七
花嫁行列の行程もようやく折り返し地点に差し掛かろうとした所、山をひとつ越えた所で茅羽夜が馬を急かした。周りはどうしたのかと慌てるが、少し進んでみれば松葉や鈴にはその理由がすぐにわかった。土や風からくぐもった雨の匂いがするのだ。
本来なら今日はもう少し歩を進めて、峠を越した所の宿場町で宿を取る予定だったが途中雨に降られるかもしれない中、滑りやすい峠を越えるのは賢い選択ではない。結局鈴達はそのまま峠手前の宿に泊まることになった。
鈴達の予想は見事にあたり、宿へ入ってまもなく、雷を伴う豪雨となった。
「不思議な方よね、茅羽夜様って」
灯篭に火を入れながら小鞠が言った。鈴は既に着替えも夕餉も済ませ、あとは寝るだけなのだが今日はいつもより距離が短かった分体力が余っていて、早々に寝るには惜しい気がしたので小鞠とお喋りしているというわけだ。
鈴は隊列の一番後ろにいる茅羽夜を思い返す。彼はいつもどこか眠そうで、大体ぼんやりしているのにこういう勘はすこぶる良かった。
獣の襲来や天気、綺麗な川の流れる所や野営に向いた場所なども簡単に見つけて来た。正直、生粋の山育ちとしては雨嵐を先に言い当てられたのは少々悔しい。
「他の武官の方々とは、少し雰囲気の違う方だし……笑わないし、喋らないし、わたしちょっと苦手なの」
「面喰いの小鞠が珍しいじゃない。あの前髪がいけないの? よく見ると綺麗な人なのに」
目にかかるほど長い前髪と寝癖のような髪に目を瞑れば、透き通った白い肌に、通った鼻筋と長身の立ち姿はその方面に疎い鈴でも抜きん出ているのがわかった。実際、同僚達からの得体の知れないという評価は少し離れた場所にいる女性陣の目には容姿がいい分魅力的に映るらしく、後から聞く所によると里では彼の世話を誰がするかで一悶着あったらしい。
鈴が引きこもっている間のの出来事である。松葉の世話は当然、小鞠が勝ち取ったらしいが。
「へえ〜成る程ねぇ、鈴ったら里の男衆には見向きもしないと思ったら、ああいう綺麗めな顔が好きなの。確かに里にはいない感じの顔立ちしてるもの、こう、洗練されてるというの?」
「ちょっと。違うったら」
「あらそんなに照れなくても」
小鞠は目をにんまりと細めてからかってきた。十六にもなれば大体、誰かに恋焦がれ縁を結んでいくものだが鈴は占いに駆り出されることはあっても自身となるととんと興味がなく、婆さまからも「好きにしな」と放任されていたのでこの歳で初恋もまだなままやってきてしまった。数多の男たちを翻弄してきた小鞠は鈴がそういう話に一切乗ってこないので、いつも口を尖らせていたのだった。
まさか全てすっ飛ばして、皇家に輿入れする事になろうとは思いもよらなかったが。
「本当にそんなんじゃないったら。それにこれからわたしは若宮に嫁ぐ身なのよ」
「でも心は別物でしょう」
蝋燭の灯りに照らされた小鞠の言葉に、どきりとした。いつも見ていたあどけない少女ではなく、鈴よりひとつ歳上の少女から女へ変わる、艶っぽい色が瞳に浮かんでいた。
鈴が言葉を発する前にどかどかと廊下を踏み鳴らす音が聞こえて、ふたりはぱっと身を起こした。外の様子を見に行った松葉と茅羽夜が帰ってきたらしい。
「まずいかもしれん」
「何が?」
「松葉様! そのようなお身体で部屋に立ち入ってきてはなりません!」
びしょ濡れになった体で鈴の部屋の戸を開けて入ってこようとした松葉に小鞠が赤くなりながらもぴしゃりと言った。そして慌てて手拭を差し出して追い出す。
今回急遽取った宿はあまり大きくなく、小鞠と鈴が泊まる部屋の隣にある小部屋が松葉と茅羽夜が寝ずの番の為に泊まっており、あとのものは大部屋に押し込められているのだった。身内だから許されているものの、輿入れ前の乙女の部屋に無遠慮に入ってくるのは如何なものだろうか。本来なら手打ちにされてもおかしくない所業だ。
毅然と追い返した小鞠だが、襖を隔てているとはいえ隣の部屋に憧れの松葉がいることの緊張から、お茶を二度零している。鈴がさっきの仕返しとばかりにからかうと、ものすごい熱いお茶を淹れられた。
「峠の道だがな、泥濘も怖いが、崩れる所もあるかもしれん。しかし迂回するにも日程にそんな余裕もなくてな」
「そこまで急な峠なの?」
「いや、道の勾配自体はそこまで酷くないし道幅も充分広い。ただ山道だからな、足を滑らせれば山の麓まで真っ逆さまだ」
衣を着替えて今後の進路について報告に来たが、鈴は松葉の決定に従う他ない。どうしたものか、と松葉は鈴が床に入るまで他の者たちとうんうん話し合っていた。
結局、明け方には雨も上がり、道の様子を先鋒の隊員に様子見に行かせて決める事にしたらしい。鈴の支度が終わる迄には、予定通り花嫁行列は再開される事になった。
足を踏み入れた峠は確かに勾配の緩やかな道だったがすぐ側には大きな手で削りとったような急斜面があり、落ちたらひとたまりもないことが窺える。想像してぞっと肌が粟立つ。側についていた小鞠も同じ事を思ったらしく、着物の上から腕を摩っていた。
それでも松葉の言うように道幅は広く、慎重に進んでいけばそう攻略難な峠でもない。山場を越えた所で、松葉の休憩の号令がかかる。
「喉が渇いたでしょう。はい、水をどうぞ」
「ありがとう」
小鞠の差し出す竹筒の中の水で喉を潤すと、凝り固まった体も解れるような気がした。水は微かに花のにおいがして、姫様達が口に入れるものは水さえも香があるのかと驚いた。
ふと鈴が休んでいる傘の向こうで、隊の殿にいる茅羽夜がじっと松の木に背を持たれて目を閉じているのが見えた。彼はちゃんと水分補給したのだろうか。そう言えば彼が食事をしているところを一度も見たことがなかった。ますます生態が気になるところだ。
「小鞠、わたしはもう充分だから、お水は茅羽夜様にわけてあげて。まだみたいだし」
「え?ええ、でも……」
「わたしは馬に乗ってるだけだし、歩行の皆の方が大変でしょう。鞍にも随分慣れたわ。あの子、とても大人しいし」
雪燈という名前らしい、鈴を乗せる白馬は宮から送られてきたもののひとつで、乗馬に不慣れな鈴を乗せても嫌な顔せずにしっかりとした足取りで運んでくれた。そのおかげで随分と馬上にも慣れ、景色を楽しむ余裕さえ出てきたくらいだ。
「姫様がそうおっしゃるなら……」と、渋々といった体で小鞠は竹筒を持って茅羽夜の方へ歩いていった。昨夜小鞠にはああ言ったが、木陰に見える横顔は切れ味のいい刃物のような美しさがあり、涼やかで、退屈極まる馬上の旅では一種の癒しとなっていた。顔が良いって素晴らしい。
しかし小鞠がいなくなって手持ち無沙汰になってしまった鈴はふと、日除けの傘をさしてくれている青年を見る。彼らも疲れているだろうに、鈴がこうしていては休めないのが心苦しかった。教育された娘ならいざしらず、右も左も分からない村娘に恭しく仕えるのは、あまり気分の良いものではないだろう。
「ごめんなさい、貴方も休んでいいのよ。今日はそこまで陽射しも強くないし」
「……え?あ、もしかして、自分に、仰っておられるのですか」
「? 他にいないでしょう」
「そう、ですね。すみません、姫様に話しかけられるとは思ってなかったので……お気遣い頂き恐縮ですが、これが自分のお役目なので大丈夫です」
微笑む青年は確か、婆さまが御守りを渡してくれた時、怯えて松葉に宥められていた人だ。手足が長くがっしりとした体格の割に目元は細く柔らかい、人好きする顔立ちをした青年だった。名を尋ねると、花巻だと返ってくる。
「里では婆さまがごめんなさい。びっくりしたわよね」
「ああ、いえ、お元気な御方でしたね」
「そうなの。もう半分妖怪なんじゃないかって思うわ。でも捨て子だったわたしを育てくれた婆さまでね……ずっと元気でいて欲しい」
まほろばへ近付くたびに、婆さまと暮らした家から遠ざかる。もし、彼女に何かあったとしても、鈴はすぐに側に行ってやれない。それどころか、もう二度と会えない可能性の方が高かった。
「姫様はお優しい方ですね、自分の知ってる方を思い出します」
そう言って、彼は遠くを見るように目を細める。彼の飴色の瞳には慈愛と、優しさが滲んでいた。
「その人、貴方にとって大切な人なのね」
「わかりますか」
「ええ、顔で」
そうですか、と青年はやっぱり柔らかく微笑んだ。余程大切な人なのだろう。
そうこうしている内に休憩時間が終わる号令がかかる。小鞠が小走りでこちらへ戻って来るのを見て、不意に何か、ちかりとした光が目を刺した。何だろうと、立ち上がってそちらを見上げようとして、強い力に引っ張られる。
「────全員走れ!」
松葉の怒号と、どん、という地響きのような音が聞こえたのはほぼ同時だったように思う。鈴は寸での所で馬上へ引っ張り上げられ、目を白黒させている間に、彼が鈴を抱きすくめる形で雪燈の手綱を握っていた。
「茅羽夜、鈴を連れて先に行け!」
「松兄さん!」
鈴を馬上へ引っ張り上げたのは茅羽夜だった。鈴が休憩していた場所からはかなり距離があったと思うが、そんな事を考えている暇はなかった。土砂崩れだ。泥の濁流は容赦なく先程鈴達が歩いてきた道を飲み込み、山の斜面を滝のように流れていく。悲鳴と怒号、土砂が滑っていく轟音が周囲に重なり、満ちていた。
「まって、兄さんたちがまだ!」
「だめです」
「どうして!」
「火薬の匂いがします。あの土砂崩れは普通じゃない」
どういう事だ、と問い掛けようとして「少し飛ばすから喋らないで。舌を噛みます」と言われれば口を噤むしかなかった。茅羽夜の胴にしがみついて、振り落とされないようにするので手一杯だ。
土砂崩れの轟音が聞こえなくなった頃、雪燈が急停止した。その際に前足を大きく振り上げるものだから、危うく落馬する所だった。
「……!」
声をあげようとして、すぐに置かれた状況を理解した。前には武器をもった男が数人、獲物を狩る獣の目でこちらを見ていたのだ。小さな舌打ちが目の前の人からもれた。押し通るには中々骨が折れそうな人数だ。
「こいつか」
「ああ、向こうにえらい荷物を抱えた奴らもいた。間違いない」
(こいつら、まさか)
あの土砂崩れが普通でないといった理由が何となくわかった気がした。先程目についた光は、この男達の仲間が仕掛けたものかもしれない。
男たちはじりじりと距離を詰めようとにじり寄って来ている。着ているものや年齢層に幅はあるものの、皆銀の耳輪をつけていた。
「……俺が合図したら、まっすぐこの道を行って下さい。街道に出れば宿場町があります、そこの藤屋という宿を探して、この状況を伝えてください。出来ますか」
鈴にしか聞こえない声量でそういうと、茅羽夜はにじり寄る男を睥睨する。彼を置いていく事に罪悪感がないわけではないが、鈴がいても役に立たないだろうという事は理解出来た。むしろ鈴を庇いながらではお荷物だ。それに後方の彼らがもし、土砂に巻き込まれているなら、尚のこと人手がいる。時は一刻を争うのだ。
鈴はぎゅっと彼の衣を握った。そして、真直ぐに前を見据える。
「出来るわ、山育ちを舐めないで」
ふっと茅羽夜が笑った気がした。前を向いているので、全く見えないが。
「行きますよ、一、二の、三!」
視界が開ける。茅羽夜が馬から飛び降りて、目の前の男に斬りかかって、血飛沫が山道に飛び散る。振り向きざまにもう一人。こんな場合でなければ惚れ惚れするほど、鮮やかな身のこなしだった。皆が剣の腕は確かだと口を揃えて言うはずだ。
「行って!」
「雪燈!」
手綱を取り、鈴は雪燈の腹を蹴った。雪燈は甲高い声をあげて、山道を真直ぐに駆け出す。男の怒号と絶叫が背中に突き刺さった。興奮した雪燈はいつもよりも何倍も乱暴に走るので何度も振り落とされかけ、鈴はすぐに手綱を握るのを諦めて、雪燈の首に縋り付いた。
(峠を越えてさえしまえば、宿場町はすぐだ。町の門さえ潜ってしまえば……)
あと少しで街道に出ると言うとこで、雪燈は再び急停止して暴れ出し、鈴は今度こそその背から振り落とされた。咄嗟に受け身を取れたのは、山育ちで木に登っては落ちていた経験の賜物と言っていいだろう。この時ばかりは、山育ちで良かったと思わざるを得ない。
「!」
「捕まえたぞ!」
男の太い腕が、鈴の左手を捻り上げた。苦痛に顔を歪ませて見れば、先程対峙した奴らとは人相が違うものの、皆同じ銀の耳輪をしている。仲間がまだいたのか。
「例の姫か?」
「ああ、だがもう一人がいない。土砂に紛れたか」
「ならいいだろ。始末する手間が省ける」
「おい他の仲間はどうした。見捨てたのか、おひいさん」
誰かもうひとり目当てがいるらしかった。髪を掴まれて無理矢理上を向かされると、男の湿った息がすぐ側にあった。嫌悪と痛みに、二倍顔が歪む。
「何だ、思ってたより餓鬼だな。楽しみがない」
「おい手酷く扱うなよ。女の方は傷付けるなっていうお達しだろ」
「ちょっとくらい遊んだっていいだろ、なあ」
何がなあ、なんだ。なあいいだろという意味ならちっとも、これっぽっちも良くない。
ちらりと視線だけで周囲を確認する。後ろから誰かが来る気配はない。目の前の奴らの仲間も、彼も。
───だったら、もう腹を括るしかない。
(本当は、もう二度と使うつもりはなかったけど)
息を深く吸って、そして吐く。そして唇の端を強く噛んだ。鉄の味が口の中にじんわりと広がる。
振り落とされた際に襟元から見えたそれを空いていた方の手で掴んで、滲んだ血をとって線を描く。乾いた風と共にしゃらんという涼やかな音があたりに響いた。
「おいで、北斗、天草!」
そう叫ぶいなや、鈴を取り巻くように暴風が巻き起こり、その風の中心から蹄の音が高らかに響く。どこからともなく現れた片角が僅かに欠けた牡鹿は鈴の手を捻り上げていた男の顔を角で器用に掬い上げ、そのまま振り捨てた。
「な、なんだ!?」
「わからねえ!何だこの鹿、うわあ!?」
剣を抜いた男の顔に黒い物が飛びかかる。よくよく見れば、それは幼子の身丈程もある大鴉だった。襲われた男は腕で顔を庇い、剣を振り回すものの鴉はその軌道をすばしっこく掻い潜り、黒い嘴が男の目を抉った。山道に鮮血と悲鳴がこだまする。
「化鳥だ!うわあああやめろこっちにくんな!」
「落ち着け、この女が操ってるんだ!」
「ッ!」
男たちは思ったよりも頭が良かったらしい。すぐに鈴が「親」だと見抜くと獲物を提げて襲いかかって来た。
けれど鈴も怯むことなく首から下げていた玻璃のそれを唇に挟み、ぱん!と柏手を鳴らす。すると少女の掌に水が生まれた。それは意思を持つようにうねり、蛇のように鎌首を擡げて男に襲いかかった。水蛇はそのまま男の頭を飲み込み、水牢となって締め上げ、ごぼり、という気泡が男の口から溢れた。もう一度柏手を打って、鈴は男が気を失ったのを見極めてから水牢を解く。
途端にくらりと眩暈がした。振り落とされた時に頭を打ったかもしれない。身体が異様に怠くて、重かった。おまけに天草と北斗を呼び出すのにも血を使っているのだから、当然と言えば当然だけれど目蓋の重さが尋常ではなかった。痛む頭を抑え、ふらつく足元が歪む。
目の端に、水蛇を逃れた男が、剣を振り上げたのが見えた。多少の傷は目を瞑ることにしたのか、それとも頭に血が上っているのか。避けようにも目が霞んで、鈴は降りかかる痛みに耐えようと唇にそれを挟んだまま目をきつく閉じた。
脳裏に、あの皺くちゃの婆さまの顔が浮かぶ。
(────鈴、この力は決して人前で使ってはならん)
どうして、と幼い鈴は訊ねた。初めて獣を使役した夜だった。自分の背丈程もある大鴉を伴って帰ってきた鈴に、婆さまはいつになく真剣な面持ちで鈴に諭した。この力を、決して人前で使うなと。故に小鞠は勿論、兄ふたりでさえも鈴が術を使えることを知らない。
(強すぎる力は幸ともなるが、同じくらい禍いを招くからだ。その力を正しく理解するまで、みだりに話してはならないよ)
わかったわ、約束する。だれにも言わないし、無闇に使ったりしないわ。そう約束した。
(──約束を破って、ごめんなさい)
いつまでも降って来ない痛みに、鈴は目を開く。そこには血泡を吹いて傾いでいく男と、その後ろで白刃を振る銀髪の青年がいた。白雪の髪を風に遊ばせ、あの時見えなかった左眼が鈴を見ていた。
「あなた……」
いつかそこにいたのか、わからない。でもきっと見られた、知られた。体の芯が冷えていく感覚に脳が痺れる。けれどそこが限界だった。膝から力が抜けていき崩れ落ちていく身体を誰かが受け止めた、気がした。
沈んでいく意識の中辛うじて見て取れたのは、自分を覗き込む眩い黄金色と脳裏に蘇る懐かしむような、痛むような、憐むような、婆さまの声だけだった。