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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
一章・東の龍と西の娘
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 平気だよ、とその子は言った。

 傷だらけの不思議な色をした瞳は何色をしていたのか、もう思い出せない。



 ぼんやりとした視界に映り込む見慣れない梁と泥と黴のつんとした匂いが、痛む頭に滑り込んでくる。数回瞬いて、額に手をやると濡れた手拭が置かれていた。頭をずらして見ればすぐそばの庵には小さな火が入っており、仄かに温かい。

 まだ少し気怠さの残る身体をゆっくりと起こすと「気が付きましたか」という静かな声が聞こえた。火の明るさからやや外れた部屋の壁に凭れ、膝を立てて座っているのは茅羽夜だった。黄昏の藍色に墨を垂らしたような髪は彼の左眼から頰にかけてを覆っていて、ちょうど右の方を見ている茅羽夜の表情は鈴からでは窺えない。

「貧血と軽い脳震盪でしょう。もう少し横になっていて下さい」

「皆は……」

「使いを出してあります。あとは街の方に任せましょう」

 想定外の人数だったとはいえ、やれると啖呵切ったにも関わらず、結局助けを呼べないまま気絶してしまったことが不甲斐なくて、鈴は唇を噛んだ。茅羽夜が駆けつけてくれなければどうなっていたか、考えたくもない。

「すみません、お役に立てなくて……」

「貴女が謝る事ではないでしょう。悪いのは襲撃犯です」

「でも彼らはわたしを狙っていました、もう一人、目当てもいたようですけど……」

「だからといって、貴女自身に非があるわけでもない。繰り返しますが、悪いのは襲撃犯であり、落ち度があるとすればあらゆる事態を想定していなかったこちらにあります。謝られるのは、困ります」

 本当に困惑してるような声だったので、鈴もそれ以上言うのはやめた。

 ゆっくりと頭を動かして周囲を見回すと、古ぼけた室内は久しく人の手が入っておらず、戸は歪み、柱のあちこち傷んでいた。崩れる心配はなさそうだが、ぬかるんだ地面に寝かされるよりまし、といったくらいだ。

「……ここは……?」

「管理者の居なくなった古いお堂のようです。頭を強く打っていたようなので、あまり動かさない方がいいと判断しました。気分は如何ですか?」

 大丈夫だという声には自分でも驚く程張りがない。周囲は既に日が落ちて暗く、格子の向こうにある木々の合間から見える空は既に照日奈の支配になかった。あれがちょうど正午を回った頃だったから、もう随分眠っていたことになる。

「あの、ありがとうございます。助けて貰った上に、介抱して頂いて」

「己の職務を全うしたまでです」

 愛想の欠けらもない返事だ。しかしふと起こした身体を見下ろせば、深い藍色の上着が掛けられていた。茅羽夜のだろう。ゆっくりと立ち上がって彼の傍へ寄ろうとして。

「来ないで下さい」

 ぴしゃりと言われて思わずたじろぐ。

「えっでも、上衣……」

「貴女が使って下さい。夜は冷えます」

「わたしは何重にも着てますから、これは茅羽夜さんが着るべきです」

「いいえ結構です」

「ああもう」

 面倒臭い! そう思って彼との距離を詰めると、黴の匂いに混じって、鼻腔に忍び込むような鉄の匂いがした。鈴の唇の端はとっくに止まっている。はっとして近寄ってみれば、茅羽夜の肩から胸元にかけての深い色の衣が黒ずんでいるのが見えた。

「ちょっと待ってください、ひどい傷じゃないですか!」

「平気です」

「そんなわけないでしょう!」

「本当に、平気なんです。自分で止血はしました」

「そんな青白い顔で何言ってるんですか!」

 頑なにこちらを見ようとしない茅羽夜の正面に回ると、暗がりでもわかるほど顔色が悪い。額には玉のような汗が滲んでおり、怪我のない逆の首筋に手をやると、僅かに震えた。掌に伝わる熱はどう考えても普通の体温ではない。傷から発熱しているのだ。

 失礼します、と断って衣を捲ると、肩から鎖骨にかけてばっさりと裂けた傷痕があった。確かに血は止まっているようだが、思いの外ひどい傷口に唇を噛む。

 どうしてこんな酷い怪我なのに、助けを呼ばなかったのか。鈴よりもよっぽど重症じゃないか。

 鈴は立ち上がって先程の手拭を持ったままお堂を出ようとして、茅羽夜に引き止められる。ひとりでは危ないというような事を小声で諫める茅羽夜に、鈴はどうしてだかひどく腹が立った。そういう台詞はまともな顔色をしている人間が言うものだ。

「この子達がいますから」

 いつの間にか傍におりてきていた牡鹿を茅羽夜が胡乱げな目見る。怪我人は黙ってて下さいと言い残して、鈴は夜の森に飛び出た。もちろん、そう遠くへ行くつもりはない。天草の嗅覚を頼りに薬草を数枚採って、近くにあった小川に手拭を浸し、薬草をよく揉んで洗う。春先の水はまだ指を刺すように冷たかった。竹筒があれば水も汲めたのだが、小鞠に渡してしまっていたのを思い出した。

(小鞠と松兄さんたちは無事かな……)

 いや、今は目の前の彼だ。頭を振って、小川を小走りに離れた。

 すぐに戻ってきた鈴に、茅羽夜は僅かにほっとしたように緊張を緩めた。途端に痛みを自覚したのか、眉根を寄せて短い息を吐く。

 濡らした手拭いで傷口周りを拭き、平べったい入れ物に入れて持ち歩いていた軟膏を大きめの葉に刷り込んで傷口に当てがう。しょっちゅう木に登り、野山を駆け回っていた鈴は幼い頃から生傷の絶えない子供だったので、医者の卵である縁寿が調合して持たせてくれたものだ。こんな所で役に立つとは思いもよなかったが。

「これくらい、すぐ治ります……」

 この期に及んでまだ言うか、と軽く睨めつけるけれどそれがどこか拗ねた子供のような声なので、鈴はすぐにくすりと笑った。どうしてか記憶の中の幼子と目の前の彼が重なって見えた。

「昔、同じような事を言っていた子がいました。その子も酷い怪我なのに、このくらいすぐ治る、平気だ、大丈夫だからって。今思えばわたしが泣きそうな顔をしていたから、慰めようとしたんだと思いますけど」

 茅羽夜は黙っていた。

 そういえばこの話を誰かにするのは、これが初めてだ。でもなんとなく、この人にならいいかという気持ちになる。

「もう十年くらい前の事です。山で怪我しているその子を見つけて、すぐに人を呼ぼうとしたんですけど彼がすごく嫌がって、結局すぐ近くの洞穴で数日、匿ったんです。婆さまには案外気付かれていたかもしれませんけど。その子、泥だらけで左目にひどい怪我をしてました。血で前髪も固まってて、見てるだけで痛々しくて……泣きじゃくりながら手当てしていたから、鬱陶しかったんでしょうね。見た目より痛くない、平気だからあんたが気にする必要ないってずっと言うんですよ、茅羽夜さまと同じで」

「私のは、本当に平気だから言っているんです」

 痛みを耐えるような顔を背けながら、そう言う彼の声はどう聞いても強がりだった。鈴は自分の着物を裂いて、それを上から巻き付ける。上等な絹はよく綺麗に裂けるものだと変なところで感動してしまった。きっとあとで小鞠にこっぴどく怒られるだろうが、緊急事態なので許して欲しい。

 包帯を巻き終わると、いくらかマシに見えたが、あくまで応急処置に過ぎないので、早く医者に見せねばならない。夜が明ければ街の人が来てくれるだろうが、本音を言えば今すぐにでも駆け出して誰かを呼びに行きたかった。

「茅羽夜さま、少し動けますか。火の側に行きましょう」

「いいです」

「いや良くないです、それとも引き摺っていきましょうか?あ、天草に乗ります?」

「……自分で動きます」

 鈴が本気だと理解したのか、茅羽夜はゆっくりと庵の側に腰を下ろした。そしてふと、鈴の側を番犬のように離れない牡鹿を見上げる。

「……あの時の鹿か」

 熱で思考が纏まっていないらしい。すぐに自分の失言に気付いたらしく、しまったというように顔を顰めた。

「やっぱりあれ茅羽夜さんだったんですね」

「……」

「髪の色……さっきも銀でしたよね。染めてらっしゃるんです?」

「違います。あなたと同じです」

「同じって?」

「獣を使役する不思議な力、水や炎、風を操る力。それを、私達は巫術と呼んでいます……私も、一応術者の端くれなので。貴女の師は、あの山守りの巫女殿ですか?」

 あの半分妖怪みたいな婆さまが巫女と呼ばれることが何だかおかしかったけれど、ゆっくり頷いた。

 彼も同じだという言葉に内心ほっとしながら、鈴は彼の説明に耳を傾けた。婆さまからは誰にも力の事を他言するなときつく言われていたし、婆さま以外に術者を知らなかったからてっきり異端の力なのだとばかり思っていたが、そうでもないらしい。

 巫術というのは神々やら獣たちの力を借りて扱う異能の総称だった。師事してきちんと成り立ちを学べば簡単なものなら誰でも扱えるとの事だった。

 勿論、大きな術を使うには才も必要であるし、奢らず日々邁進する、弛まぬ努力が不可欠だった。宮にはそういう術者だけの部署もあるらしい。


 鈴の師は、茅羽夜に告げたように婆さまだった。彼女も術者であり、それ故に九国の霊山である九頭龍山の山守をしているのだと言っていた。山守というのは大体巫術師である。鈴が山に立ち入ってもお咎めを受けないのはこの為だ。

 鈴が北斗と天草を使役した日、婆さまは下手に押さえ付けるより自分の監視下で術者として学ばせ、身に付けさせた方が安全だと判断したらしい。彼女がその決断をしてくれたことを、鈴は心の底から感謝した。

 鈴が使えるのは水や風を使った術が主で、逆に火を使うものは苦手だった。火に関しては術以前にそのものが苦手で、料理なんかでも火加減でいつも失敗していた。火を使わない行程ではそこまででもないのに、火を扱うと途端にだめになる。人にも得手不得手の属性があるらしい。

「この鹿も鴉も普通の獣たちではありません」

「普通の鹿ではない……?」

「御使、神の眷属、山神に連なるものだと思います」

「え」

 ふるりと頭を振って、ふんふんと鼻を鳴らしている牡鹿を見やる。つぶらな瞳は鈴と視線がかち合うと構って欲しそうに揺れた。だがそう言われれば、彼らがただの野生の獣ではないことは何となく、頭のどこかで理解していたような気もする。山神の眷属であるという彼の言葉は引っかかることもなく、すとんと胸に落ちた。

 天草という名は鈴がつけた。はじめは野生の獣に名付ける事は躊躇われたが、何となく、名を欲していたように感じたのだ。梁にとまってこちらを窺っている北斗も同様だった。子供の身の丈程もある大鴉は普段、普通の烏とそう変わらない大きさをとっている。その方が木々の合間をすり抜けて飛ぶのに便利なのだろうと何の疑問もなく思っていたが、普通、烏というのは自分の大きさを自在に操らない。

「名を与える事は契約ですから。ですが、神の眷属というものは普通人へ下りません。巫術師は帝都にも何人もおりますが、御使を使役している者はひとりもおりません。貴女のお婆さまがみだりに人へ話すなと言ったのは、そういう事です」

「……知りませんでした」

「その力は、これからも黙っているのが宜しいでしょう。普通の術もまあ、あまり使わない方がいいかもしれません」

「どうして?」

「今の陛下は巫術があまりお好きではないので」

 占いもあまり好かないらしい。何でもかんでも占って決めるというのは鈴も馬鹿げていると思うが、日々の導べのひとつとして、人の拠り所になっていることも確かだ。公家というものは皆揃いも揃って占い狂いだと思っていたので、その頂点にいる今上帝陛下が占を好まれないというのは意外だった。

「でも、あの、茅羽夜さんは」

「私の力は、貴女のものとは少し違います。……呪いのようなものです」

 最後の一言は小さ過ぎて鈴の耳まで届かなかった。痛みを吐き出すような息が、茅羽夜の口からもれる。先程よりはいいが、まだ顔色は随分悪い。怪我人に無理をさせてしまった。

 鈴は立ち上がって迷いなく茅羽夜のすぐ隣に腰を下ろす。そして彼が抱えていた刀を奪い取って強引に──勿論傷に障らないようにはしたが──膝へ彼の頭を乗せた。

 ぴしり、と茅羽夜が身を固くするのが膝から伝わる。それが水を掛けられた猫のようで、少し可笑しかった。

「少し寝て下さい。大丈夫です、何かあったら天草と北斗が報せてくれますから」

「…………待っ……て、ください。姫様は、ご自分が貴人へ輿入れする身である自覚がありますか」

「若宮様は、わたしを庇って怪我をした方を介抱する事を咎めるような狭量なお人なのですか」

「そういう事ではありません」

「なら怪我人は黙っていらして」

「そもそも、貴女も休息が必要です。私の顔色を仰いますけれど、貴女も相当青白い顔をしてらっしゃいますよ。お気付きでないでしょうが」

「わたしは充分休みました。それ以上仰るなら口と鼻を塞いで気絶させますが?」

「……無茶苦茶だ……」

 ぽつりと、こぼれた一言は彼の本心だろう。畏った丁寧な言葉ではなく、彼本来の口調なのだろうか。怪我の痛みと熱とで大分頭がぼんやりしているのだろう。そう言えばお山の祠で会った時は堅いもののもっと砕けた口調だった。

 やがて観念したように目を閉じた茅羽夜を見下ろしながら、そっちの口調の方がいいのになあとぼんやり思った。


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