ、やっぱり?はあ〜そういうとこまじ俺の嫁さん超可愛い」

 厨の方からダン!とまな板に何かを叩きつけた音が聞こえた。それに守千賀はにんまりと笑っている。この男の鋼の精神は一体なんなのだろうか。

「んじゃ俺夕餉まで一眠りするから、松葉も休めよ」

「はい、お疲れ様でした」

 ひらひらと手を振って自室に戻っていく守千賀を見送って、松葉はうんと伸びをして、空を見た。鈍色の雲のかかった空は今にも降り出しそうだ。

「……」

 少しだけ考えて、松葉はそのまま北の棟へ足を向けた。屋根には濡羽色の鴉がじっとこちらを見ており、()に「入っていいか?」と訊ねると「カア!」と短く鳴いた。

 戸を開けると、しんとした空気が松葉を拒むようにあった。自分の足音だけがやけに大きく響くような気がして、出来るだけ静かに足を運ぶ。

 凛音が言うには、彼女はいつも二階の露台のある部屋で一日を過ごしているらしい。

(……ここか?)

 こんこんと戸を叩く。返事はない。人の気配はあった。

「鈴、俺だ。入っていいか?」

 声を掛けてみるも、やはりこれにも返事はなかった。人が身動ぎする音もしない。鐘鈴のりいんという音と自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。

「……入るぞ」

 戸を開けると、二間ある内の奥の部屋に、少女はいた。出窓に拵えられた長椅子に凭れ掛かるように座っている彼女は、じっと窓の外を見つめている。松葉が島を出て本島へ出る時は寝台からろくに動こうとしなかった。ここへ連れて来たのは凛音か、千種だろうか。

「鈴、ただいま。帰ったぞ」

「…………」

「あのさ、千種さんたちが心配してるぞ。お前、全然飯食ってないんだって?ダメじゃん、お前あんなに食べるの好きだったろ?千種さんの飯美味いから食ってみろよ、なあ、鈴」

「…………」

「……ッ」

 歩み寄って、何の反応も示さない鈴の肩を掴む。この数日で、また更に痩せたように見えた。掴んだ肩も薄くて、頼りなくて、顔色も真っ白で、色の違う瞳は何も映さない。

 ────あれは生きてるって言えるのかい?

(俺たちが選んだ道は間違っていたのか?)

 鈴に生きて欲しかった。だって、たった一人の妹だ。血の繋がりなんて関係ない。そんなもの、何の意味もないことなんて松葉が一番知ってる。

 茅羽夜を見殺しにして、縁寿と対立してでも、松葉は彼女の命を選んだ。

 それなのに、今、彼女は緩やかに死に向かっている。幽世へ引き寄せられるように、ゆっくりと。

「なあ、鈴、どうやったら許してくれるんだ。俺、お前に何をすればいい?」

 どう赦しを乞えば、お前は元に戻ってくれるのだろう。

「……して」

「え?」

 微かな声に松葉は眼下の少女を見た。鈴は虚ろな瞳を真っ直ぐと松葉に向けている。

「なら、わたしに茅羽夜を返して」

 心臓を矢で穿たれたような痛みが、全身に走った。ぐらぐらと視界が回るような錯覚と、喉に張り付いた言葉。まるで何か、別の誰かにぎりぎりと掴まれているような感覚が指先を痺れさせる。

「りん」

「みんな言うのよ。茅羽夜が命を賭してまでお前を助けたんだから生きろって。あいつの命を無駄にするなって。こんなの茅羽夜は望んでないって。……ふざけないでよ。わかってるわ、そんなこと、わたしが一番よくわかってる。でも、でもそんな勝手が許されるなら、わたしだってしてもいいじゃない」

 全身を刺すような慟哭だった。松葉の腕を掴んでいる指は弱々しく、けれどひどく、痛かった。

「かえして、かえしてよ、ねえ、わたしにあなたを返して。こんなのひどい、わたしたちこんな結末を迎えるためにあの日出逢ったの?妃になってくれって、あなたが言ったんじゃない。どうしてもわたしが欲しかったから、迎えに来たって言ったじゃない。それなのに、こんな簡単に手放さないでよ!」

 少女は泣かない。こんなに、痛くて、辛くて、苦しいのに、涙を流さない。それがかえって、松葉には泣いているように見えた。鈴の言葉は目の前の松葉に向かって言っているわけじゃなく、ここにいない彼への叫びだった。

「────あなたのいない世界で、どうやってわらえばいいのか、もうわからない……」

(ああ、茅羽夜。俺たちはわかっていなかったんだ)

 鈴なら大丈夫。そう根拠もなく思っていた。彼女なら、きっと怒って、泣いて、痛みながらも前へ進んでくれるだろう。そう思っていた。ばかだ。本当に、誰もみんな、彼女のことを何もわかっていなかった。

(鈴は、ただの十六歳の女の子だ)

 わかっていたはずだった。それなのに、勝手な理想を押し付けて、追い詰めた。

「ごめん」

「…………」

「ごめん鈴、ごめんな……」

 ────それでも俺は、お前に生きて欲しいよ。

 それは、それでも赦しを乞う、自分勝手な言葉だった。鈴の慟哭を聞いてもなお、松葉は彼女に「生きて」と願う。

「……出て行って」

 弱々しく、鈴は松葉を押し返した。そしてそれきり、また窓の外を見つめるだけの物言わぬ人形に戻ってしまった。

 松葉は静かに部屋を出た。するとすぐ戸の側にいた、小さな影と目が合う。凛音は松葉に気がつくと、あからさまに気まずそうに目を伏せた。

「あ……あの、ごめんなさい。立ち聞きするつもりじゃ……」

「いやこっちこそごめんな、びっくりさせたよな」

 ふるふると首を振る少女の手にはふっくらとした饅頭が乗っているお盆があり、お茶の柔らかな香りが、ふと春殿で大好きな二人が笑っていた頃を思い出して目の奥がじんと痺れた。情けない。妹が泣けていないのに、大の大人が泣きたくなるなんて。

「はは、ごめんな、頼りない兄ちゃんで。ほんと、これでも凛音の倍は生きてるんだけどな……」

 その場に蹲み込んで、膝の間に顔を下げた。頭を下にすると、涙というのはどんどんと溢れてしまって、しくったなと思った。一度溢れると、それは止め処なく落ちていく。

(本当に辛いのは、あいつなのに)

 何もしてやれないなんて、兄として失格だ。こう言う時、縁寿ならどうするだろうと考えてすぐにやめた。彼は、彼も、少女の心に深い傷を付けた。

(情けねぇ……俺たち兄二人もいて、どっちもあいつを傷付けるしか出来なかった)

 味方だと、一体どの口が言ったのだ。行き場のない思いをぶつけるように、がしがしと頭を掻き毟る。

「松葉お兄ちゃん……あ、あのね、人って体の殆どが水で出来てるの知ってる?」

「え、いや……?」

 不意に凛音が励ますように言った。何が言いたいのかよく分からず続きを待っていると、頭の上で一生懸命、言葉を探している気配が伝わってくる。

「えっとね、人って殆ど水で出来てるんだけど、悲しいと涙が出るでしょう?それってね、体の中の水を巡らせるためなんだって。辛いとか痛いとか苦しいとか、嬉しいとか、そういう気持ちを涙として出して、新しい水を作るの。澱んで心が腐ってしまわないように巡って、廻って、そうして人って生きていくんだって」

 だからね、と凛音は言葉を紡ぐ。

「お姉ちゃんは今、泣けないから辛い気持ちを全部抱えたままなんだと思う。その気持ちごとその人から貰った傷を抱えて……きっとこのままじゃ心が壊死してしまう」

 顔をあげると、凛音はきゅっと唇を結んで強い瞳で扉を見つめていた。

「わたし、わたしも。出雲さまが始めたことなら、わたしも逃げちゃだめなんだ」

 

 

 静かな部屋の前に凛音は一人で立っていた。あたりはもう暗く、本当はもっと早くに行くつもりだったのだが、千種の手伝いをしていたら何やかんやこんな時間になってしまった。部屋の主は寝てしまっているかもしれない。約束しているわけではないから、明日に改めた方がいいだろうかと思いながら迷っていると不意に扉が開いて、瑠璃色の瞳が凛音を見た。

「あれま、何か居ると思ったら小さなお姫ちゃんだ。僕に何か用?」

「……あなたに、お願いがあって来ました」

「へえ、出雲様の仇の僕に?」

 この人は綺麗な顔して中身はとんでもなく意地悪だ。ぐっと唇を噛んで凛音は顎を上げる。

「わたし、本当は全部、知ってるんです。出雲さまが、何をしようとしていたか」

「……」

「わたし……わたしはあの時、あの石像の眼を通して全部見てました」

 凛音はあのお堂にいた子供の中で一番力が強かった。そして一番、魂の色が()に近かった。

 だから出雲は凛音を巫女に据えて、少しずつ、体の中の水を全部海水に入れ替えるみたいにして、凛音の中に龍脈の霊力を貯めて行った。

 人の体の殆どは水で出来てる。

 けれど凛音の体は少し違う。凛音の体は、あの龍と同じもので満ちている。

 ───そう、だから、あの地震を起こしたのは凛音だった。

 凛音の感情の揺れがあの地震を起こしたのだ。もしも鈴の大切な人が、あの地震が原因で亡くなってしまったのなら出雲だけでなく、凛音の罪でもある。

「出雲さまのこと、わたし今でも大好きです。利用する為だったとしても、優しくして貰ったことが全部なくなったりしないもの。だから、わたしはあなたが嫌い。それ以上に、わたしは、何も出来ない自分が嫌い」

「……だからなに?真怠っこい言い方やめて簡潔にどうぞ」

「────わたしに巫術を教えて欲しいの」

 意を決して告げると、青年は眼をほんの少し意外そうに見開いた。

 凛音は器として声を聞くだけの者だった。だから出雲は凛音に術を教えなかったのだ。

「……これはまた随分身勝手なお願いだね、僕に何の得があるの?」

「あなたが言ったんでしょう、無抵抗で殺されるつもりはないって。だから、この島で一番強いあなたに師事してもらおうと思って。それに、わたしずっと出雲さまのとこにいたの」

「それが?」

「出雲さまの術、あなたのとよく似ているから」

「!」

 彼の属性は土と風、それから水。出雲は炎だ。属性はまるっきり違う。でも、術の組み方や癖、根源は良く似通っていた。同じ材料を渡して、似た過程で、違う料理を作るようなものだと凛音は勝手に解釈している。

 それはきっと、血によって受け継がれてきたもの。

「だからあなたに教わるのが一番良いと思ったの。わたし、あと数年もしたらきっと役に立つ術者になるよ。そうなったらあなたなんて簡単にぷちってしちゃうけど、教えてくれるなら考えてあげてもいいよ。お師匠さま割引で」

「…………ふ、くくく、ふふ、はは!」

 扉に凭れかかったまま、気怠そうに凛音を見下ろしていた青年は口元に手をやったかと思えば突然体を折って笑い出した。

「ま、まさかそんな、ふふ、将来命乞いを聞いてあげるから教えろなんて、ははは!君、面白過ぎない?お師匠さま割引はさすがの僕も考えつかなかったよ」

「良い案だと思ったんだけど……」

「僕が死にたがりだったらどうするの?」

「それならあなたを殺せる術者になって責任持ってあなたを殺してあげるから教えてって頼むわ」

「ははははは!だめ。もうお腹痛いむり」

 くっくっくと喉の奥を鳴らして、彼はひたすら笑い続けた。こんなに大きな声で笑える人だったんだ、と凛音も眼を丸めて、段々咽せ始めた青年の背中を撫でる。ツボに入ると延々と笑い続ける人らしい。

(そういえば出雲さまも、変なツボに入った時ずっと笑ってたな)

 そう思うと、やっぱりこの人に教わりたいと思った。殺す殺さないは、置いておいて。

「はーこんなに爆笑したのは本当に久々だよ、これは一本取られたなあ」

「なら教えてくれる?」

「え?普通にやだよ」

「えーー!?」

 思いの外大きな声が出た、凛音の声に、彼はまた何かがおかしかったのか笑い出す。さっきまでは烟る霧雨みたいな冷たい眼差しだったのに、今じゃ笑い袋みたいになっている。

「教えるの面倒だもん。生憎僕は忙しいから部屋にいることが少ないし」

「…………」

「まあでも、部屋の鍵はいつでも開いてるから、君が本棚の整理に来たいって言うなら止めないよ?」

「!」

 ぱっと顔を上げると、青年は少しだけ愉しむような瞳で少女を見ている。新しい玩具を見つけたような、それでいて、どこか慈しむような。血の通った瑠璃色の瞳。

 その瞳の色を、凛音は知っている。

「……ねえ、そうだ。あなたの名前を聞いていなかったわ」

「あの地下で聞いてたなら知ってるんじゃないの?」

「違うわ、今の名前よ。あなたが今、ここに生きている名前」

 ちょっと面倒くさそうな顔をして、けれど少しだけ嬉しそうに青年は自分の名を告げる。

「良い名前ね、月日星つきひほしと鳴く鳥の名前だわ」

「……うん。僕も気に入ってるんだ、この名前。でも凛音もとても良い名前だと思うよ」

 その言葉に、凛音は笑った。

 

「あなたのお兄さまに貰った名前だもの」

 


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