十二
────この雨が上がる日は、来るだろうか。
夕闇が猫の足音のように静かに忍び寄る頃に辿り着いた豊都は、思っていたよりもずっと大きな都だった。
面積で言えば淋代の方がずっと大きいけれど、顎龍山の白い衣の裾を踏むようにぎゅっとなって立ち並ぶ建物は大きく、また人が集まっていた。
顎龍山は、十二国の中でもやや北寄りの中央に聳え立っている。そのため、国内の見晴らしの良い場所でなら、大体どこからでも望むことが出来た。年中綿帽子を被った荘厳なそれは、この国の象徴とも言える。
豊都から東へ一日行くと篠蔵に、南下すると淋代に辿り着き、西へ行けば十一国との国境が見えてくるといった立地にある為、人の出入りは昔から多かったようだ。
それだけではない。活火山である顎龍山は、有名な温泉地だった。その名湯の噂は他国からも人が訪ねてくる程らしく、瑠璃しかない十二国にとっては稀少な収入源となっている。
しかし雪が多い為に春が終わり、少し肌寒くなってくる秋中頃までの短い間しか人が行き来出来ないので、実りは多くない。
東和の中で温泉地と言ったら天龍山を頂く六国が有名で、あちらは気候も暖かいので客を取られることの方が多いのだそうだ。ちなみにこれらは全て露草から教えてもらった。歩く風土記か何かだろうか、彼は。
だが今年は積雪が少ないので、この時期でも豊都に人は多かった。それだけがこの異常気象が唯一、この国にもたらした幸いと言えるだろう。
鈴は先日までの教訓を胸に、遣いは出さないことにした為、ただの旅人として人混みをゆっくりと歩く。確かに肩がぶつかるくらい人は多いが、帝都に比べたら全然歩きやすい。
「さて、宿はどうする?やっぱり厩舎のある宿が良いよな」
「でしたら、あちらの珠洲屋がいいかと」
宝生が案内してくれた宿はこの辺りでは大店で、裏手に厩舎もあれば敷地内に温泉もあるらしい。
「おー良いとこじゃん。さすが地元民」
「地元民?」
「私は豊都出身なので」
それでいつもより顰め面が柔らかいのかと、じっと宝生の顔を見る。この十二国へ来てからずっと付き添ってくれている彼は、しかし初日のあれから常に後ろに控えており、面と向かって意見することはなくなった。いつもどこで何をしているのかは知らないが。
じっと横顔を見上げていると、不意に睨まれて鈴は後退る。
「何か?」
「あ、いや、もう少し低いとこでも良くない……?と思いまして」
「んーでもあれより低いと厩舎がないぞ。こっちは馬四頭だし、雪燈達に窮屈な想いさせるのも悪いだろ」
「それはダメね、あそこにしましょう」
人間なら幾らでも我慢ができるが馬達に窮屈な思いをさせるのは良くない。決まりだな、という松葉の声に促されて中に入ると、外観も美しかったが内装もまた白と紺を基調とした落ち着いた雰囲気の宿だった。
ふと見れば屏風には黒い龍が描かれており、その背には荘厳な御山があった。顎龍山の山神様だろうか。
「ちょうど、ふた部屋空きが御座いますよ。どうぞ、ご案内します」
女将に通された部屋は中庭に面した大きな一間だった。もうすっかり畳の部屋に慣れてきた鈴は、畳の新しい藺草の匂いを大きく吸い込む。床の間には丸い陶器の花器に椿が飾られており、ここにも黒龍と御山の描かれた水墨画が掛けられていた。
「小鞠、窓から顎龍山が見えるわ」
「まあ本当。こうして見ると、やはり大きいですわね」
「んー?まあ、そうね。九頭龍山の方が大きくて立派だけど」
「何突然張り合ってるんですか」
いやなんとなく、山守の娘として。
しかし淋代からも見えていたが、こうして近寄ってみるとその大きさに圧倒された。
大いなる恵みを与えてくれた九頭龍山は鈴にとって自分を育ててくれた母のような存在だが、彼の山から見れば鈴は余所者だ。白き天冠を頂く厳かな御山は、どこか鈴を見定めるようにしてそこに在る。
「よし、小鞠!街に行ってみよう!」
「ええ?もうですか?」
「そうよ、善は急げっていうでしょう?山守の一族がいるか、調査よ!」
張り切って行くぞ〜!と部屋を出て行く鈴を見て、小鞠はひとつ息を吐いた。
「もう。……空元気が見え見えなんだから」
そう呟いて、小鞠は主人の分も外套を持って追いかけた。
例の如く読みたい本があると露草に断られてしまったので、小鞠と松葉と三人で街へ出た鈴は、周囲が自分の素性を知らないというのはこんなにも開放的な気分になれるのだとしみじみ思う。誰もが鈴のことなど気にも留めずに歩いて行くことが楽で、つい足取りが軽くなる。
「案内なら宝生を連れてきた方がよかったんじゃないか?」
「あの人怖いんだもん」
「そうか?確かにいかにも生真面目ですって顔してっけど、悪いやつじゃないと思うぞ」
「松兄さんからしたら誰だって良いやつじゃないの」
滅多に人を嫌わない松葉にかかれば誰だって善人だ。未だに初日の言い争いを引きずっている鈴はどうも彼が苦手だった。あと単純に刻葉を思い出すあの目つきが怖い。
「んで、これからどこ行きたいんだ?調査っていったって山守の一族がどこにいるのか、当てがあんのか?」
「正直ここまで大きな街だとは思ってなかったのよね……ここじゃ山守の一族ってどういう立ち位置なのかしら」
「適当に店のおっさんにでも聞いてみるか」
ということで、鈴たちは近くにあった鯛焼きを売っている店に入って、店主に頼んで三つほど買う。胡桃餡、粒餡、抹茶、白餡。悩みに悩んで、鈴は胡桃餡を、松葉と小鞠は粒餡を頼んだ。
店の中に備え付けられた椅子に三人並んで腰掛けて、鯛焼きを頬張る。焼き立てほかほかの鯛焼きはほっこりとしていて、いくらでも食べられそうだった。
「ねえ、おじさん聞いてもいいかしら」
「お、なんだい?」
「顎龍山へ行きたいなと思っているんだけど、どなたの許可を取ればいいのかしら」
「ええっ御山へ行きたいだって?お嬢ちゃん、正気かい?」
大袈裟と言って良いほど、鯛焼き屋の店主は驚いて、やめとけよというように手を振った。どういう意味だろうか。鯛焼きを食べながら、鈴は首を傾ける。
「悪いことは言わなから、あそこには近寄らん方がいい。山守の婆さんがおらんくなって、もうずっとあそこは物の怪の巣窟だからね」
「山守がいない⁉︎」
危うく鯛焼きを落とすところだったのを松葉が寸で受け止めてくれた。店主は痛ましいものを思い出すように、顔を歪めて、声を落とす。
「そうだよ、お嬢ちゃんも八年前の暴動は聞いたことがあるだろ?あの時にな。俺らは例の宗教とは対立した口なんだ。それで、信者が雪崩れ込んできてさ……山守の婆さんも孫がひとりいただけで、他に身寄りもなくてなあ。あっという間だったよ。本当に、酷い有様だった。あいつら山のお社を燃やそうとして、それで……」
その時のことを思い出したのか、店主の親父さんはぶるりと身震いした。鈴も小鞠も、釣られて息を詰めた。話で聞いただけのそれが、急に形になって襲いかかってくるような気さえした。
「暴動は収まったけど、山守が居なくなって、山には物の怪が居つくようになっちまってさ。出雲様のおかげで街に入ってくることはないけど、山に行ったやつらが何人も行方不明になってんだ。お嬢ちゃんみたいなひよひよした娘さんなんて、頭からばっくり食べられちまうよ」
ひよひよって何だ。何故かツボに入ったのか、肩を僅かに震わせてる松葉の脛を蹴る。
「出雲さまってどちら様?」
「おや、あんたらは知らんのか。白浬教の導師様だよ」
「!」
一瞬で鈴の指先まで緊張感が走る。まさかこんなお膝元にいるとは思いもよらなかった。松葉に目配せして、鈴は小さく頷く。
「白浬教のことは道すがら聞いたことがあるわ。導師様ってどんな方なの?」
つとめてにこやかにそう訊ねると、店主は顔をぱあっと輝かせた。その表情があまりにも嬉しそうなので、鈴の方が驚いてしまった。
「本当かい?あの方は素晴らしい方だよ!そもそも豊都がここまで復興したのはあのお方があってこそなんだ」
「おや出雲様の話かい? この辺りは今年日照りが酷くてね、泉がいくつも枯れちまったんだが、出雲様のおかげで息を吹き返したし、山に物の怪が住み着いた時も野畑が荒らされて困ってたんだが、出雲様が結界を張って下さったおかげで荒らされることもなくなったんだ」
「この近隣の孤児たちを纏めて面倒見て下さってるのもあのお方なんだよ。近所の子たちに読み書きも教えて下さってて」
「三番通りの爺さんなんて、ずっと寝込んでたのに出雲様のおかげで今じゃ野良仕事にも出れるようになったって話さ。それなのにお代は要らないって言ってさ」
「本当に、慈悲深い神様みたいな御方なんだ」
店主の親父さんがそう締め括る。いつの間にか店主だけでなく、常連客たちも混ざって、皆口を揃えてその「出雲様」を褒め称えていた。この街は既に、殆どが白浬教の信者であるらしい。いや、これは宗教の信徒というより、出雲様の信徒だ。
彼らがあまりにも熱心に導師様への敬愛を口にするので、正直、鈴は驚いた。八年前の海真教の一件で、十二国は随分荒れただろうに────そう考えて、違うと鈴は思った。彼らは白浬教の崇める神を信じているわけじゃない。出雲という人を、慕っているのだ。それもまた、ひとつの宗教だった。
だが豊都に入ってからというものの、須河やほかの里で見たようなあの丸い青い玻璃が吊るされているとこを見た覚えはなかった。
「でも、軒下にはあの丸い玻璃とか、なかったわよね」
「ああ!俺らはほら、これさ」
そう言って店主が見せてくれたのは、小さな海色の硝子玉の根付だった。店主はそれを腰紐に結って、常に持ち歩いているらしい。
(星鴉の一件で青梅から貰った根付と似ている……)
やはり根は同じものなのだろうか。
「ねえそれで、占いとかするの?」
「占い?お嬢さんは面白いことを言うね、占いが出来るのは巫女さまだけさ。といっても、俺らも巫女さまを直接お見かけしたことはないんだけどね。いつも御簾の向こうにいらっしゃるからなあ」
「でも小さな女の子って話だよ。出雲様が自ら見出したとか」
「何にせよ、出雲様にお会いしたいならこの通りを真っ直ぐ行ったお社に行ってみるといいよ。お忙しい方だから、会えるかどうかはわからないけど」
「ありがとう、行ってみるわ」
にっこりと微笑んで、鈴たちは店を出る。街に出てよくよく見れば、老いも若いも関係なく、すれ違う人々の腰紐にはあの硝子玉が下げられていた。
「言われてみたら、あれ持ってるやつ結構いるな」
「気付きませんでしたね……」
「どうする?例のお社とやらに行ってみるか」
「……」
街を歩きながら鈴は考える。どうしよう、茅羽夜や縁寿に遣いを出して指示を仰ぐべきだろうか。手紙も北斗に頼めば半日で届けてくれるだろう。けれど出すならもう少し情報が欲しかった。
「もうちょっと見て回りたいから、御山の方も行ってみない?」
「だ、大丈夫なんですか?物の怪がいるって噂なんでしょう」
「近くまでは行かないわ。でも念のために、小鞠は戻っててくれる?」
「何を言いますか!姫様が行くなら、わたくしも参ります」
「大丈夫よ、物の怪相手なら別に怖くないわ。人間相手なら松兄さんを盾にするから安心よ」
「いや確かにそれが俺の役目だけどさぁ、言い方ってものがあるだろ、言い方が」
九頭龍山にはいなかったので、物の怪と呼ばれるものに遭ったことはないけれど、一応調伏のやり方も習っている。鈴は渋る小鞠を説き伏せて、宿へ戻らせると松葉と共に山へ続く道を歩き出す。
(……そういえば、兄さん達ってわたしが巫術師だってこと、別に驚いてなかったわね)
青幡に攫われた時、鈴が巫術師として育てられてきた事をふたりは当然のように知っていたようだった。誰にもいうなと言われてきたから言わなかったけれど、婆さまから聞いていたのかもしれない。
まあそもそも占いが出来る時点で、わかることではあった。公然の秘密というやつだ。
「近くで見ると、あれだな、やっぱ里の御山にどっか似ているな」
「……そうね」
街の門ぎりぎりまで来て、ふたりは高い山を見上げる。山をぐるりと囲うように作られた塀と、門は固く閉じられており、立ち入りを禁じていた。遠目に見える黒く塗られた鳥居には紙垂が括られていて、完全に夜陰に呑み込まれるまでまだ猶予がある時間帯だというのに、その向こうは変に暗かった。
まるで山がぽっかりと口を開けて、口の中に誰かが入ってくるのを待ち侘びているかのようだ。
「何かわかるか?」
松葉の問いに鈴は首を横に振った。
「ううん。遠過ぎて何も。でも確かに何か、居るなってのはなんとなくわかる」
「物の怪か?」
「悪いものなのか良いものなのかまでは……でも龍脈は感じるから、正直悪いものじゃないと思うんだけど……」
流石にこの距離では何とも言えない。しかし山守が居なくなって久しいのに、見上げる顎龍山の龍脈はその荘厳さと清廉さを失っていない。誰か手入れをしている者がいるはずだ。もしかしてそれが、白浬教の導師なのだろうか。
可能性はある。むしろそれ以外あるだろうか。しかしその一方で龍脈に祠を建て、呪具を供えて弱らせているのもまた、彼らである。
そもそもその出雲とやらがもし、例の術者である海音と関係のある人物だとしたらとんだ詐欺ではないか。山守の一族を排除したのも、海真教の信徒たちだというなら。
(もしも、初めから海真教によって傷付いた街を立て直し、信頼を得ることが狙いだったら)
信仰というのは薬にも毒にもなり、行き過ぎた盲信と正義は人を殺す。それは、八年前の一件で誰もがよく知るところだろう。傷付いた人間は弱い。疲弊し、考えることをやめた人間は誰かに縋りたくなる。差し伸べられた手を振り払うことは、とても、勇気がいることだ。
そこに付け込む人間が、本当に善人か?
その問いに、鈴ははっきりと否と答える。
────けれど。
街の人々にとって、彼は確かに救世主だった。教え導く存在だった。それを暴こうとしている鈴は、彼らにとって善か。
(……何かを成そうとするならば、何かを犠牲にしなくちゃいけない)
婆さまの教え。当たり前のことだ。鈴は鈴達の事情の為に、彼らの幸福を傷付ける。
そこに善悪を持ち込んではいけない。
それは蜃気楼のように、容易く裏表が引っくり返るものだ。
「……一先ず、今日は帰りましょう。明日ももうちょっと話を聞いて……」
「はなして!」
松葉とに声をかけて、二人が踵を返そうとしたその瞬間、幼い悲鳴が聞こえた。鈴と松葉は一瞬だけ顔を見合わせて、すぐに声のする方へ駆け出した。
路地を二本程入って、板張りの長屋の並ぶ区域に足を踏み入れると、声の主はすぐに見つかった。松葉が手で制し、そっと建物から覗くと、十を少し超えたくらいの少女を男が三人がかりで囲っているのが見えた。少女は風呂敷を胸に抱えて、男たちを気丈に睨んでいるけれど、その藤色の瞳には薄い膜が張っている。
「いいじゃねぇか少しくらい恵んでくれよ。あの坊さん稼いでんだろ?慈悲深ーい御方なら、困ってる人を見過ごすなんてなさらないよな?」
「そういうのは、ちゃんと働いてる人がいう台詞です。おじさんたちに、渡すものなんて粟ひとつないもん!」
「このガキ!」
ひとりが拳を振り上げる前に、鈴も松葉も動き出していた。軽やかに地を蹴った松葉が今まさに少女を殴り付けようとしていた男を鞘に収めたままの刀で殴り飛ばす。
「あ⁉︎ テメェ何し」
やがる、と激昂した男の顎に下から松葉の拳が一撃、更に脳天へ踵落としを喰らわせ、糸の切れた操り人形のように、男は目を回して地に伏した。鮮やかな流れ技に、最後のひとりは一瞬目の間の状況を処理しきれずにぽかんと唖然としていたが、すぐに戦力差を悟ったのか逃げ出そうとする。全く意気地のないことだ。
「────縛」
懐から術符を出して、鈴が印を組む。札から生まれた水は男の足を絡め取り、彼は無様に地面へ滑り、ごろごろと転がった。水はそのまま男の腕と足首を拘束する。
「寄ってたかって女の子から喝上げなんて人の風上にも置けないわね。もう、なんて……」
「鈴後ろッ!」
松葉の悲鳴にも近い声が、耳元で風を切る音に重なる。え、と菫色の瞳が瞬き、背後から刀を振り上げる影に一瞬反応が遅れる。まだ仲間がいたらしい。だめだ間に合わない。咄嗟にぎゅっと鈴は目を瞑る。
「────……ッ!」
しかしそれは、鈴の上に降り注ぐ事なく、キンという涼しい音と共に弾かれた。自分の体を抱く腕の感触にそろりと目を開けると、そこにいたのは見知らぬ青年だった。
青年は鈴の体を軽々と抱き留め、あっという間に美しい白刃によって襲撃者を斬り伏せた。斬撃すら、鈴には見えなかった。彼が一体いつから側にいたのかもわからないが、助けられたのは確かだ。
駆け寄ってきた松葉がほっと胸を撫で下ろし、鈴もまた、今度こそ安堵に息を吐いた。
「大丈夫か?」
「ええ、はい、危ないところをありがとうございました」
鈴の体を離すと、青年はにかっと白い歯を見せて笑った。そうすると尖った八重歯が覗いて、なんとも人懐っこい印象を与える。
「気にすんな!俺もさっきの声を聞いて駆け付けてみたらさ、そこの兄ちゃんがあっという間に片付けちまったもんだから」
そう言って松葉を指差してまた笑う。彼は刈り上げられた短髪に不思議な紋様の刺繍された藍染の布を巻いていて、身に纏っている衣も東和ではよく見る小袖に袴だが、刺されている模様はどこか唐風だ。
しっかりと日に焼けた浅黒い肌と訛りの少なさから、こちらの人間ではないだろうと予想出来た。少なくとも育ちはもっと南、帝都に近いだろう。
「俺からも礼を言わせてくれ。妹を助けてくれて助かった」
「ああ、こっちのお嬢ちゃんは兄ちゃんの妹か。お嬢ちゃん、さっきの術、カッコ良かったぜ」
「え、あ、ありがとう……?」
そんなことを言われたのは初めてだった。咄嗟にお礼を言うと、彼は鈴の後ろを覗き込むようにして体を傾ける。振り向くとそこには、先程の少女が立っていた。
「あの……」
「あっ!大丈夫?怪我とかしてない?」
「はい、全然。あの、助けて頂いてありがとうございました」
「お礼ならそっちのお兄ちゃんに言ってあげて」
伸びている二人もどこから出してきたのか縄でふん縛っていた松葉がひらひらと手を振る。少女はちょっとたじろいで、松葉に向かってぺこりとお辞儀をした。ちょうどその時、騒ぎを聞きつけた衛士が向こうの道から走ってくるのが見えた。
「おっと、なら後始末は任せるな」
「え?」
「じゃ、お嬢ちゃんまたな!」
「あ、ちょっと待ってせめて名前……ってはっや!」
それだけをいうと、褐色肌の青年は足早に去っていく。せめて名前だけでも聞けたら良かったのだが、そんな暇すらなかった。春に花弁を巻き上げて吹く、突風のような青年だ。
衛士に男たちを預けて、鈴は少女を見た。癖のない真っ直ぐ背中半ばまで伸びた髪を紺瑠璃の髪紐で結っており、丸く垂れた瞳の愛らしい少女だった。少女は始終大事そうに風呂敷を抱えており、鈴のそばにぴったりと張り付いている。
「鈴、お前えらく懐かれたな」
「みたい。ねえ、あなた名前は?」
「……」
さっきまで男たちに啖呵を切っていた威勢の良さはどこへ行ったのか、少しもじもじと顔を赤らめて、少女はちらりと鈴を見上げている。鈴が顔を傾けると、小さく、ぽつりと言った。
「私、凛音っていうの」
「凛音ちゃん?可愛い名前、それに何だか名前、わたしと似てるね」
「……ッ!うん!うん!」
どうやら名前が似ているのが、嬉しいらしい。目を喜色に輝かせて、何度も頷く。
「か」
「か?」
「可愛い……ッ!」
「おーい鈴、誘拐するなよ犯罪だぞ」
兄二人に一つ年上の小鞠。ひとつ年下に玉藻がいたが、彼女は鈴よりもずっと大人びた子供だったので、実質鈴は里でもどこでも末っ子の立ち位置だった。それ故に、こうも無垢に頼られると、胸の奥がきゅんと柔らかく痛む。これが庇護欲というものなのか。
「凛音ちゃんはどこのお家の子?よかったら送っていくよ」
「あのね、こっち」
凛音が鈴の袖を引く。鈴がその指を取って手を繋ぐと、少女の顔がふんわりと綻んだ。その笑顔に鈴は思わず天を仰ぎ、涙を流しかけた。ああ京都におわす親愛なる葉牡丹先生、これが尊いという感情なのですね。
「お姉ちゃんたち、こっちの人じゃないよね?」
「うん、そうなの。ちょっと旅してて、帝都から来たのよ」
「帝都!あの、天子様がおられるところ、だよね。すごい、私はここから出たことないから、どんなとこなのか全然わかんない。ねえ帝都ってどんなところ?」
「んー……人がいっぱい居るかな……」
「豊都よりも⁉︎」
「そうだね、豊都よりいっぱい居る」
「帝都すごい!」
「食べ物も美味しいぞ」
「鯛焼きよりも⁉︎」
鯛焼きが好きなのだろうか。通りに店があれば買ってあげたかったが、残念ながら彼女の案内してくれる道には鯛焼き屋はなかった。
路地を抜け、大通りを横切って、凛音に連れてこられたのは古いお堂だった。しかし築地塀に囲まれたお堂はそれなりに大きく、開けっ放しになっている門の中から子供の笑い声が響いている。
「ここ?」
「うん。お姉ちゃん、あの……いつまで、この辺にいるの?」
「捜しものが見つかるまで、かなあ……」
「さがしもの……」
凛音は淡い青みがかった紫の瞳をゆっくり、鈴の方へ向けた。その視線に、鈴は一瞬だけたじろぐ。先程までの無邪気な少女の眼差しではなく、もっと遠く、深い色をしている。
門のところに吊るされた銅鈴が、遠くでりいんと鳴った。
その音に、ざわりと背中を予感が駆け下りる。
まるで底の見えない水面を覗き込むような瞳が、小さく笑った。
「お姉ちゃんの捜しもの、きっとすぐに見つかるよ。それに、今見てる悪い夢も、もうすぐ終わるから」
「……え?」
にっこりと笑った凛音は、ぱっと手を離すと門の向こうへ駆けていく。しかし門のとこで一度立ち止まって、凛音はくるりとこちらを向いた。
「鈴お姉ちゃん、松葉お兄ちゃん、またね!ありがとう!」
大きく手を振って、凛音は弾む足取りで駆けて行った。それに小さく振替して、鈴は彼女から言われた言葉を胸の中で繰り返す。
捜しものは、すぐに見つかる。
そして、悪い夢も、もうすぐ終わる。
「……不思議な子だったなあ」
「そうね……」
なんだかどっと疲れてしまった。早く戻って、名湯だという湯に浸かりたいものだ。鈴たちはそのまま元来た道を歩き出す。
その後ろで、銅鈴が風もないのにりぃんと鳴った。




