十五
鈴が淋代へ向かった後、茅羽夜は史館の小部屋に籠もっていた。読みたい本があるからというのは半分本音で半分建前だ。調べ物をしている内はあれこれ考えなくて済むから。そう思っていたのに。
「殿下、一頁も進んでおりませんが」
「……わかってる」
いつの間にか見送りから戻ってきていた縁寿が後ろから覗き込むようにして立っていた。縁寿は分厚い眼鏡の奥で呆れた様に目を閉じて、大袈裟な程に溜息をついて見せる。
「そんなに落ち込むくらいならいつもみたいに何食わぬ顔で見送りに来たら良かったじゃないですか」
「いつもみたいにってなんだ」
「いつもみたいに空気読まずにって意味です」
「縁寿殿」
風早の静かな抗議の視線に縁寿はにっこりと微笑んだ。松葉に対してはどんな言葉も響かない、茅羽夜絶対主義の風早は縁寿にはどうも弱く、その笑顔の前に怯んだように押し黙った。
(……これは地味に怒ってるな)
過ごした時間は松葉より少ないが、縁寿の妹への愛情は深い。最も彼は松葉にも妻にも息子に対してもそうなので、元々愛情深い性格なんだろう。
「何があったかは知りませんけど、夫婦喧嘩というのは意地を張れば張るだけ長引きますよ」
「……経験談か?」
「御想像にお任せします」
数回しか会ったことのない縁寿の細君を思い出して、茅羽夜は経験談だな、と心の中で頷いた。空鷹の妹である珠響は幼い頃から斎妃になることを義務付けられ、宮内の別宅で暮らしてきた暮星と違って緑豊かな九国でのびのびと過ごした女性だ。
鈴の顔立ちはどうやら父親に似ているらしいが、やや吊り気味の猫のような瞳や細い顎など、細かい箇所は九条家の面差しがある。彼女がもう少し大人になれば、母親似ねと言われることもあるだろう。ここまで言われれば、幾ら勘の鈍い茅羽夜でも察する事が出来る。
そう、九条家の中で一番鈴に似ているのは叔母である珠響なのだ。
妹に性質の似た妻というのも、一歩間違えればどん引きされそうな案件であるが、結局のところ縁寿はああいった少し意地っ張りで変に気の強い女性が放って置けない性質なのだろう。だからこそ、縁寿は茅羽夜に対して助言をしているわけだ。
ああいう女性に意地を張ると長引くぞ、と。
(別に意地を張っているわけじゃ……いや、張っているかもしれないな……)
くしゃりと前髪を掴む。馬に露草と二人で並んで乗っていた鈴の顔が脳裏にちらついてうまく呑み込めず、胸の奥がちりちりとして、落ち着かない。
(前にもこんなことがあったな……)
宮市の前のことだ。あれは確か、鈴の寝言がきっかけだった。
だがあの時はもっと酷かった。新月でもないのに龍の力に呑まれて、我を忘れるほどだったのに今回はそんな兆しは見えない。
何故だろう、きっかけとしては今回の方が根深いと思うのだが。
(────そういえば新月に、夢を見ていない)
陰の力が強くなる新月の日がいつも嫌いだった。夢なのか現なのかわからない境を彷徨い、自分が少しずつ擦り減っていく感覚。そうしていつか、誰にも知られず死んでいくのだと思っていた。
十年前のあの日まで。
(そういえばあの時の感覚に似ている……)
茅羽夜にとっては十年経っても色褪せない、珠玉の記憶。ひとりの少女との出逢い。
(……やっぱり見送りに行けばよかった)
見送りだけじゃない、縁寿の言う通り、昨日変な意地を張らずに鈴のもとへ帰ればよかった。後悔先に立たずとはこのことだ。やはり先程から一頁も進まない本を閉じて、茅羽夜は一旦屋敷へ戻ることにした。
「あら! お帰りなさいませ、殿下」
「……」
風早を身代わりに仕立てて戻ってきたはいいが、出迎えに来た和水を見て、茅羽夜はそうだったとうんざりとした気持ちになった。覆面を付けていない素顔を見られたことをすっかり忘れていた、というわけではないが、意識の片隅に追いやっていたのも事実だ。
茅羽夜はこの少女が苦手だった。茅羽夜が苦手じゃない人間は稀少だが、彼女は輪をかけて苦手だった。なのに何故か、いつの間にか世話係に収まっていた。自分のことくらい自分で出来ると言ってもさすがに高梁の体面上、許して貰えるはずもなく。
「お疲れのようですし湯浴みのご準備でも致しましょうか、それかお食事を……」
「いい、少し仮眠に戻っただけだ。私に構わずともよい」
「そういうわけには参りません! 殿下のお世話が私の仕事ですから」
「私がいいと言っている……暫く眠るゆえ、私が良いと言うまで部屋には誰も立ち入らせるな」
「あっ殿下!」
こんなことなら風早を置いてくるのではなかった。
部屋へ戻るとがらんとした冷たい空気が茅羽夜を出迎えた。鈴は日中視察へ出ていたから、ひとりの部屋に帰ってくることも別に初めてでもない。そもそも彼女と同じ屋敷へ戻ってくる生活はここ一月のことだ。それまではひとりが当たり前だったのに、けれど無性に、寂しいと思うのは。
(……寝るか)
寝具を出すのも億劫で、茅羽夜は畳の上にごろりと転がる。寒いは寒いが、今は何もかもが面倒臭かった。
昨夜は夜通し書物を漁っていたので目の奥も少し熱い。目元に腕を乗っけたまま、ゆっくりと瞼を下ろした。
人の気配を感じて、ふと目を覚ますと辺りはすでに夕闇が忍び寄ってきていた。屋敷の四階部に茅羽夜たち以外の者は住んでいないため、喧騒は遠い。しんとした空気の中で、何かが動く気配があった。
「────何者だ」
「殿下、わたくしです」
じ、と蝋燭が灯る。淡く揺らめくそれに照らされた顔は、ここ最近よく見る世話係の少女のものだ。
「私が良いと言うまで、入るなと申し付けた筈だが」
「はい、お声は掛けたのですがお返事がなかったもので……あの、心配になって」
「……もう良い」
「殿下」
ぱあっと和水の顔が華やぐ。無邪気に、無垢に、愛らしく輝く黄玉の双眸。
ああ、本当に。
「下手な芝居はもう良いと言っている」
「え、ええっと……? どういう、意味でしょう」
「私はそなたを知っている。いや、そなたの御父上を知っていると言った方が正しいな。随分と前の話だが、気立ても良く国一番の器量よしと熱心に勧められたよ」
「いやですわ、殿下。どなたかとお間違えでは?」
「申し訳ないが、あの時の返事は何も変わっていない、お引き取り願おうか。十市原家の御息女」
ここに青幡が居れば「本当に君は人の話を聞かないな!」と憤慨していたかもしれないが、今この場には彼らだけだ。
いや、彼らだけではない。茅羽夜を起こした気配は、もうすぐそばまであった。
和水の顔から、色を抜くように表情が抜け落ちた。人が無になる瞬間を、茅羽夜は生まれて初めて見た。
「……わたくしのことを、ご存知でいらしたのですね」
「今の今まですっかり忘れていたが」
「ええ、そうでしょうね。あなたがわたくしを見てくれたことなんて、ただの一度もなかった」
和水はゆっくりと目を閉じる。その瞳は黄玉、十一国の名となった星。
「────分かっておられるなら話は早いです。殿下、どうかわたくしをお連れ下さい。きっとお役に立って見せます」
「悪いが何度言われても返事は変わらない」
「殿下、わたくしは何も彼女が東宮妃に相応しくないと思っているからこんなことを申し上げているのではありません。寧ろ逆ですわ、初菫妃殿下はこの世で最も尊き御方。彼の稀代の巫女である暮星様と月神の加護を受けた海色の瞳を持つ人の娘ですもの。父も、それはちゃんと理解して下さいました」
夢を語る様に、少女の声は熱を帯びている。彼女はいつも鈴に対して恭しく、また敬愛を込めて接していた。そこに一欠片の嘘はない。彼女は心の底から、鈴を慕っていた。
(いや、それよりも月神の加護を受けたとはどういう意味だ? 鈴の父上が?)
「ですが、ああ、だからこそ、あの御方がもうすぐ死ぬ運命にあるなんて哀しき事です」
キンっと冷めた音が奔った。茅羽夜は目にも留まらぬ速さで鞘からそれを抜くと迷いなく少女の鼻先へ突き付ける。考えるよりも動いていた。和水は動揺することもなく、ただそこで微笑んでいる。
嫌な笑みだ。誰かを彷彿とさせる、女の顔。
「……私はあまり冗談が好きではない」
「まあ。気が合いますね、わたくしもです」
「彼女に何をした」
「わたくしたちは何も? ええ、そう、だって彼女にはこわーい番犬がついていますし、大事な大事な、斎妃様ですもの。傷をつける様なことは、我が神に誓って致しません。ですが、ええ、急いだ方がいいかも知れませんね」
だって、と可愛らしい唇は緩やかに弧を描く。彼女の後ろには既に幾人もの人影があった。国司がグルだったのか、それとも制圧されたのかは定かではない。だが血の匂いが薄い点からして、前者である可能性が高そうだ。
「どうやらうちの巫女様は妃殿下をお気に召したご様子。夕食の席に是非招きたいと仰っておられるそうです! ああ、どうしましょう? あの方は嘘がつけないお方なので、聞かれたら全て答えてしまうやも。ええ、そう例えば貴方様の御生母様のこととか」
神経を逆撫でする不自然な程明るく努めた声音、芝居がかった口調。人が心の奥底に沈めて鍵を掛けている柔らかい部分に、平気で爪を立てる。
顔色を変えた茅羽夜に、和水はうっそりと微笑む。部屋に侵入したことにも、後ろに控えている兵達にも、眉一つ動かさなかった少年が、たったこれだけで揺れ動く。
そんなひどく幼くて、為政者となるには致命的な欠点にもなり得る部分が、哀れで、滑稽で、なんて愛おしいのだろうと女は思った。
茅羽夜がじりじりと後ずさった時、硝子の割れる大きな音があたりに響いた。子供程もある大鴉がその割れた硝子の向こうで、カァ!と鳴く。
「あれは……?」
やや面食らった和水をよそに茅羽夜は迷いなく窓へ走った。そしてそのまま柵を飛び越え、視界から消えた。
「……まあ」
茅羽夜たちが居たのは四階だ。普通、この高さから飛び降りたら命はないだろう。普通の人間なら。
「堪え性のない御方。ですが、ええ、ええ! こうでなくては面白くありません。さあ、皆さん! わたくしたちも参りましょう」
女はすぐそばに控えていた兵達に微笑んで、悠然と闇路を歩く。その先に求めるものがきっとあると、確信めいた笑みだった。
空を舞う黒い影を追って、茅羽夜は馬を走らせる。鴉が向かっているのは豊都へ向かう道とは少しずれているが、北へ向かっているのは確かだった。
夜通し走り続けて、やがて白んできた暁光に照らされた小さな集落が見えて来ると、鴉は緩やかに高度を落としていった。吐く息が細くたなびく。
近づいてみると、それは人に捨てられた世界であった。土壁は崩れ、剥き出しの土台と柱が雨風に晒されて傷んで、朽ちかけている。手入れされていない道端の草は茅羽夜の腰近くまで伸びており、集落の中央に聳え立つ大樹に括り付けられた子供用の遊具が、風に吹かれてキィと鳴った。
「……」
気配を探りながら入っていくと、奥に比較的原型を留めている家があった。その屋根にはあの大鴉が羽を休めており、茅羽夜がやってくるとこっちだと言わんばかりにばさばさと羽を揺らす。
「……北斗じゃないな」
「そいつは紗々。北斗の、まあ人間で言ったら妹だよ」
引き戸のそばに立っていた青幡を、茅羽夜は驚きもせずに見た。あの鴉がいる時点で察していた。
「入りなよ」
「……鈴はどこだ」
「ここにいるわけないでしょ。豊都は俺たちの仲間が見てる。まだあいつとは接触してないから」
「そうか……ここは?」
「見てわかんない? 八年前に死んだ里」
青幡に続いて中に入ると、埃っぽいものの外から見るよりは荒れていなかった。周囲の家屋よりも大きく、土台がしっかりしているからか、損傷もまだ少ないようだ。それなりに立場のある人が住んでいたのだろう。
土間から上がってすぐの庵には火が入っており、薬缶が掛けられている。
「何点か聞きたいことがあるんだが」
「なに?」
「十二村家とお前たちはどういう関係なんだ?」
「ああ……まあ、そうだな。でもこれを説明するにはまず、前提を覆さなきゃいけない」
「前提?」
ついて来いと言われて、青幡が向かったのは集落から少し離れた場所だ。草木が覆い繁り、枯れ枝を踏む音だけが静寂に響く。
そこにあったのは、里と同じく打ち捨てられた何か。黒く焦げ跡の残る柱と錆びた鈴が足下に重なるように転がっている。
「ここ、顎龍山の、山守が守ってた社の成れの果てなんだ。顎龍山に山守はもう居ない。八年前に、みんな死んだ。それでも顎龍山の龍脈が生きてるのは、守人が生きてる証拠だ」
「……まってくれ、話が見えない」
「まあ聞け。まず君たち東和の人間は創世神話をどう聞いてる?」
「どうって……神龍が降り立ち、玉を二つに分けて、男女の神を創り、この地の全ての祖になったと」
「ま、誰もが必ず聞かされる神話だよな」
龍の体が大地となって、血は水に、骨は大地を支え、立髪は山となる。男女の神は子を生み、彼らの末御が皇となった。
「だが俺たちに伝えられている神話はまるっきり違う。まず、神龍がこの地へ来た時、既に大地はあった。彼の龍はこの国よりもっと東の果てにある国からやって来た異国の神なんだ」
「は……?」
突拍子もない発言に、茅羽夜は目を丸めた。だが青幡の顔は至って真面目で、人を揶揄っているようには見えない。
「東和って今は島国だけど、昔はもっと大きな地続きの大陸で、国があったんだ。唐って聞いたことあるだろ」
「千年以上前に沈んだ国か」
「そ、神龍はその唐から来た。兄弟神との争いに負けて逃げてきたんだよ。傷付いた体を引き摺って逃げた先で、彼を助けた一人の少女がいた。それが、後に君たちの神話にも伝わってる照日奈大神の原型となった人間だ。彼女は献身的に龍を助け、二人は恋に落ちた」
似ている、と思った。自分たちに。
「俺たちのご先祖様は、その神龍に付いて唐から来た一族でね。神龍と共にこの地に留まる事を決めて、少女の一族に火の恩恵と水の加護を与えた。彼の神は自分の大切な瞳である双つの星の片方を少女に渡すんだ。それが……」
────双玉。
あれは神の片目だった。そしてこれが、東和の求婚の際に自分の星石を渡すという古い仕来りの原型となったのだ。
「成る程。では、伝わっている陽神と月神は、神祖の生んだ子ではなく、神祖と彼の妻になった人間の娘を神格化したものか」
「まあそういうこと」
「だが何故その話が正しく伝わっていないんだ? 皇はいつ、この国を統べるに至った」
「……」
苦々しく、そして軽蔑を含んだ顔。その表情だけで、大体のことは察することが出来た。
この神話の続きは、皇にとって都合の悪い話なのだ。だから削って、すり替えた。
「お察しの通り、皇は自分を神格化する為に話をすり替えて後世に遺した。皇の始祖、名を迦具土。神祖と少女を弑逆し、陽の双玉を奪った男だ。そしてその男と二人の娘との間に生まれた末御が、この国の最初の王となった」
「────」
(一つは陽となり白き王。血潮は咎、眼は黄金。牙を劔に、国創りの祖と成りけり……成る程な。白き王は神龍からしたら三世代目、つまり孫になる。こちらに伝わっている神話と相違はあるが全てが嘘なわけじゃない)
巧妙なことだと顔も知らぬ始祖に嗤う。
そしてようやく、神龍の血を継ぐ咎人の意味を理解した。
「唐の国は、その際に海に沈んだのか」
「ああ、そう聞いている。少女が殺された時の神祖の怒りによって……皮肉なものだよな」
かつて逃げ捨てた故郷。自分を追い立てた祖国を、出奔した後に葬る事になるなんて。
「そして、迦具土は神祖と少女による呪いを受けた。彼は二人の娘を娶り、彼女の血と魂を持ってこれを鎮めた。これが贄妃……斎妃の始まりだ」
一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。自分が信じていた創世神話との相違も、皇と東和の成り立ちも、驚いたが納得のいくものだった。伝えられていることが全て本当だとは限らないし、神話なんてそのようなものだ。
そんなことは別段どうでも良かった。問題はそこじゃない。
「────……今、なんて言った」
「……龍の血が姫宮の側だと楽になっただろ? 斎妃っていうのはな、初めから皇の龍の血を鎮める役目を負って、殺されるために嫁ぐ妃だ。知らなかったのか」
全身の血が、全て、抜け落ちていくような気がした。冷たい風が茅羽夜の体から熱を奪っていくだけでなく、その言葉は容赦なく、心の臓を貫いた。
(目の前が真っ暗になるってこういうことを言うんだな)
────殺される為に嫁ぐ娘。
贄妃とはよく言ったものだ。美しく、口当たりの良い言葉で飾られた生贄、人身御供、神へ捧げられる巫女。
(じゃあここ最近、夢を見なくなったのは……そうだ、兄上とのあの一件からだ)
無意識のうちに、爪が食い込むまで拳を握っていた。
兄は知っていたのだ。斎妃の本当の意味を彼は理解していた。それなのに、茅羽夜に教えてはくれなかった。それ程までに、異父妹が疎ましいのだろうか。わからない。でも。
「……ひとつ、聞きたいことがある」
────逃げるしか出来なかった、十年前とは違うのだから。




