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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
四章 見果てぬ空へ
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十一

 

 茅羽夜たちが出掛けて行ったあと、鈴は小鞠の部屋で鬱々と怠惰に過ごしていた。

 茅羽夜がいないなら自室に戻ってもいいかと思ったのだが、和水と鉢合わせた時どんな顔をしていいのわからず、かと言ってひとりで外へ出ることも出来ず、結局引き続き小鞠の所に厄介になることにした。どうせ、明日の朝には豊都へ出立するのだから別段問題ないだろう。

 しかし室内で出来ることなんて限られている。ぼんやりと天井の木目を数えていることにもとうに飽きてしまったし、ならば刺繍でもしようかと思ったのだが集中力が続かなくて、結局半刻もせずに裁縫箱に仕舞われた。

「どうしよう……暇だわ」

 鈴は雪国の生まれでなくて本当に良かったと心から思う。室内に篭りっぱなしというのはどうも性に合わない。

(いやもしかしたら、お姫様生活が合わないのかしらね)

 そう自嘲して、鈴はごろりと畳の上に寝返りを打つ。氏より育ちという言葉があるように、国長の血を引いていたとしても鈴は根っからの村娘だった。ここでも既に手が空いた時に掃除でもしようとして、女中たちに桶と雑巾を奪われたばかりだ。


 目蓋を閉じて、故郷を思い浮かべる。

 瑞々しい緑の覆い繁る山並み、さらさらと流れる小川の冷たさ。澄んだ川縁に揺れる蒲公英、共に野山を駆けた獣たちの息遣いや、山頂から眺めた、どこまでも広がっていく空の高さ。

 茅羽夜の手を取ったことを、後悔しているわけじゃない。

 けれど何にもなくとも、確かに幸せだったあの日々が無性に懐かしかった。

「鈴、いるか?」

 戸口のむこうから聞こえてきた声に鈴は慌てて眦に溜まった涙を拭って「居るよ」と言った。声の主は扉を開けて、ひょこりと顔を覗かせる。

「松兄さん、どうしたの?」

「いやーちょっと散歩したい気分なんだけどさ、付き合わねぇ?」

 鈴の護衛に付けられた松葉は体を常に動かしていないと疲れる性分だった。暇なのが一番苦手というこの次兄は、里にいた時から少しもじっとしていない。そんな松葉にいつも付いて回っていた鈴も、また然りだ。

「うん、行く」

 鈴は松葉の案に乗って、着替えて厩舎まで降りると雪燈を連れ出して松葉と二人乗りで淋代の郊外まで足を伸ばした。

 手綱を握る松葉の思いに答えるように、雪燈はぐんぐんと速さを増していく。きんと冷えた風が鈴の頰を撫でるのが心地好く、さっきまでの鬱々とした気分が少しだけ浮上する。

「どこまで行くの?」

「あー?」

「どこまで! 行くの⁉︎」

「もうちょっと!」

 前を見ているからか声が届きにくいらしい。風に負けないように声を張り上げると、松葉も同じように大きく答えた。そしてやがて、雪燈が滑るように森の中へ飛び込み、緩やかに失速していく。

「着いたぞ!」

 兄の背中から顔を出した鈴は、その光景に、思わず息を飲んだ。

 眼下にあったのは小さな泉だった。本当に、今まで巡ってきたなかでは一番小さくて、助走を付けた雪燈ならあっという間に飛び越えてしまえるのではと思えるくらいだ。

 雪を被った樹々に囲まれたそれはしんと静まり返っていて、水面は薄らと氷が張っていた。雪燈の背からそろそろと近寄ってみると、薄い氷面の下に何かが泳いでいる。小さな魚だった。生きている。今も。

 鈴はそっと泉の畔に積もった新雪に耳を付けた。目を閉じるとかすかな水の音が聞こえる。巡っている音。生きている、確かな心音。

 心に溜まっていたものが、ほんの少しだけ解けていくような気がした。

 ここの龍脈は侵されていない。白く、まばゆく、今も生命の音が聞こえる。久しぶりに聞いた音に、鈴は心の奥が震えたような気がした。

「……なぁ、鈴。お前、辛くないか」

「え?」

 体を起こした鈴に、松葉がやけに潜めた声で言った。縁寿の言葉を、ふと思い出す。

「ごめんね、心配掛けちゃってた?」

「したよ、そりゃあするさ。兄貴もすごく心配してたし」

「縁兄さんも同じこと言ってた。ふふ、兄弟だねえ」

「お前も兄妹だよ」

 その一言が、鈴の手の中に、ゆっくりと粉雪みたいに落ちてくる。掌の熱に溶けて、小さな冷たさを残して、消えていく。

「俺、兄貴みたいに頭良くないからお前が何に悩んでるとか全然わかんねぇけど、でも俺達は兄妹だよ。ずっとずっと、何が変わっても、お前が誰の娘だって、そうだ」

 だから、と松葉は言葉を切った。

「お前が辛いなら、逃げてもいいんだぞ」

 それはまさに、鈴にとっては青天の霹靂と言って良かった。若宮の妃に選ばれたと告げにきた時といい、松葉はいつも、鈴が思っても見ないことを言い出す。

「逃げる?なにから?」

「辛いこととか、悲しいこととか、そういったすべてのものから────今なら、きっと逃げられる」

「……」

 鈴の心に今、巣食うもの。血筋という、一種の呪いにも似た何かと。

 それから、思い浮かべた白雪の髪と黄金の瞳。

 それらを全部投げ出して、逃げたらどうなるのだろう。軽くなるのか、それとも足枷のようにどこまでもついて回るのか、わからない。

 でも、鈴は一瞬だけ考えた。誰も鈴を知らない土地で、村娘として生きる自分を。春に種を撒き、泥に塗れて土地を耕し、月を眺めて、かまくらを作って餅を焼いて。

 それは、半年前までの暮らしの延長のはずなのに。

 でも今は、そこに彼がいないだけでぽっかりと何か空いたみたいに物寂しい。

「────……」

 ばかだな、と鈴は自分に笑った。結局どんな理屈を捏ねたとしても、鈴が思い描く未来はもう彼の側にあったのだ。

(嫌われたくない)

(そばにいたい)

(わたしの他に、誰も心を許さないで)

 身勝手な想いばかり、浮かんでは消える。本当に、どうしようもない。引き返せない水際まで、自分は来てしまっていたことに、今更に気付いてしまった。

 認めてしまったら、もうだめなのだ。

 そう、思った。あの時、彼の涙を見た瞬間から。

「────兄さん」

 呼び掛けられて、兄は目の前の少女を見た。彼をそう呼ぶのはこの世で自分ただひとり。その事実が鈴の足を進ませる。

「ありがとう、大丈夫。わたし、帰るよ」

「いいのか?」

「良いの」

 選んだの、わたしが。

 あの春の日、妃になってくれと雪の手が少女を希った瞬間に、少女もまた選んだのだ。


「わたし、茅羽夜が好きだから」


 あの人が対の星であると、信じたいから。

 それが例え、どんなにつらくても。


「だから、平気よ」


 翌日、鈴は松葉と露草、小鞠と、それから宝生を連れて淋代を出立した。

 縁寿は見送りに来てくれたが、茅羽夜の姿はなかった。


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