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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
四章 見果てぬ空へ
84/114

十六

「────茅羽夜」

 その名を呼ぶと彼は鈴を見て、柔らかく微笑んだ。どきりと、胸の奥が軋む。優しい顔なのに、どうしてかその瞳は昏い気がした。

 彼は軽く跳び上がり、鈴の隣に立つとそっと手を差し伸べて手を取った。そしてそのまま、出雲の方へ向き直る。

「白浬教の導師殿。名は」

「出雲でも海音でも、どれでもお好きなのを。生まれ持った名は既に捨てましたので」

「では出雲殿。そなたは私の父と懇意にしていたと聞いている」

「ええ。先帝には随分と良くして頂きました」

「そなたがどのような試みをしていたのか、そなたの裏に誰がいるのか、私は問わない。はっきり言って興味がない」

(え、ええ……)

 東宮としては大問題発言だが、茅羽夜らしいと言えば茅羽夜らしい一言だった。

「どちらにせよ、私の中の皇の血は濃い。神龍の器だとか何だとかは、そこにそなたが手を加えただけのこと。どちらにせよ、鈴を喰らわねば、やがて身を焦がして死ぬんだろう」

「────」

 知っていたのか。鈴が、死ぬ為に嫁がされてきたことを。

(……知っていたから優しくしてくれたの?)

 なんだ、そうだったのか。それなのに舞い上がって一喜一憂して、なんだか酷く惨めだった。苛立ちにも似たそれがお腹の底から湧き上がって、握り込まれた手を振り払おうとしたが固い掌はびくともしない。 

 どうして。

 どうして、離してくれないの。


「ひとつだけ問いたい。皇の祖が奪った陽の双玉はどこにある?」

「そこに」

 出雲は真っ直ぐ茅羽夜を指差している。それに彼は「そうか」とだけ言った。そのやりとりの意味が分からない鈴は、ただ事の成り行きを見ているしか出来なかった。

「……やはりあの人が噛んでいたか」

「……?」

 ふっと茅羽夜は笑った。まるで憑物が落ちたような、晴々とした笑みだ。

 心臓を何かに握られたような不安に、鈴は思わず空いていた方の手で茅羽夜の衣を握っていた。さっきまで裏切られたという気持ちでいっぱいだったのに、どうしてか、目の前の彼が今にも消えてしまいそうで、怖くなる。

 だってこの人は。

(そうだ、泣いてくれた)

 夢から目を覚ました時、彼は泣いていた。何日も付きっきりで、ずっとそばにいてくれた。鈴の命が彼を生かす為の薪ならば、あの時そのまま殺しても良かったはずだ。

 この人はそんな器用な人じゃない。一瞬でも疑った自分が恥ずかしかった。

(わたし、何迷ってたんだろう)

 共に生きる道を探す。あの時の言葉が、自分にとって嘘じゃないなら。


「悪いが、そなたらの言いなりになるつもりは毛頭ない。私の妃は返してもらうぞ。風早!」

「!」

 いつの間に降りてきていたのか、白刃の煌めきが影から滑り出た。キン!という金属音が聞こえたかと思えば、すぐに浮遊感が襲ってくる。

「わあ⁉︎」

「しっかり掴まっててくれ、松葉、先陣を頼む」

「任せろ」

 片手で鈴を抱き上げた茅羽夜はそのまま階段を駆け上がった。鈴は振り落とされないように茅羽夜の首にしがみ付く。

 出口に着き、地上に出ると暗闇に慣れていた目が眩んだ。数回瞬いて、見えてきた光景に、鈴は呆然とした。中庭にはすでに武装した兵士が詰めており、その最前に見覚えのある少女が二人立っていた。

「……和水?」

「ご機嫌麗しゅうございます、妃殿下。殿下も、どうぞ大人しくなさって? でないと巫女様の肌に、これが当たってしまいますもの」

 巫女様と言いながら、凛音の首に当てられた短剣がきらりと光る。鈴は息を呑んだ。そうだった、彼女は白浬教の信者だ。でもならどうして?

「……その子は大事な器の一つなんでしょう、傷付けるのはまずいんじゃない?」

「ええ、ですが彼女の代わりくらいならいくらでも造れます。殿下と依代の同化さえ済ませてしまえば、あとはどうとでもなるのです。それにそちらはたった四人。この兵を相手に、突破出来ます?」

「ひとつ聞くが、これは十市原家の意思と取って差し支えないか?」

 十市原家。隣国の十一国を統治する国長の一族だ。当主の名は確か、狭霧だったか。和水はその言葉を待っていたかのように一歩踏み出し、高らかに声を張り上げた。

「ええ。我が十市原家は貴方様を正式に主君と認め、東和葦原全てを統べるに相応しい御方であることを、ここに提言致します」

「……は?」

 何を言っているのか、全く理解出来なかった。それはつまり、奈月彦を降ろして、茅羽夜が帝になるに値すると言っているのだろうか。しかもこの緊迫した状況で?

(いや、そうかこの状況だからか……)

 白浬教は国を塗り替えるつもりなのだ。神祖との同化をもってして。どうして奈月彦と茅羽夜が不仲のように言われてるのかと考えた時に仮定として危惧していたことが現実となってしまった。頭が痛い。現実的にも比喩的にも。

「なんかもう、これ以上事態をややこしくしないで欲しい……」

「同感だな。十市原家の姫、私はそなたらの期待に添うことは出来ない。今すぐその娘を解放し、そこを通せ」

「いいえ成りません。これはわたくし共だけの意思ではないのですから」

「どうせそなたらの後ろにいるのは斎王だろう」

「は……!?」

 何故そこで真陽瑠の名前が出るのだろう。真陽瑠は奈月彦の斎王だ。彼が退けば彼女も今の地位を降りねばならない。一体何の益があって?

 本当にもう、何から何までわけがわからない。誰か一から説明してくれと叫びたい気持ちだった。

「さすが殿下です。御慧眼、誠に感服いたしました。けれど、こちらはどうでしょう?」

 和水はそう言って背後に視線を向ける。茅羽夜に抱き抱えられたままの鈴は、その兵達の後方にいるその人物に、思わず目を見張った。

「うそ、なんで……」

「……」

 そこにいたのは、縁寿だった。凛音のように脅されているわけでも拘束されているわけでもなく、これには流石に茅羽夜も驚いたらしく、小さく息を呑むのが聞こえた。混乱するまま前に立つ松葉をちらりと見るも、鈴から彼の表情までは見えなかった。

「松兄……」

 声を掛けようとした時、松葉はすぐ側にある柱を思いっきり殴り付けた。ガン!という大きな音に、思わず肩を震わせる。

 彼は落ち着いていた。けれどただ、一言。

「なあ、縁兄。正気か?」

「ええ勿論。私の、そして九条家の意思です」

「そーかよ。……なら、俺らはここで兄弟の縁を切ることになるな」

「……ッ!」

 どうして、何で、どういうこと?

 聞きたいことは山ほどあるのに、うまく言葉が出ない。

 これが九条家の意思なら、つまりそれは空鷹は初めから白浬教に通じていたのか?

 でも、そうだ、九条家は元々茅羽夜を擁立したい一派の筆頭だ。表立って対立したいわけではないと、縁寿から聞かされていた。白浬教が神祖として茅羽夜を帝に推すならば、彼らは利害が一致している。

 でもそれは即ち、鈴の死の上に成り立つものだ。

 いいや鈴だけじゃない。鈴の命は茅羽夜の血を鎮めるために使われるもので、彼と神祖との同化にはまた別の贄が必要になる。その為に、彼は千歳たちを造っていたのだろう。そのことも、すべて承知だとしたら。

「縁兄さん……知ってたの?」

「…………」

「知ってたんだね……お義父様も、お義母様も?」

「……真玲殿と珠響は存じません」

「ならお祖母様とお義父様はご存知だったってことね」

 縁寿は否定しなかった。そのことに、歯軋りする。十二国へ来ていろんなことがあったが、もう怒りでどうにかなりそうだった。こんな計画を許容していたことも、茅羽夜の気持ちを無視していることも、失望と軽蔑の気持ちが抑えられない。それがずっと、心を繋いできたと思っていた身内ならば尚更だ。

「……見損なったわ、兄さん。こんな小さな子供たちを犠牲にして、一体どんな国を創るつもり?」

「言い訳はしません」

「そう。ならもう話すことなんてない。そこを退いて、兄さん」

「出来ません。妃殿下」

「なら押し通るしかねぇよなあ!」

 この緊迫した場に似つかわしくない、明快な声が響いた。驚いて見れば、屋根の上から何かが飛来し、そのまま何かは着地点の兵を得物で薙ぎ倒す。

「な、何事です!」

 和水が初めて動揺をみせ、その隙に松葉が飛び掛かる。兵達は突然の飛来物に気を取られ、武人ではない和水の腕から少女は思いの外あっさりと救出された。

 今し方数人を吹っ飛ばした彼は、自分の背丈よりも大きい槍を抱えてにやりと笑う。頭には藍染の布を巻いており、その顔に、鈴は見覚えがあった。

「ようお嬢ちゃん、また会ったな」

「あなた、あの時の……!」

 豪快に笑う彼は、まさに昨日、凛音を助けてくれた青年だった。昨日は太刀だったが、今日は厳つい大槍をまるで筆を指先で回すように振り回している。そのおかげで、兵達はじりじりと後退していた。

 その様子に、やれやれと刀を肩に担いで松葉は珍しく息を吐く。

「もー遅いっスよ、守千賀さま。どこで油売ってたンすか」

「しゃーねぇだろ、この屋敷入り組んでてよぉ」

「え? え? 待って、松兄さんいつのまにそんなに仲良く……」

「あー、いや話せば長くなるんだが」

 松葉が茅羽夜以外に敬語を使っているところを生まれて初めて見た。もう混乱どころの話じゃない。

「鈴たちの知り合いか?」

「おいおい、そりゃあねぇだろ。って言ってもまあ、俺が宮を出たのはお前がうーんとちっせぇ時だもんな。知るわけないか! ははは!」

「……」

 和水に代わり、兵達の前の出たのは縁寿だ。彼は闖入者を見て、努めて冷静を装っているが、声からして珍しく動揺しているのが読み取れる。

「まさか生きておいでだとは思いもよりませんでした……第三皇子、守千賀殿」

「……だ」

「第三皇子……⁉︎」

 覇権争い時に亡くなったという、三廻部家の妃との間に生まれた皇子ではなかったか。現三廻部家の当主の甥で、赤磐にとっては孫に当たる。そして茅羽夜にとっては異母兄だ。

 その人が何故、此処にいて松葉と親しげなのか。もうちょっとやそっとのことじゃ驚かないぞと思っていた鈴もいい加減、驚愕の台詞は品切れ入荷未定状態だ。今日はなんて日だろう。

「相変わらず生真面目が服着たような面してんな縁寿。ま、第三皇子は死んでるんで、今はただの守千賀だ。お前がそっちについてるんだ、俺らがこっちについたっておかしかねぇだろ」

「そうですね、松葉を九国から中央へ引き抜いたのも、本を正せば貴方でしたしね」

「そういうコト。んじゃ、姫さんたちは回収していくぜ」

「その人数で、そう易々と通れるとお思いで?」

「当たり前だろ? 俺を誰だと思ってる。松葉も風早も末っ子もこっちにいるってのに、それでも俺を止めたきゃ、あの頑固祖父(ジジイ)くらい連れてきて貰わんとなあ!」

 風を切るような音と、それから金属が打つかる音。守千賀が大槍で豪快に人を薙ぎ倒し、松葉がその背中を守るように地を蹴った。

「行け! 向こうで青幡たちが退路を確保してる!」

「わかった」

「えっ⁉︎ 待っ……茅羽夜⁉︎」

 守千賀が薙ぎ払った手薄の箇所を狙って、茅羽夜が鈴を抱えたまま走り出した。突然のことにまた首元にしがみ付くと、後ろから数人追ってくるのが見えた。

「待って、後ろから来〜〜〜〜〜〜⁉︎」

 茅羽夜は目の前に迫っていた土壁を蹴り、大きく円を描くように一回転すると、追手の背後に回って一閃で斬り伏せた。勿論、鈴を抱いたまま。ぐわんと空と地上が入れ替わり、頭痛の残る頭には少々堪えた。

「すまない、大丈夫か?」

「ウン……」

「もう少しだから我慢してくれ」

「へいき、だから!」

 茅羽夜の首に腕を回したまま、パン!と柏手を打つ。掌に生まれた水に息を吹きかけると、それは氷となって草陰に隠れていた兵の足を縫いとめる。短い悲鳴が聞こえた。

「後ろは任せてよね!」

「……本当に、俺の妃は頼もしいな」

 目を細めてふっと笑う茅羽夜が酷く儚く見えた。鈴はただ、彼の首に腕を回して肩口に額を寄せる。

(どうして)

 胸の奥がざらざらする。嫌な予感が消えない。

(どうしてそんな顔をするの……)

 全て吹っ切れたような顔が、妙に気になった。

(でも、そりゃそうよね。どちらかしか、生き残れない……なんて、そんなの)

 それならば、と言いかけた鈴の言葉を遮った。あの問いの答えを、鈴はまだ知らない。

(これからどうしたらいいんだろう) 

 思考の向こうで、遠くで誰かの悲鳴が聞こえる。松葉が守っているから凛音はきっと大丈夫だろうけれど、他の子供たちはどうしただろうか。出来ることなら助けてやりたい。でも、九条家も頼れないとなれば自分たちすら、これからどこへ行けばいいのか分からない。

 一体何を信じて、何を為せばいいのか。


「おーい、こっちこっち〜」

 前方に目を向ければ、二人の青年が手招いていた。その二人組の片割れを見とめて、鈴はすぐに威嚇の体勢に入る。

「あっはは、青幡嫌われてるね〜」

「お前もだろ、三光」

「……茅羽夜、これどういうこと」

「ああ、今は協定を結んだ。まあ、元々松葉は彼ら側だったわけだが」

「はあ⁉︎ ちょ、ちょちょっと待って!」

「ごめん姫宮、混乱してるとこ悪いんだけどのんびりお話してる暇はないんだよね」

 はっとして見れば複数の足音がすぐ側まで来ている。外廊の向こうに、こちらを指差して向かってくる一団があった。なんてしつこい。

「若宮くん」

 青幡が何かをぽいっと投げた。それを茅羽夜は難なく片手で受け取る。鍵束だ。

「僕ら、ちょっと始末しなくちゃいけないことがあるから行ってくるね、君たちはそこで待ってて」

「え、そんな」

「姫宮は足手纏いだから待機。鴨と葱が一緒にのこのこやって来られても迷惑なわけ。わかるね?」

「────ッ」

 何も言い返せなかった。今、茅羽夜も鈴も完全に狙われている対象だ。特に鈴は巫術が使えると言って、あそこまでの大人数を相手取るなんて無理だ。だから茅羽夜も鈴を抱えて逃げるしかなかった。なんて不甲斐ない。

「というわけで、あっちの一団片してから行くから上手く隠れててね。あとで迎えに来るから」

「ああ、頼んだ」

 ちらりと、青幡は一瞬何かを言いかける様に口を開いたが、すぐに踵を返して行ってしまった。彼らを見送って、茅羽夜と鈴は角を曲がったところの階を駆け上がり、奥の部屋に飛び込む。そこでようやく、茅羽夜は鈴を床へ下ろした。

「……ありがとう」

「平気だ。鈴くらい、抱えている内に入らない」

「ううん、そうじゃなくて。……それも、勿論あるんだけど、その……」

 なんて言ったら良いんだろう。聞きたいことは本当に、たくさんある。知る権利が鈴にはあるだろう。けれど何から聞けばいいのか、気持ちの整理がつかないというのが本音だった。

「……すまなかった」

「え?」

「宮家の問題に鈴を巻き込んだのは俺だ。斎王のことも、空鷹の思惑にも気が付けなかった。本当に情けないな……」

「や、それを言ったら、半分はわたしの問題でもあるんだし……それで、これから……」

 どうするの?と訊ねようとした声を、鈴は失った。腕を引っ張られて、気が付けば目の前に茅羽夜の胸があったからだ。抱きしめられていると気付くまでそう時間は掛からなかった。

「茅羽夜……?」

「鈴は、十年前のことを覚えている?」

「え? えっと……」

「いや、ごめん。覚えてるわけないよな。当然だ」

「ちょっと待って、確かに細部とかは朧げだけど、あなたを助けたことはちゃんと」

 ────ちゃんと、覚えている。怪我をしていた男の子。見たこともない怪我に泣いてしまった鈴を呆れながら、宥めてくれた。でも、思い出そうとすると、ひどく頭が痛む。

『きれいな、いなほのひとみね、まるでふたつのあけほしみたい』

『そう?……でもおれは、きみの────』

 呼吸が浅くなる。あの時彼は何と言ったのだろう?

 どうしてわたしはこんなに、怯えているの?


「鈴、十年前に君から貰ったものを、今返すよ」

「え? 待って、それってどういう……」

 意味かと、問いかける前にその唇が塞がれた。優しく触れるだけのそれじゃなく、生暖かい何かが唇を割って、滑り込んでくる。

 突然のことに訳もわからず、ぎゅっと目を閉じると、感覚のすべてが研ぎ澄まされるような気がした。遠くの音、目映いほどの光と────花の匂い。

 そういったものが、全て唇から体を巡っていく。

 ちかちかした星の瞬きが、茅羽夜の中から巡って、鈴の右眼に宿る。

 嬉しいはずなのに、胸が痛いのは何故?

「鈴、……りん」

 離れた唇が、何度も少女の名前を呼んだ。まるで硝子細工の宝物を扱うように少女に触れるので、鈴の眦から透明なそれが零れる。右眼がどうしてか、燃えるように熱く、痛みすら覚えた。

「俺はずっと、君に甘えていたんだ。話さないといけないこと、色んなことを、何も言えなくて。本当に、ずっとずっと君の優しさに寄り掛かってばかりだった」

 そんなことない。わたしだって、たくさんのものを、あなたから貰った。

 目を開けて、一番に大切な人の顔が映る、確かな幸せ。

 分け合う温もりの愛しさ。

 並んで見上げた、満天の星空の煌めき。

 屋台で買って並んで食べた杏飴の甘酸っぱも。

 そのどれもが、優しく煌めいて、箱にしまって取っておきたいくらい大切のものたち。

 この気持ちは、すべてあなたが教えてくれたのよ。

 そう伝えたいのに、どうしてか喉に張り付いて言葉がうまく出てこない。

「でも今日でもうおしまいにする。……ねえ、鈴、あのね」

 いやだ、その先を、どうか言わないで。

 耳を塞いで子供のようにいやいやと首を振る少女の頰を、優しい指が撫でる。指先から伝わる愛しさに、涙だけが落ちていく。

 菫色と海色のふたつの星を持つ、少女の名前をまるで宝物のように呼ぶから。


「────愛してるよ」


 それは、ひどく優しい声だった。本当に、残酷なまでに、優しさと愛しさしかない声で。

 滲んでいく視界に、茅羽夜の黄金の星がふたつ、瞬いた。

「愛している。鈴、きみを、きみだけを俺はきっと一生愛している。君に出会えたことが、きっと俺の生涯でいちばんの幸せだった」

 世界でいちばん、これ以上ない、美しい愛の言葉だった。

 けれどそれは、彼の別れの言葉だと、鈴は気付いていた。


「さようなら」


 今まで見た中で、いちばんの笑顔でそう、言って茅羽夜は鈴から手を離した。

 そしてそのまま、目の前の扉が閉まった。

 鈴をひとり、置き去りにして。

「い、いや、だ……ねえ、嘘でしょ、そんな……!」

 目の前の扉を力の限り叩く。押しても引いてもびくともしないそれに、苛立ちと焦燥ばかりが積み上がって行く。

 わかっていた。あの人は、もう心を決めている。どれだけ鈴が言葉を投げたとしても、彼の心を覆すことなんて出来やしないことを頭のどこかでは理解していた。

 泣き叫んで、咽び泣いて。ただただ、名前を呼んだ。

 ねえ、こんな酷い話がある?

 わたしたち、こんな別れ方をするために、出会ったの?

「ちはや!」

 おねがいだから、ここを開けて、嘘だと言って。置いて行かないで。

「ねえ……待ってよ……!」

 行かないで。行かないで。行かないで。

 あなたとずっといたい。

 そう願って、あの時、あなたの手を取ったのに。

「……ッ!」

 鈴は扉から手を離して部屋を見回す。すぐ向こうにあった窓を押して見るも、ここにも鍵がかかっていた。迷う暇なんてなかった。鈴は手近にあった椅子を引っ掴み、振り上げて何度も叩きつけた。

 何度か繰り返した時、がしゃん!と硝子が割れた。そこから体を滑り込ませて、廂に出た途端に目の前が歪んだ。

(────あの時の花の匂い)

 知っている。あれは、青幡が使っていた薬の匂いだ。鈴は割った硝子の破片を迷いなく握った。掌に鋭い痛みが走り、その痛みでなんとか意識を保つ。

「……よし!」

 気合を入れて下を見るも、飛び降りるには少し勇気がいる高さに、ごくりと生唾を飲み込む。幼いころに木から落ちてから、高いところからすぐ下を見るとどうしても足が竦んでしまう。首筋に嫌な汗が滲んだ。

 でも今は、ここで立ち尽くしている暇はない。

 鈴は部屋に戻って、先程の破片で窓に掛かっていた布を引き裂き、結んで廂の柵に括り付ける。柵が折れたら終わりだけれど、相当運が悪くなければ死にはしないだろう。大丈夫。靴を脱いで下へ放り投げ、震える足や指を叱咤して、鈴はゆっくりと降りて行く。縄がわりの布にべったりと鈴の血が付いて、意識が朦朧とする。それでも、行かなくちゃという気持ちで歯を食いしばった。

 もうすぐで地上に降りれる、その時だった。ドン!という大きな音と共に地面が揺れて、夏に吹き抜ける風のような熱を孕んだそれが鈴の体に叩きつけられた。その揺れは鈴が地面に足をつけても収まらず、随分と長い時間、揺れていたように思う。

「……おさ、まった……?」

 ようやく揺れが静まり、立ち上がると遠くから怒号が聞こえてきた。それから向こうから、いつの間にか忍び寄っていた黄昏に滲む赤い炎が見えた。それは蛇のように空をうねり、まるで暁が溢れたみたいに、空を染める。

「火事……⁉︎」

 嫌な予感がした。駆り立てられるように、靴を引っ掴んで鈴は走った。


(かみさま)

(かみさま)

(この葦原全てをお創りになられた、尊き御方。どうか、どうかあの人を見捨てないで)


 途中硝子の破片が散らばっていて、鈴は慌てて靴を履いた。どうやら先程の地震で出火したらしい。遠くに街の人々の悲鳴が聞こえ、焔の色が、視界を舐めとっていく。

「茅羽夜、どこなの⁉︎ ねえ!────ッ」

 焦げ付いた、生き物の焼ける匂いに袖で鼻を覆う。建物は崩れ始め、鈴の行く先を阻んでいる。これ以上は鈴も危険だ。

(……戻るべきだわ)

 もしかしたら茅羽夜も皆も戻っているかもしれない。そう、きっとそうだ。だって茅羽夜が置いていくわけない。自分を一人にするわけない。

 鈴が元来た道を引き返そうとすると、熱風に一瞬煽られて、その弾みで何かが足元に落ちた。はらりと解ける髪にはっとする。茅羽夜から貰った簪だ。蝶の飾りに下がっていた銀の鎖が切れて、黄玉が焔の中に落ちていく。

「あッ……まって!」

「姫宮ッ!」

 伸ばした手を、誰かに掴まれる。見れば青幡が煤だらけの顔で、すぐそばにいた。

「馬鹿か君は⁉︎ 跳ねっ返りも大概にしろ! 部屋にいろと言っただろ!」

「まって、炎の中に簪の玉が」

「そんなものと若宮くんが拾ってくれた命のどっちが大事だ⁉︎」

「────」

 拾ってくれた命。それだけで、もう全部分かってしまった。

(酷い、こんな酷いことってない)

 彼は鈴の気持ちなんてお構いなしで、決めてしまったんだ。それが一番、鈴にとって許せないことだと知っていて。

 青幡の腕を振り切って走り出そうとするけれど、彼は離そうとしなかった。

「離して! あの馬鹿見つけて連れて帰るんだから!」

「させるわけないだろ! 何があっても、君を死なせるわけにはいかないんだよ!」

「そんなのそっちの都合じゃない! わたしはあんな別れ方なんて、全然納得してな……」

 トン、と首の後ろに衝撃があった。脳が揺れたかと思うと、水底へ落ちるように意識が沈んでいく。青幡が何か言っていたような気がしたけれど、なんて言ったかまでは聞き取れなかった。



 雨の音がする。

 天から降るそれは、陽神の流した涙だって小さい頃に教わった。あれは、きっと間違いなんかじゃない。

 あの夢の雨は彼らの涙。

 若くして死んでいった、少女たちの叫び。


 じゃあこの雨は?


 ────ねえ、一体誰の涙なの?





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