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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
五章 星を喰らうひと
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 朝起きて、まず一番にやることは水盆に沈められた石の色を見ることだった。玻璃で出来た丸い水盆の中にはいつも透き通った水が張られており、この水を取り替えるのも、凛音の仕事だった。

 雀たちの声に瞼を擦りながら、寝台を降りてぱたぱたと水盆を覗く。底で揺蕩うように転がっている星石の色は、光の加減によって青にも紫にも見える。今日はどちらかと言えば紫色が濃く、凛音はひとつ頷いて、屋敷の裏手にある井戸へ向かう。

 桶を持って井戸に走り寄ると、既に先客がいた。

「あら。おはよう、凛音。今日も良き陽ですね」

「はい!おはようございます、千種さま!」

 井戸に居たのは頭の天辺で黒に近い灰髪を結い上げた女性、千種だった。女性にしては背の高い彼女は、どんな時もしゃんと背筋を伸ばしているので、どこか冬の朝みたいな印象を受ける。

 彼女は凛音が住んでいる部屋の隣に住んでおり、守千賀の細君だった。彼ら夫婦にはまだ子が居らず、凛音のことも我が子のように可愛がってくれて、凛音はすぐに千種が大好きになった。

「朝餉がもうすぐ出来るから、今日もお願いしていいかしら」

「もちろん!」

「ありがとう。なら、水換えが終わったらお願いね」

「うん!」

 凛音の桶にも水を注いで貰い、凛音はそうっと歩く。以前、寝坊した日に慌てて桶を持ったまま走って、ひっくり返してからどんなに急いでいてもしっかり歩くようにしていた。

 無事に水盆の水を取り替えて、凛音は着替えてから厨へ向かう。千種は既に膳を整えており、朝餉のいい匂いにすんすんと鼻を鳴らすと、ぐうっとお腹が空腹を訴えた。

「今日の朝ごはんなあに?」

「鶏粥と蒸餅パンよ」

「わあい!千種さまの鶏粥大好き!」

 牛の乳に乾酪と鶏肉を煮込んで作る千種の粥に初めは戸惑ったものの、既に凛音の大好物のひとつとなっている。この汁にふっくらとした蒸餅パンを浸して食べるのも、また格別に美味しいのだった。

「はい、じゃあこれお願いね」

「うん!」

 木の盆に粥の入った器と匙を乗せて、北奥の部屋へ向かう。凛音たちの住んでいる棟は四方を壁に囲まれた長方形の形になっており、それぞれ東西南北で棟が建っている。それぞれの棟は独立しており、別の棟へ行くには外廊を渡るのだ。

 途中、鴉の鳴き声が聞こえて、凛音は空を見た。今向かっている北の東の瑠璃瓦に、自分の背丈程もある鴉が留まっている。

「紗々おはよー」

「カア!カアア!」

「うんうん、あとで紗々にもちゃんとご飯あげるからね」

 それに紗々は満足げにもう一度「カア!」と鳴いた。凛音は一度盆を置いて、北奥の桟唐戸を開けてそっと中を覗く。室内はまだ依然暗く、凛音は盆を卓に置くとすぐに板硝子の嵌まった窓を開いた。峠を越したとは言え、まだ冬の空気は少し冷たく、ふるりと体を震わせる。

 北の棟の中で一番豪奢な寝台を覗いてみるが、ふかふかの布団は昨夜に凛音が整えたままで乱れた様子はない。それならと、凛音が向かったのはこの棟の二階の露台のある部屋だ。

(……いた)

 露台に面した出窓はその部分が長椅子のようになっており、洋座布団クッションを背もたれにして、その姿はあった。

 紗々の羽と同じ色の夜空の髪を結いもせず背中に流し、昨日千種と凛音が着せた寝間着のまま、彼女はぼんやりと外を見ていた。膝には一応毛布が掛けられており、これは恐らく千種が持ってきたものだろう。

「おはよう、今日もいい朝だね」

 返事はない。瞼は開いているので、彼女が金魚みたいに目を開けたまま眠るわけでないなら、起きているということになる。

「今日は千種さまが鶏粥を作ってくれたよ。これすごく美味しいんだ。だから、ちょっとくらい、食べてみない?」

「…………」

 返事はない。彼女は依然と外を見つめたままだ。

「ねえ……鈴お姉ちゃん、昨日も全然食べてなかったじゃない。もう二月くらい、ちゃんとしたご飯、食べてないでしょう?何なら食べれそうかな。言ってくれたら、千種さまがきっと作ってくれるよ」

「…………」

「それとも点心おやつのほうがいいかな⁉︎お姉ちゃん、甘いもの好きだって聞いたよ。あのね、こないだ揚麺麭あげパンっていうお菓子の作り方を教えて貰ったの!中に蓮餡を入れて、油で揚げて砂糖をまぶすのよ。すごく美味しいの!ね、だから……」

 じわりと、声に涙が滲む。ごしごしと拭って、凛音は靴を脱いでただ窓辺に寄り添う少女────鈴の隣に膝を抱いて座った。

 露台の向こうには、朝靄にけぶる島が見える。とてもじゃないが泳いで渡れる距離ではなく、船であっても、この島を取り巻く渦潮に阻まれて辿り着けない。それに守千賀曰く、この島自体に術が掛けられているので、向こうからは見えないのだそうだ。

 彼女はずっとあの遠い場所を見つめていた。朝も昼も夜も。

 あれは、鈴と凛音が生まれた国。

 そしてきっともう、二度と帰れない場所。

「……ねえ、鈴お姉ちゃん。起きて、凛音とまたお話してよ……さみしいよ」

 菫色と晴れた日の海と同じ色をしたふたつの瞳は、その懇願にも揺れることはなく、ただ置き去りにされた過去ばかりを見つめていた。

 

 

 洗濯物を干す千種を手伝っていると表のほうが随分と騒がしいのに気が付いて、凛音は籠を片付けるついでに覗きに行く。すると見覚えのある顔がちょうど荷台から荷物を下ろしているところだった。

「守千賀さま、松葉お兄ちゃん!おかえりなさい!」

「お、凛音か!ただいま、元気そうだな」

「はい!」

 駆け寄ってすぐに守千賀の大きな手にがしがしと撫でられて、凛音はくすぐったさに首を竦めた。守千賀は妻の千種と共に、ここでは凛音の保護者となってくれているため、今では半分父親のような存在となっていた。

「鈴の様子はどうだ?」

 荷を下ろしながら松葉が問い掛ける。それに凛音は顔を曇らせて首を横へ振った。松葉も守千賀も、凛音の表情から自分たちが島を出る前と何ら変わっていないことを悟って、小さく息を吐く。

「ご飯もあまり食べてくれなくて……」

「そうか」

「ねえ、お姉ちゃん何とか出来ないかな。このままじゃ……」

「そうだな、俺たちこれから長の方へ報告に行くから、何とか出来ないか話し合ってくるよ。凛音は千種と一緒にこれ片付けて待っててくれるか?」

 凛音が頷くと守千賀はまた小さな頭を撫でて長の屋敷がある方へ歩いて行った。

 守千賀と松葉は定期的に数日間、本島へ渡る。

 何の為に行くのか、凛音は知らない。けれどそのたびに反物や種芋などを持って帰ってくるので、島の人たちからは頼りにされているようだった。島を取り巻く渦潮は侵入者を拒む為にこの島の「神様」が作っており、彼らの行く先を拒むものではないのだという。

 この島はあちこちに、今も神様の息遣いを感じる事が出来る。

 竈門の火に、井戸の水に、森の囁きに、海の底に。あちらこちらに、豊都では感じたことのない見えない力が働いている。彼らの姿は見えないけれど、人々は彼らに日々感謝し、慎ましやかに暮らしていた。

 凛音たちがこの島へ来て、二月。季節は新年を迎え、如月へ入った。この島が東和のどのあたりにあるのか凛音にはわからないが、中庭には梅の蕾が膨らみつつある。あと一月もすれば風も柔らかく、新芽も萌え出る季節となるだろう。

 それでも、鈴の心は今も凍て付いたまま。

「カアー!」

「わっ!もう、紗々!荷物荒らしちゃだめだよ!」

「クワッカァ!」

「え?なに?荒らしてない?運ぶの手伝ってくれるって?」

「カア」

「え〜でも結構重いよ?大丈夫なの?」

 任せろというように羽をばたつかせる紗々に、凛音は笑う。はっきりとした言語で聞こえるわけじゃないが、凛音には彼女の伝えたい言葉がなんとなくわかる。

 それは、豊都で暮らしていた時に出雲による「実験」の結果であると、凛音は聞かされていた。

 この島に連れて来られた時、凛音はたくさんの選択を迫られることになった。

 自分が神への供物として育てられていたこと。それが全て、出雲と国の偉い人が企てたこと。出雲の死。

『彼を殺したのは僕だ。君は僕を恨む権利があるし、これからどうしたいかは君自身が決めなさい』

 そう告げたとても美しい人の顔が脳裏に浮かぶ。

(自分が、どうしたいか)

 わからない。凛音は、出雲が大好きだった。彼が死んだと聞かされて、三日三晩泣き続けたし、今も思い出すだけでじわりとした喪失感が胸に隙間風のように吹き込んでくる。

 出雲を殺した美しい人のことは未だに許せない。殺せるのならば、殺してやりたいとさえ思う。しかし彼は「恨む権利はある」と言ったが、凛音に「無抵抗に殺されてやる道理はない」とも言った。殺したいなら、それなりになっておいで、ということらしい。

 だから、凛音はここの暮らしを選んだ。

 袂をわかったとはいえ、自分たちの一族による不始末である為、島の長は凛音が望むならここでの不自由ない暮らしを約束してくれた。

(どうせ、あっちに帰っても誰もいないもん……)

 両親は死んだ。他に親類がいるかどうかもわからない。ならここに残ったほうが、生きるには困らない。心残りがあるとすれば、幼馴染みの男の子にもう二度と会えないことくらいだ。

 それに、千種や守千賀を始めとした彼らのことを、凛音はどうしても憎みきれなかった。それは、鈴のこともそうだ。

 大切な人を失った。その辛さを、凛音は知っている。

(はやく元気になってほしいな……)

 そう思いながら、凛音は紗々と一緒に千種を呼びに行った。

 

 

 島の高台にある大きな屋敷の、一番奥まった一室へ続く回廊を守千賀と松葉は揃って歩いていた。広い屋敷なのに相変わらず人気は全くなく、漣と風もないのに鳴る鐘鈴の音だけが響いている。

「守千賀と松葉です。只今戻りました」

「入れ」

「失礼します」

 扉を開けて入ると、甘い香の匂いがした。毛氈の上にはすでに見知った顔が三人めいめいに座っており、一番手前に座っていた青幡の隣に、ふたりも腰を下ろした。

「あちらはどうじゃった」

「先帝崩御の時よりはマシってとこですね。でも京都は完全に斎王派に落ちました。陛下は投獄、妃たちもそれぞれ蟄居中だそうです。この根回しの良さは流石としか言いようがないですよ」

 守千賀の言葉に長は苦虫を百程噛み潰した顔をした。

 十二国の一件から既に二月。

 斎王である真陽瑠はあの白浬教の一件を、海真教の生き残りの仕業であると公表した。白浬教の教祖である出雲を暗殺され、更に地震が原因での出火はその生き残りの者たちによるものと明かされ、十二国の民は憤った。

 更に十一国、十市原家当主である狭霧は、海真教と奈月彦が通じていると流布し、八年前の暴動も他の皇子を亡き者にする為に企てたとして投獄し、東宮である夕凪宮を即位させるよう働きかけている。未だ奈月彦が処刑されたと聞かないのは、いざという時の保険だろう。

「へえ。つまり、若宮くんはまだ一応生きているんだ」

「だろうな。裏付けるように、斎王は海真教の残党に攫われたとされる妃殿下の行方を追っているって話だ」

「あの場に斎王がいたからには、暴走状態の若宮くんを一時的に鎮めて連れ帰るくらいはするだろうと思ってたけど……ここまで清々しく濡れ衣着せられてるのってちょっと面白いよね」

「笑い話じゃないぞ、三光」

 深い溜息を吐く長に、瑠璃色の瞳を細めて麗しの青年は胡座の上に頬杖を付いた。この場でこれ程崩した態度を取れるのは、彼が顎龍山の由緒正しき山守の裔であるが故だ。

「若宮くんはあの時の火事で重傷、今上帝は投獄、故に今は斎王が政の実権を握ってるって話じゃない?すごいよね彼女、面の皮の厚さを採寸してみたいよ」

「斎王は諦めきれないんだろう。皇子殿の命はいつ尽きるかわからぬが、このままいけば確実に死ぬからな」

「……」

 彼の魂が焼き切れるのは明日か、はたまた数年後か。それは誰にもわからない。まさに神のみぞ知るだ。

 だが本島の問題に関して、こちらは一切関与するつもりはない。元々、自分たちを裏切り、追いやった者たちだ。彼らがこちらに罪を被せるのなら尚更救ってやる義理はない。

「……問題は姫宮だな。まだまともに食事も摂れぬか」

 それまで黙っていた青幡は沈痛な面持ちで首を横へ振る。彼女はこの二月、ほとんどまともな食事をとっていない。それでも辛うじて千種が柔らかい粥などを無理やり食べさせているが、それもいずれ限界が来る。

「若宮くんが死ぬより先に姫宮の方が衰弱死する方が早そうだね」

「三光!」

「事実だろう。夜も殆ど寝てないらしいし、食事もとらない。あれは生きてるって言えるのかい?」

「仕方ないだろう……彼女の心の傷は俺たちでは無理だ」

「ま、そりゃそうだ。姫さんからしたら、俺らはあいつを見殺しにした側の人間だしな。でもよ、さすがに姫さんをこのままにしておくのはあいつも安心出来ないだろ」

 そういう守千賀にとっても、茅羽夜は異母とはいえ弟であり甥だろうが、幼い頃特別交流があったわけでもない。だが一人の人間が命を賭けたというのに、このまま衰弱死されるのは筋が通らないとは思っていた。

「んー、でも姫宮からしたらこのまま生きてても辛いだけじゃない?生きてほしいなんてのはさ、若宮くんと僕らの押し付けなわけだし、結局決めるのは彼女でしょ」

「お前はアイツに死んで欲しいのか」

「やだなぁ松葉ったら、そんなこと一言も言ってないじゃないか。僕は常に可愛い子の味方だからね!ただ結局生きようとしてない人間にあれこれしても無駄じゃない?って言ってるだけ」

「…………」

「結局さ、姫宮は逃げてるんだ。でもそれを僕は悪いとは思わない。誰の命の上に成り立っていても、死ぬも生きるも彼女の自由であるべきだろう?」

 三光はゆるりとした笑みを浮かべて、指先だけで編んだ髪を弄る。片手に持っている珊瑚色の翳は、以前に守千賀が巫女に献上したものだ。それを持っていても咎められないということが、彼のこの場における立場を表しているようだった。

「俺は、あいつを死なせたくないから守千賀様の手を取った……旧知だった茅羽夜を裏切ってまで」

「そうだね、まぁでも結果的に彼自身が望んだわけだから裏切ったわけじゃないけど」

 花嫁行列の時から松葉と青幡は口裏を合わせており、小鞠の救出が速かったのもその為だ。しかしこれを裏切りと呼ぶには、あの時と今では状況が違う。

 あの時松葉が小鞠に着くように言ったのは縁寿だった。思えばあの時から彼は彼で、別の思惑があって動いていたのだろう。

 旧知である彼を裏切ってまで、松葉は妹の命を取った。

 それなのに、これでは、意味が無い。

「……俺は、あいつに生きて欲しいよ」

「それ、僕に言ったって意味ないよね。本人に言えば?」

「三光」

 玲瓏な声に、呼ばれた青年だけでなくその場にいた誰もがその少女を仰ぎ見た。

 部屋の上座は薄絹とこの島に伝わる紋様を織った布が天井から御簾のように下げられ、その奥にひとりの少女が鎮座していた。ちょうどは凛音と同じ年頃の少女はいつもの巫女としての真っ白なものではなく、薄桃色の娘らしい襦裙を纏っている。陽射しを浴びて輝く白い髪を牡丹を模した花簪と歩揺で束ね、柔らかい洋座布団に囲まれて、少し困ったようにすぐ下にいる三光を嗜める。

「松葉さまをあまり虐めてあげないで下さい」

「はいはい、我が姫の仰せの通りに」

「もう。松葉さま、ごめんなさいね。この人いつもこうなの」

「いえ……」

 巫女としての彼女は厳かで神秘的な雰囲気のある少女だが、普段はおっとりとした年相応の子供だった。だが物言いや態度は、民の期待を一身に背負ってきたせいか、凛音たちよりはずっと大人びていた。

「松葉さま。わたくしも、姫宮にはどうか健やかにいて頂きたく思います。我ら鏡月の一族は、かの花嫁の血筋である鈴さまの身の安全と健康が第一です。その為ならば、何も惜しむものなどございません」

 黄金の瞳を気怠げに伏せて、少女は嘆息する。その艶は十を超えて数年の少女が出していいものではないだろうと思うくらいだ。

 松葉はこの少女のことを、この里の巫女であるということしか知らない。外見からして凛音と同い年くらいだろうと勝手に思っているだけで、実際の年齢もわからない。この島へ上陸を許されたのは、ほんの一年のことだ。

 だが彼女の、何もかもを見透かしたような黄金の瞳が時々恐ろしくなる。

「ここ最近、ずっとあちこち行かされて、お疲れでしょう?数日は姫宮の側にいて差し上げて下さいませ。守千賀さま、千種に部屋を用意させてあります。お二人とも、今日はもうお下がりなさい」

「お心遣い感謝致します」

 礼を取り、松葉と守千賀はそのまま退出した。


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