十四
「美浜さん、ねえちょっと聞きたいのだけれど今お時間いいかしら」
豊都に着いて二日目の朝。
朝餉を持ってきてくれたのはこの部屋に付いたという美浜という女性だった。彼女はこの珠洲屋に住み込みで働いているらしく、いつも丁寧に対応してくれる、穏やかな人だ。
「はいはい、何でしょう?」
「あれのことなんだけど」
貝を使った雑炊を啜りながら、鈴が声を掛けると彼女は────勿論、彼女が嫌な顔をした事など一度もないのだが────やはり笑顔で応対してくれた。
鈴は床の間に飾られている水墨画を指差した。
「あの水墨画の黒い龍は、一体何かしらと思って」
「ああ、守人様ですか?」
「守人さま?」
鸚鵡返しに訊ねると、美浜はお茶を注ぎながら話してくれた。
「守人様は月神様が御住まいになっている海底の宮、幽宮への道を守る御方ですよ。その昔、月神様が鱗と血を与えてお造りになった一柱にございます。幽宮と現世を繋ぐ門の番人ですね」
「だから龍の姿なの?」
「その通りです。お客様のお生まれになった地域では、月神様を祀ってはおられなかったのですか?」
「主神としては……そうね」
他の国ではどうかわからないが、九国の宗教観はまず神祖ありきだ。しかしそれも山神を通して祀っている。九頭龍山の山神を祀ることでかの神龍へ祈りを届けて貰う、といった形になる。
勿論、陽神や月神への感謝も忘れてはいないけれど伝承は明確に伝わっていない。
「ごめんなさい、父なる月黄泉様を疎かにしているわけではないのよ」
「ええ、大丈夫ですよ。知は無から生まれると言います。知らないという事を知る、まずはそこから知が始まるのです。誰だって最初は何も知らないままでしょう? それを恥じることはありません、無知と驕ることこそ、罪なのです……なんて、わたしも出雲様からの受け売りなのですけれど」
ふふふと口元に手をやって、美浜は少女のように笑う。
「わたしは此処よりももっと北の里から来たのです。行って見られたことあります?」
「いいえ」
「それが宜しいと思います」
何故?と視線だけで問い掛ける。自分の故郷だろうに。
「北はこことは比べ物にならない程、貧しいのです。朝から晩まで働いても、家族が食べるだけで精一杯。知識など、何にもならない。わたしはそんな里の出でした。親の言うように近隣の里へ嫁ぎましたが、生活は苦しく、やっと授かった子にやる乳も出ず……そんな時に、里にあの怨鬼がやってきた」
怨鬼。それが意味するのが何であるか。
ぴくりと鈴の肩が跳ねたことに、彼女は気が付かなかった。
「件の宗教は瞬く間に里の者たちへ浸透していった。けれど、わたしはどうしても顎龍山の山神様を否定するのが……どこか怖くて。それで、離縁して逃げ出したのです。出雲様に出逢ったのはそんな時でした」
成る程そう繋がるのか、と鈴は深く頷いて見せた。
出雲は美浜を元夫や姑達から保護し、職につけるように口利きしてくれたらしい。そこからずっと、ここで働いているのだと言う。
「お客様も、何か悩みがあってこの豊都へいらしたのでしょう? ええ、多いんです、そういう方。わたしも何度かお世話させていただきましたから。あの方でしたらきっと、お客様のことも親身になって下さいますよ。この街であの方に世話になったことのない方なんていませんもの」
彼の話を聞くことは、とても簡単だった。彼女から聞かされた話は誇張でもなんでもなく、この街の住人で彼の世話になったことのない人はいないのではないか、そう思う程に彼を慕う声は多かった。
医術にて命を救って貰ったもの。両親を看取って貰ったもの。子供に読み書きを教えて貰っているもの。暴動によって荒らされ、焼け落ちた街を立て直すのに、彼がどれ程尽力してくれたか。
話を聞くたびに言い様のない気持ちが鈴の中に落ちていく。
本当に、白浬教は海真教と関わりがあるのだろうか。
同じ神を祀る全然違う団体じゃないだろうか。
でもでは、あの祠は?祠に納められていたのは間違いなく呪具だった。龍脈に根付き、蝕み、天候を不安定にさせる。水源は人の生活に直結する。龍脈を握るということは、この地に住む人々の命を握るのと同義だ。
幾つもの疑念と猜疑、そのたびに自問自答する。
本当にこれでいいの?
わたしのしていることはもしかして、彼らの導べを奪うことではないのか?
例えばここで鈴が白浬教の祠の秘密を暴いたとして、それをこの国の人は信じてくれるだろうか。
「姫様、そろそろ休憩しませんか?」
ぼんやりとそんなことを考えながら豊都の街を歩いていた鈴に、側にいた小鞠が声を掛ける。今日は露草も一緒に出てきており、宝生は久し振りの故郷だからと一日休みを出したので、四人で街を歩いていた。
そう言えば、宝生は豊都の出身だけれど、あの硝子玉を下げてはいなかった気がする。信徒ではないのだろうか。
「ちょうど昼時だし、なんか食うか」
「ああ……もうそんな時間なのね」
考え事をしていて気が付かなかったが、確かに陽はとっくに真上まで登りきっていた。ぼんやりしていたせいか、なんだかついさっき朝餉を食べたばかりな気がする。
「そういえば聞いたか。最近、出雲様の周りに不審者が出るんだと」
適当に入った店で何を食べようか迷っている最中、ふとそんな会話が耳に入る。鈴のすぐ後ろの卓に座る男たちだった。何気なしに見れば、彼らの帯にはあの硝子玉がきらりと光っていた。
「ああ、聞いた聞いた。八年前の生き残りって聞いたけど」
「え?京の帝が出雲様を亡き者にしようとしてるんじゃなかったか?」
「!」
心の臓が変に跳ねた。不審にならない程度にじっと息を潜めて耳をそば立てる。
「はあ?何で帝が出雲様を?」
「知らねーよ!そういう噂を聞いたってだけだし」
「でも今こっちに殿下が来ておられるんだろう? 東宮殿下の妃は敬虔な白浬教の信者だと聞いたぞ」
(おおっと、もうそこまで飛躍してるのか)
さすがに口伝の噂は回るのは早いが、中々信憑性に欠ける。
「でも出雲様はあの通り、人が良いからなあ。何か悪いことに巻き込まれないか心配だよ」
「な〜」
「…………」
そう言いながら男たちはお勘定をして店を出て行った。この街で、彼の名前を聞かない日がない。
(本当に街の人たちから慕われてるんだな……)
帝が出雲を亡き者にしようとしている。
それは、あながち間違いではないのかもしれない。真実が明るみに出た時、どのような沙汰が下されるのかは鈴にはわからないが、少なくとも懲罰はあるだろう。
(でもさすがに命までは……)
暴動を引き起こした咎で海真教の教祖は処断された。でもそれも、もしかしたら何かやむを得ない事情があったのでは?白浬教の導師だって、鈴の知らない事情があるのかもしれない────だって、これだけ人々に慕われる人が、あんな悪事を働くだろうか?
(街の人達の命を盾に誰かに脅されてるとか……)
考えて、鈴は頭を思いっきり振った。流されちゃいけない。
「鈴、食べないなら貰うぞ」
「え?」
ぱちりと目を瞬かせると、いつのまにか天麩羅蕎麦の丼が目の前に置かれており、ちょうどその上に乗っていた舞茸の天麩羅が目の前に座る松葉の口の中に消えていくところだった。
「あ、あーっ! わたしの天麩羅! 松兄さんのばか!」
「ぼーっとしてるのが悪いよなあ」
「信じらんない! お返しにこの海老は貰うから!」
「舞茸の代償が海老ってでかくないか⁉︎ 卑怯だろ!」
「先に手を出した兄さんが悪いんでしょー!」
「もう! 鈴も松葉様も店内で騒がないで下さいまし!」
小鞠に叱責されて、兄妹は口を揃えて「すみません」と謝った。気が付けばくすくすという笑い声が店内に満ちており、店員のおばさんからは「仲が良いわねぇ」などと微笑まれる始末。意識すると急に恥ずかしくなって、鈴は急いでお蕎麦を平らげて、四人は店を出た。
「兄さんのせいで笑われたわ、どうしてくれんの」
「声はお前の方がデカかっただろ」
「そもそも兄さんが人の天麩羅を盗らなかったらこんなことには」
「おふたりともいい加減にして下さい!」
「小鞠さん、お母さんみたいですね」
「おか……!」
静かではあるものの、ぴしゃりとした口調で言い放つ小鞠に、ふたりは口を噤むしかないが、露草の「母親」発言に打ち拉がれたような顔で後ずさる。
いつもは松葉に対しても楚々とした控えめな女性であろうとする小鞠だが、結局こういった気の強さが出てしまう。そんな所を好ましいと思っているのだが、よく後からこっそりと落ち込んでいるのを鈴は知っていた。恋する乙女は複雑だ。
「しかし流石、田舎の噂ってのは速いですね」
「うかうかしてると俺らの身も危ないかもしれんな」
「身が危ないって……そんな……」
「絶対ないって言い切れるか?現に八年前、ここは戦場だった」
「……」
松葉の言う通りだ。もしかしたら、なんて希望的観測で物事をはかるべきじゃない。わかってる、わかっているのだ。でも、という希望が捨てきれない。
「……わかった」
「うん?」
「今から出雲様とやらに会いにいきましょう」
「いやまてまてまてまて!一体何がどうなったらそうなるんだ⁉︎」
「ここでぐだぐだしてたって結果は同じでしょう。だったら手っ取り早く会いにいくしかなくない?」
「いやあ、姫様って本当に、突然変な方向に舵切りますよね?」
「もう決めたの。小鞠と露草は宿に戻って、それで朝までにわたし達が戻らなかったら二人で淋代に戻って」
「じょ、冗談ですわよね……?」
「本気だけど」
正直に言って、この街で情報収集を続けてもいかに出雲が素晴らしい人間かどうかしか出てこない気がする。
それならばいっそ、実際に会って見て確かめた方がいいのではないだろうか。
忍び込んで見つかるよりは、入門を装った方が話も聞きやすい。東宮妃が白浬教の聖地巡礼をしているという噂も少しは後押ししてくれるかもしれない。
「あっ! 鈴お姉ちゃん!」
三人をどう説き伏せようか考えていると、不意に後ろからどん!と何かが体当たりしてきた。と言っても、あまり衝撃はなく、振り向くと腰あたりに満面の笑みを浮かべた少女がいた。
「凛音ちゃん!」
「あら、お知り合いですか?」
「昨日知り合ったの。ねー」
「ねー!」
可愛い。全人類見てくれこの愛らしい生き物をという気持ちだ。凛音は昨日はいなかった小鞠と露草に気が付くときちんと自己紹介をした。可愛い上にとてもいい子だ。
「お姉ちゃん、今時間ある?」
「え、今? ええっと、今はちょっと……これから行きたいところがあって」
「行きたいとこ? わたし、案内しようか!」
「いいの? 出雲様って方に会いたいんだけど、どこに行けばお会い出来るかか知ってる?」
出雲様、と告げた時、凛音の顔がさらにぱあっと輝いた。
「お姉ちゃんたち、出雲さまに会いたいの? それなら一緒に来て! わたしが連れてったあげる!」
「え、凛音ちゃん知ってるの?」
「知ってるよ! だってわたし、出雲さまのお堂に住んでるんだもん」
昨日送って行ったお堂、あれが白浬教の社だったらしい。灯台下暗しだ。いや、それよりも社に住んでいるとはどういうことなのだろう。出雲とどういう関係なのか。
「出雲さまはね、わたしみたいな身寄りのない子供たちを引き取って面倒みて下さってるの。わたし、今いる子の中ではいちばん年上なのよ」
「じゃあ凛音ちゃん、お姉さんなんだ」
「そうなの! あ、それでね、昨日のことも出雲さまに言ったらお礼もしたいし、ぜひ夕飯を食べに、遊びに来て欲しいって。だからお姉ちゃんたちを探してたの」
なんてことだ、こういうのを渡りに船というのだろうか。鈴は少女の手を取って「是非とも」と返事をした。
「あ、よかったら小鞠お姉ちゃんと露草お兄さんも……」
「凛音ちゃん、この二人はこれからご用事があるんですって。だから、わたしと松兄さんのふたりでお邪魔していいかな?」
「そうなの?」
「え、ええ……そうなんです実は! はい、では露草さん、参りましょう!」
「あ〜……」
ちらりと露草は一瞬咎めるように鈴を見た。いつも眠そうな顔しかしていない彼がそんな感情を顔に出すのは珍しく、鈴は少しだけ肩を窄める。
凛音の後ろでごめんと言うように手を合わせると、はあっと息を吐いて露草はそのまま小鞠を連れて宿へ帰って行った。
「じゃあ行こう! あのね、今日は凛音がご飯作る日なの!」
「わあ、それは楽しみだな〜」
にこにこと笑いながら凛音に返事をするも、心の中は変な緊張があった。手を繋いだ凛音が本当に嬉しそうに笑っているので、罪悪感が背中に張り付く。
この少女にとっても「出雲様」は大切な存在なのだ。鈴がやろうとしているのは、その幸せを壊すことになるのではないか?
(いや、もし何らかの事情があるなら、力になれるかもしれない。何も今すぐ事を起こそうってわけじゃないんだし、話し合いだってきっと……)
「お姉ちゃん、着いたよ!」
はっと顔を上げると、確かに昨日見たお堂の目の前まで来ていた。
「お邪魔しまーす……」
そっと門を潜ると、耳許でぱきんと薄い玻璃を踏んだような音がした。慌てて足元を見るが、別段何もない。
「……?」
気のせいだろうか。警戒して損することは無いと頭の端に留め置きつつ、鈴は周囲を見渡す。
昨日はまじまじと見られなかったが、少し古いものの、敷地は思っていたよりもかなり広かった。二階建ての廂を囲う柵には不思議な紋様が掘られており、一階部分の軒下には赤い灯籠が幾つも吊り下げられている。
少し古ぼけた朱色の柱と、開けられた桟唐戸の内側には色鮮やかな織物が飾られていた。東和よりもどちらかと言えば華織子の私室のような、唐風に近い造りのようだ。
「ただいまー!」
凛音が元気よくそう言うと、庭で遊んでいた子供たちが一気に振り向いた。そしてすぐにわっとふたりの周りには子供たちが集まってくる。
「あっりんねーちゃん、おかえり!」
「おかえりー!」
「凛音、その人たちだあれ? 昨日言ってたひと?」
「お兄ちゃん背ぇおっきいね!肩車してー!」
「ねえねえお姉ちゃんたちも一緒に縄跳びしようよー!」
「はいはい! まずはこんにちはでしょ!」
先程まで鈴の手を握っていた少女は子供たちの前で仁王立ちしてひとりひとりに諭すように言い聞かせる。それに子供たちも素直に従って「こんにちは」と挨拶をしてくれた。いい子たちだな、と鈴も松葉もつい顔を綻ばせる。
「お兄ちゃんたちも一緒に縄跳びしよ?」
「このお姉さんとお兄さんはわたしと出雲さまのお客さまだから、遊ぶのはあとね」
「えー!」
「つまんなーい!」
ぶうぶう文句を言う子供たちに、凛音は「あとで!」とぴしゃりと言って、ふたりを部屋の中へ案内してくれた。回廊を歩く背中に小さく笑みが漏れる。
「すごいわ。凛音ちゃん、しっかりお姉さんしてる」
「笑わないでよー!」
「いやいや、しっかり者で偉いな」
松葉がわしわしと頭を撫でるのを、凛音はくすぐったそうに首をすくめた。何だか本当に妹が出来た気分だ。
やがて奥まった一室に通されて、鈴は気付かれないように拳を握る。
「こっち、お客さんが来た時に使うお部屋なの。出雲さまを呼んでくるから、ちょっとまっててね!」
「うん、ありがとう」
「あっご飯、ご飯も! 一緒に食べようね!」
ちらりと松葉を見て、小さく頷き合うと鈴は「出雲さまさえ良ければ」と笑みを作った。その返事を聞いて、凛音はぱたぱたと部屋を出て行く。
その部屋は一見、普通の一室だった。朱色の毛氈、部屋の真ん中に置かれた脚の長い丸卓と椅子が三つ。出入口は先程入ってきた廊下側に一つと、反対側にも一つ。こちらは中庭に通じるもので、少し押してみると簡単に開いた。奥まっているせいか子供たちの声もどこか遠く、街の喧騒も聞こえない。
りぃんと微かな風に混じって、銅鈴が鳴る。
「……ここ、本当に白浬教の本拠地かしら」
「どうだろうな。それにしては信者の姿もないし……本拠地っていうかただの住居?」
「だよね……いやでも……」
白浬教の実態が見えるかと思ったが、このお堂には子供たち以外の姿はない。けれど、形容し難い何か、煙が纏わり付くような感覚がずっとある。
ふと中庭の方を見ると、窓からあの水源に建てられていたものと同じ祠があるのが見えた。吸い寄せられるように、鈴は中庭に通じる扉に手を掛ける。
「中庭を御覧になりますか?」
突然聞こえた声に、鈴は振り向く。
裾の長い白い衣を纏った、慈愛に満ちた優しげな微笑みをたたえたその人は、ゆっくりとした足取りで部屋に入ってくる。鈴の心臓が変に大きく鳴った。
「あなたが、出雲様かしら」
その問いに、彼は胸の前で片方の拳をもう片方の手で包み、恭しく一揖する。東和の作法ではない。
「はい。お初にお目に掛かります、初菫妃殿下」
「!」
さっと松葉が鈴と出雲の間に体を滑り込ませた。出雲のそばにいた凛音だけが、状況が飲み込めずきょとんとしている。
「凛音、お茶を入れて来てくれるかな?」
「あっはい!」
「妃殿下とお連れ様も、どうぞお掛け下さい。それともお庭をご案内致しましょうか」
「そうね、庭を見せて貰ってもいいかしら」
緊張を気取らないように、努めて微笑む。
凛音が出て行った後、鈴たちは履物を借りて庭へ出た。庭には海石榴や山茶花が植えられており、まだ花はついていないが梅の木も片隅にあった。白い玉砂利の敷き詰められた庭には飛び石のようにつるりとした石畳が敷かれていて、その中心に祠がある。
「美しい庭ですね」
「ありがとうございます。ここは私の趣味のようなものでして」
「出雲様が手入れなさっているの?」
「ええ、庭弄りが趣味なんて枯れてると子供たちには言われるんですけどね」
あはは、と後頭部に手をやって笑うその人はいかにも温厚そうな顔で、とても件の祠を建てて龍脈を支配しようとしている人間には見えない。外見も思っていたよりもずっと若かった。恐らく縁寿や奈月彦よりは上だろうが、十も離れていないだろう。
「昨日はうちの凛音が危ないところを助けて頂いたようで、ありがとうございます」
「いえ、わたくしは何も。ここにいる松葉と、通りすがりの方のお陰です。お礼ならそのお二方に」
「勿論、松葉殿にも感謝しておりますとも。ですが、妃殿下も尽力して下さったと、凛音から話は聞いています。見ての通り身寄りのない子供たちが身を寄せ合って暮らしておりますので、特別なお持てなしなどは出来ませんがどうかゆっくりとして言ってください」
「ありがとうございます。ここは、出雲様が運営なさっておられるのですか」
「ええ、そうですね。元々は十二村家が運営していた孤児院でして、私もここの出身なんですよ」
「えっ」
茅羽夜の言っていた十二村家が支援していたという孤児院がどうやら此処らしい。
「あの、では十二村家の息子さんの行方をご存知ではないですか?」
「十二村家の?」
「はい。八年前の一件について、お聞きしたいことがあるのです」
「それは天の御意志ですか」
一瞬、彼の目に違う感情が浮かんだ。自然と背筋が伸びる。
目の前の人は、穏やかな笑みをたたえているのに、どこか冷たい。
「いいえ、わたくし個人の問題です。わたくしは、真実が知りたいのです」
「真実というと?」
「処刑された海真教の教祖が一体どのような目的で反乱を起こしたのか、とか」
挑むような声に、出雲は表情を変えずに庭へ進む。小さな祠は彼の背の丈ほどで、様式は今まで見てきたものと全く同じだ。しかし近付けば近付く程、その祠から匂うそれに、鈴は顔を顰める。
「海真教は滅びました。今更知って、どうしたいのですか?」
「どうもしません。ただ、知りたいだけです。彼らが何を思い、何を為そうとしたのか。民の心に寄り添うのは、上の者の責務かと」
「それは大変良い心掛けですね。妃殿下は瑠璃領の民にもその尊き御心を砕いて下さる、この地に住う者として感謝の念に堪えません」
ですが、と出雲は言葉を繋ぐ。ぞわりとした総毛立つ感覚に、思わず一歩下がる。何かを感じ取ったのか、後ろに控えていた松葉が鈴の前に立った。
「妃殿下、ああ春を呼ぶ愛らしい菫の星を持つ、西の果てから来た純粋な少女。貴女は何も知らない方が幸せであったでしょう」
「……わたくしの幸せは、わたくしが決めます。お答えしたくないのであれば、そう仰って下さって結構です」
「いえいえ、答えたくないわけではないのです。ですが私も死んだ兄を暴くような真似は少しばかり心苦しくて」
「死んだ兄、ですって……?」
短く息を吸う。目の前の彼が、何を言っているのかがうまく飲み込めない。
死んだ兄? 誰が、誰の?
「十二村家の養子をお探しでしたのでしょう? でしたら、今目の前に。私が処刑された十二村越百の下の子です。そして処刑された海真教の教祖、蒼一郎は私の兄。勿論、血の繋がりはありません。ご存知ですよね?」
篠蔵の里から孤児院へ行った蒼一郎は、ここで幼少期を過ごし、十二村家に引き取られて医師となった。優秀だった彼は医官として、帝都へ上がる。
そして、後宮に囚われていた暮星に出会った。
────ああ、眩暈がする。
ばらばらだった星の欠片が、全てが糸で繋がっていく。軌跡をなぞるように。
「十七年前の一件で、十二村家は罰を受けませんでした。蒼一郎は帝都へ出るときに籍を抜いていましたからね、ですが親子の繋がりが目に見えるものだけではないことは、貴女もよくご存知でしょう。養父は彼をとても可愛がっていた。私も聡明で、優しいふたりが大好きでした……あんな愚かな真似をするとは、微塵も思いませんでした」
「愚かな……?」
「彼らは神祖を蔑ろにし、貶めた。この国に住う者として、十分愚かな行為であると思いませんか」
僅かな違和感に、眉を顰める。彼の言い分は、反乱を起こし、国を混乱させたことよりも、神を冒涜した事に対して怒りを覚えているような口調だ。
青幡の口振りからして、海音という呪術師が白浬教を動かしているのかと思っていたが、この男は同一人物ではないのだろうか。
では白浬教の目的は。
不意に、出雲は鈴に手を差し伸べた。その手の真意を計りかねていると、彼は先程と同じ微笑みを浮かべたまま、小さく首を傾ける。
「妃殿下に見て頂きたいものがあるのです。どうぞこちらへ」
「……」
松葉から緊張が伝わる。罠かもしれない。だが、これは鈴が知らねばならないことだ。目を逸らして、逃げる事は出来ない。
鈴は松葉の背から一歩出て、彼を見据えた。
「参ります、案内して下さい」
出雲を先頭に、鈴達は薄暗い縦穴を進む。螺旋状に造られた階段を出雲と松葉の持つ手燭のみを灯りに、ゆっくりと階段を降りていく。
ぽっかりと空いた穴は下から風が吹いていて、それが反響してまるで生き物の鳴き声みたいにうわんと篭って響く。
(陛下の私室にあった隠し穴に、何処となく近い気がする……)
しかし以前降りたそれよりも、こちらはずっと浅く、すぐに底に着いた。高さで言えば淋代の屋敷の天辺から見下ろしたくらいだろうか。
ぱちんと指を鳴らす音が聞こえて、出雲の手燭に灯っていたそれがふわふわと浮かぶ。やがてそれは分裂するようにひとつ、ふたつと増えていき、辺りを明るく照らす灯篭へ姿を変える。薄暗い帳が、ゆっくりと晴れていく。
「────……!」
浮かび上がったのは、一匹の龍だ。
絵巻物の中の存在。東和葦原に住む、全ての祖となった者────その石像だった。
しかしその龍の石像の胴はどんな大木よりも太く、鈴の両腕でも届かないくらいで、縦穴の壁に沿うようにぐるりと塒を巻いている。とても人が作ったとは思えないほど、精巧な龍だ。鱗なんて一枚が鈴の掌程もある。
明るい場所で見ると鈴達が立っている場所よりも、もう一段程低くなっており、その窪みに張られた透明な水に、龍の頭が沈んでいた。石像の龍の眼は固く閉じられていて、その星が何色をしているのかはわからない。
その美しさに、思わず息を呑む。呼吸すら許されないのではないかと思うほどに。
「美しいでしょう」
出雲は手燭を壁の窪みに置いて、壁に沿って造られた足場を歩いていく。こつこつという靴音がやけに大きく響く。
「これは、あなた方の御神体?」
「ええ、そうです。月神の依代ですから」
「依代……?」
嫌な予感がした。水の匂いが濃くなっていく。まるで水中の中にいるような息苦しさに胸元の着物をぐっと握る。
「神祖の解放が、私の幼い頃からの悲願でした。この東和を統べる者に相応しい御方を探して、実験を繰り返し、ようやく辿り着いたのです」
海真教の呪術師は器を作ろうとしていた。
それは何の為の、何の器か。
「白浬教の導師、出雲。七国の金魚姫を、ご存知かしら」
「金魚姫……ああ、千歳姫のことですか。ええ、ええ、知っていますとも。あの子は素晴らしい素質を秘めていましたね。残念です。あの子の魂があれば、きっともっと早くに計画も進んだのに」
その言葉に、鈴は首飾りを襟元から引き抜いて、指先で術を結ぶ。足元の水が引っ張られるように跳ね、鈴の感情に呼応するかの如くにぱきぱきと凍て付き、その氷柱を、鈴は出雲に向かって迷いなく放った。出雲は動かない。鈴は唇を噛む。鈴が本気で彼を殺すつもりでないことはバレているのだ。
「人の命を何だと思っているの……⁉︎」
「いつの時代にも神を呼び起こすには贄が必要なのです。例えばそう、斎妃だとか」
「⁉︎」
「斎妃の本当の役目とは何か、貴女はご存知の筈でしょう?────夢で」
出雲が微笑む。視界がぐにゃりと歪んで、足元が柔らかい泥濘になったような感覚に鈴は思わず膝をついた。
指を這う、ぬるつく何か。鉄の匂いが鼻腔にこびりつく。見れば見知らぬ少女たちが鈴を囲うように折り重なって倒れていた。
誰? 知らない。でも知っている。誰かの血の気のない唇が、微かに動いた。
あなたも、おなじ。
わたしたちと、おなじ。
いつも見ている夢? 違う、夢じゃない。
これは、誰?
あなたは、誰?
「鈴! しっかりしろ!」
松葉の声に叱咤されて、鈴は瞬いた。恐る恐る自分の手を見ても何も付いていないし、辺りに少女たちの死体もいない。
白昼夢でも見ていたのか、彼の幻術だったのかはわからない。でも唐突に、理解した。
「斎妃とは、なに?」
皇に流れる龍の血に寄り添う者。
巫術に通じ、双玉を祀る巫女。
それだけじゃない。
「果てに東の国。天の怒りに、深き海底に沈みけり。
双つに分かつ星の定め。朝と夜の波間の落胤ぞ。
一つは陽となり白き王。血潮は咎、眼は黄金。牙を劔に、国創りの祖と成りけり。
一つは月となり幽世に鎮みけり。鱗を鍵に冥の宮、黑き守人は顎に消えゆ────」
「……?」
聞いた事がない詩だ。
「十二村家に伝わる創世神話の一節です。皇からは全て抹消された過去。東和という呪われた王の始まりです」
「呪われた王とは、一体何?」
「皇は咎人であると、聞きませんでしたか? ええ、そう、まさしく、彼らは咎人の子です。神祖とその花嫁である少女を弑逆し、陽の双玉と末の娘を奪って逃げた後に、その娘に子を産ませた。それが皇の始祖、原初の罪咎」
知らない。そんな神話、知らない。
神祖の噛み砕いた双玉から生まれた二人の男神と女神の末御であったはず。
「皇の始祖は神祖と花嫁の呪いを受けました。命を苛み、蝕む呪いです。以来呪いは末御に受け継がれ、時の術者は双玉へ贄妃を捧げることで赦しを乞うた。そう、斎妃の始まりです」
知らない、知らない。でも、鈴はそれが真実であると理解していた。
今ならあの夢の意味がわかる。
あの夢で殺されてきた少女は、過去に捧げられてきた斎妃たちだ。
皇の中に眠る怨嗟を鎮めるために命を捧げてきた少女たちの魂の叫び。それがあの夢の正体だった。
巫術師だから選ばれた?
違う。鈴が選ばれたのは、そんな理由じゃない。
「わたしは、茅羽夜の贄になるために、嫁がされてきたってこと……?」
────ねえもしも、自分かあの子か、どちらかしか生きられないとしたら、あなたは自分の命を投げ出せる?
そう問い掛けた女がいた。ああ、そういう意味なのか。
茅羽夜の命を助ける為には鈴が。
鈴の命を助ける為には茅羽夜が。
どちらかしか生き残れない。そうして皇は血を繋いできた。
この国は初めから呪いで出来ている。
「最も、ここ数百年は皇の中の龍の血も随分と薄れて形骸化して来ました。焔帝は実に久しぶりの龍の子だったんですよ。そして彼、ええ、夕凪宮のあの素晴らしいこと! 正しく彼は神祖の器です。彼は母の胎に術を施し、神降しに適合した唯一人ですからね。他の皇子たちは駄目でした、やはり血の薄い子にはうまく馴染まなくて使い物にはなりませんでしたね」
目の前の男が何を喋っているのか、鈴にはもう理解出来なかった。言語として理解は出来る、しかし彼の思考が全く呑み込めない。
八年前、一年で皇子の殆どが亡くなったと縁寿は言っていた。第二皇子であった真尋は暴動の鎮圧に向かった先で命を落としているが、他の皇子達の死因まではわからなかった。
けれど、今わかった。この男だ。この男が皆、殺したのだ。実験と称して。
海音。海真教を隠蓑にして、千歳の両親を騙して、供物に仕立てようとした呪術師。
怒りと恐怖の混ぜこぜになった感情に、握った拳が震えた。
「……神祖は、亡くなったのではないの」
「まさか! ああ、龍の姫巫女ともあろう貴女がそんなことも知らないなんて嘆かわしいことです。本当にどこまでも忌々しい女たちだ」
(女たち?)
暮星のことだろうか。けれど他に誰のことを指しているのか、わからない。
「神祖は不老不死ですよ。今も海底の宮で眠っていらっしゃるだけ、でも、もうすぐです。もうすぐ……あの方は再臨される」
無邪気で、無垢な瞳に、ぞっとした。狂っている。人の命なんて、彼には何の価値もないのだ。
「貴女にも協力して頂きます、妃殿下」
「お断りよ」
「それが唯一、夕凪宮を救う手立てだとしても?」
どちらも生きる道を選びたい。
そうあの時、鈴は言った。けれどどうやって? そんな方法があるのなら、今までの斎妃たちだって選んだはずだ。共に生きる道を探した皇子だって、きっといただろう。
だからって、このまま諦めたくない。
でも彼の命の刻限は、あとどれくらいあるの?
一瞬だけ、鈴は迷った。自分の命と茅羽夜の命。そのふたつを秤にかけて、自分がどちらかを選ばなくてはならないのだとしたら。
「わたしは────」
「その問いに答える必要はないよ」
静かな声が、虚空に響く。驚いて見れば、何かが底の水へ落ちてきた。龍の眠る泉が大きく跳ねて、水滴がまるで真珠のように彼の髪を飾る。
(この人はいつもそう)
青幡に攫われた時も、渡り部の夢から戻る時も、奈月彦の秘密を知った時も、いつも傍にいてくれた。でも今は。
「……茅羽夜」
世界で一番会いたくなかった人が、橙の灯りに照らされて凛と立っていた。




