序
冷たい雨が、鈴の頬を叩く。
重い鈍色の雲からは止め処なく降りしきり、止む気配はない。それを、鈴は地に横たわり、ぼんやりと見ている。
霞む視界の中にあるのは、誰かの足元と剣の切っ先。白いそれから雨に混じって赤黒いものが滴り、滲んでいく。
それが自分のものであると何故か冷静に理解していた。
────これは夢だと、鈴は知っている。
自分の記憶ではない。痛みも雨の冷たさも、斬られた箇所の熱も知らない。けれど、倒れているのは紛れもなく、鈴だった。水溜りに浮かぶ自分の黒い髪が、泥と血に塗れている。
「どうして」
鈴ではない声が、喉から発せられる。ざあざあと自分達を容赦なく叩く雨の音に紛れてしまいそうな、小さな声だった。
けれど、目の前のその人には届いた。
「────あなたが、……」
砂利を踏む音。顔をずらしてその人を見上げる。空を覆う曇天は暗く、更に長い髪に隠れてしまっていて、彼の顔は判然としない。恐怖だけが、少女の全てを支配する。
震える唇が、誰かの名前を呼んだ。自分の声なのに、雨に掻き消えて上手く聞き取れなかった。
その人が身動ぎ、もう一度、大きく剣を振り上げた。
突然の嫌悪感に鈴は無理やり目蓋を抉じ開けた。喉の奥にある、つっかえたような息苦しさに、ゆっくりと息を吸って、大きく吐く。銀木犀の甘い香りに、ようやくここが自分の寝台であることを確認する。
(……またあの夢か)
ここ最近ずっと鈴の睡眠を妨げる悪夢。毎夜ではないとはいえ、誰かに殺される夢を見るのはあまり目覚めのいいものではない。少し湿った額を手の甲で拭い、仰向けになっていた姿勢をずらすと。
「────……ッびぁ」
叫びかけた口元を寸で押さえる。
しみも雀斑もない白雪の肌に、伏せられた長い睫毛。青みがかった黒色の前髪を払ってやると、僅かに身動いだものの、しかし依然として薄い唇は真一文字に結ばれており、微かな寝息が聞こえてくる。
目が覚めて一番に見るのがこの国宝級の寝顔であることに、鈴は未だに慣れない。
(睫毛って伏せると本当に影が出来るものなのね……)
よく小鞠の愛読書の中にそういった描写があったたが、茅羽夜の寝顔を見てそれが誇張などではないことを、鈴は初めて知ったのだった。そっと触れた肌もきめ細かく、眠っているせいか、いつもより少しだけ体温が高い。
(くっ……女としてすべてが負けている気がする……!)
鈴とて年頃であるので、化粧や身繕いはそれなりにしているつもりだが元が平凡なので、どう足掻いても限界がある。特別卑屈になる程ではないとは思うが、この顔の前では全てが霞んでしまうのもまた紛れもない事実である。
とはいえ、鈴も別に茅羽夜が容姿で自分を選んだわけではないことは重々承知している。だから別に悲観しているわけではない。ただちょっと女として悔しいだけで。
(ていうか、まだ随分暗いわね……明け方までどのくらいかしら)
鈴は自分の腹の上に乗っけられた腕をそっと持ち上げて、こっそりと寝台を抜け出す。
静かに部屋を出てみると、まだ東の空も藍色が覆っており、満天の星々が鈴を迎えた。二度寝してもいいが、夢見が悪かったせいで、あまりそんな気分にもなれない。早めに起きて朝の支度をしてしまうか悩むところだ。
はあ、と息を吐くと僅かに白む。霜月も半ばとなり、朝起きるのが随分と辛くなってきた季節。寝が浅い割に寝起きの悪い茅羽夜は毎朝叩き起こすのが大変なのだった。放っておくと全然布団から出てこない。気持ちはわかるのだけれど。
しかし、鈴は冬が然程嫌いではない。冷たく澄んだ空気の中で星はより一層燦然と瞬き、胸いっぱいに空気を吸い込むとそれだけで体の中が清浄な気で満ちる気がした。
そして何より、茅羽夜の美しい白銀の髪にも似た雪が降る季節でもある。今ではいつ降るのかと楽しみにしているくらいだ。
僅かに悴んできた指に息を掛ける。そろそろ戻ろうかと思っていると、突然後ろから腕が伸びてきた。
「わっ!……びっくりした」
「……何しているんだ」
「ごめんね、目が覚めちゃって。起こした?」
「べつに」
後ろからお腹らへんに腕を回して、肩口に顔を埋める茅羽夜に、小さく笑う。結われていない髪の毛が、鈴の首筋に当たってふわふわとする。
「もしかして、目が覚めてわたしがいなかったから、寂しくなったの?」
「……うん」
(うん、て!何この可愛い生き物!)
自分で聞いておいてあれだが、本当に目覚めて鈴がいなかったから不安に思ったなんてとてもじゃないが平静でいられない。あまりにも可愛い。速かに国が保護するべきではなかろうかと半ば本気で思う。
身悶えしている鈴の肩に顔を寄せていた茅羽夜は、そのままお腹に回していた腕を解くと肩と膝裏に手を入れ抱き上げる。突然の浮遊感にぎょっとして、鈴は慌てて彼の首にしがみついた。
「えっなに、ちょっと茅羽夜⁉︎」
「身体が冷えてる」
「ああ、まあ、でしょうね」
「また風邪引いて寝込む気か?言っておくけど、君が寝込むならまた俺が付きっきりになるから」
「なんて斬新な脅迫……」
だがしかし、彼には前科がある。いや、この場合前科がつくのは鈴の方だろうか。里にいた頃は寝込むことなんて幼い頃おたふく風邪に罹っただけで、ただの一度たりともなかった健康優良児だったのに。
普通に付きっきりでの看病なら多少申し訳なさはあるものの嬉しい限りであるが、茅羽夜の場合、鈴が良くなるまで自分の寝食から何まで蔑ろにしてしまうので大変に良くない。この脅迫は地味に効く。
観念した鈴は大人しく茅羽夜に御帳台まで運ばれ、褥の上に下される。室内に入ると確かに身体の芯まで冷え切っていたのを実感する。
「ちょっと待ってて」
茅羽夜はそういうと部屋を出て行ってしまった。流石に追い掛けるのは怒られそうなので待っていると、茅羽夜は湯気の立つ茶器をふたつ持って帰ってきた。
「え⁉︎ わざわざ淹れてきてくれたの?」
「ああ。昔、俺も師によく淹れて貰ったんだ」
寝付きの悪い夜に、とぽそりと呟く。その声にああ、そうかと鈴は思う。龍の血に苛まれ、眠れない夜はたくさんあったのだろう。一体幾つ、ひとりで星を数えるだけの夜を過ごしたのだろうか。
想像して切なくなって、目を伏せる鈴に、茅羽夜はふっと息を吐いた。
「茶の中に蜂蜜と擦り下ろした生姜を入れてあるから温まる。生姜、平気だったよな」
「うん、好き。ありがとう茅羽夜」
「ん」
ぴりりとした生姜と甘やかな蜂蜜が美味しくて、鈴は微笑む。彼が幼い頃、師に淹れてもらったお茶も、こんな風に彼の心を温めてくれただろうか。そう思うと、何故か鈴まで嬉しかった。いつか、茅羽夜のお師匠様にもお会いしたいものだ。
「眠れないなら、このまま起きてるか?」
「んー温かくなったらちょっと眠くなってきた気がする」
「なら、はい」
茶器をその辺に押しやって、茅羽夜は寝台から鈴を手招く。薄らと頬を赤らめた鈴は、しかし抵抗することなくその腕の中に滑り込んだ。お茶でだいぶ温まったとはいえ、冷えた身体を包む体温と、首の下と胸下辺りに回された腕の重さが心にくすぐったい。
(幸せってこういう時のことを言うんだろうなぁ)
心音に耳を寄せながら、鈴は目を閉じる。さっきまであれ程鈴を悩ませていた悪夢はあっという間に遠去かっていった。
鈴の一日は、まず茅羽夜を叩き起すことから始まる。
大変に寝起きの悪い茅羽夜は鈴が寝台から起き出そうとするとまず決まって愚図る。愚図るなんて元服した十六の男に使うにはあまりにもな表現であるが、鈴からしたらこれは子供が愚図るのと大差なかった。寒い、もう少しだけという懇願を聞くと、そのまま四半刻は起きて来ないことを鈴は既に学んでいた。
心を鬼にして、容赦なく布団を剥ぐと、寒さに身動いで、茅羽夜はゆっくりと身を起こした。垂らされた黒髪から少しだけ覗く、ぼんやりとした寝ぼけ眼が宙を彷徨う。
「はい、起床!」
「…………いやだ、さむい」
「だーめ。もう、茅羽夜って暑さにも寒さにも弱いのねぇ」
温暖な気候であった九国の育ちである鈴も、確かに冬の布団から出るのには毎朝有りったけの勇気がいる。しかし鈴以上に、茅羽夜は気温差に弱かった。
寝起きのほやほやとした彼はそれはもう、許されるのならそのまま抱き締めて心ゆくまで寝かせてあげたいと思うくらいに可愛いのだが、残念ながらそうはいかない。出仕の時刻は刻々と迫ってきている。
観念して寝台から起き出した茅羽夜に、鈴はにっこりと微笑む。
「おはよう、茅羽夜」
「……うん。おはよう、鈴」
なんてことはない、朝の挨拶を交わせること。それだけのことが、鈴にとっては幸せを噛み締めることの出来る大切な一瞬だった。
小鞠が持ってきてくれる桶に入った水で顔を洗い、身支度を整えてから、今度は茅羽夜の身支度を手伝う。彼は自分で出来ると言うのだが、身繕いに頓着しない彼に任せておくまいと、鈴は春殿へ来た時から心に決めていた。夫の身支度を手伝う妻というものに、多少の憧れがあったのも否定はしない。これは葉牡丹先生の書く小説の主人公も同じ気持ちを抱いていたのできっと誰もが一度は思い描く憧れだろう。たぶん。
朝餉を頂く頃になるとようやく茅羽夜も目が覚めてくるのか、受け答えがしっかりしてくる。そのまま二人で朝餉を食べて、茅羽夜は春殿を自分の足で出る。つまり、東宮としてではなく茅羽夜として出仕していくのだ。
今日は兵部の方へ行くらしい。未だに、彼の立ち位置が謎である。
「……じゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
まだ少し布団が名残惜しそうな顔をしているなと鈴は呆れた顔をする。問答無用で送り出そうとしている妻を、彼はじっと見下ろしてから、何を思ったのかするりと彼女の頬を撫でた。え、なに⁉︎と慌てる鈴の喉からひぇ、と変な声が出た。
「……殿下、遅れます」
「分かってる」
風早の催促に、そう言ってもう一度、行ってくると告げると、茅羽夜は踵を返して今度こそ春殿を出ていった。茅羽夜の姿が見えなくなると、鈴はそのままよろよろと柱に凭れかかり、胸元を掴んで大きく息を吐く。
「………………死にそう」
「心中お察し致しますわぁ……」
「ていうかあれ何!? なにこの、あの甘い表情は……⁉︎ なに、ほんと、なに⁉︎」
「動揺が語彙力に顕著に現れてますわね、でもそんなわたくしの推し夫婦が今日も尊い……」
「……うんまって小鞠、今それ何書き付けているの?ねぇ、それどうするつもりなの?」
涙に潤んだ琥珀色の瞳がにこっと微笑み、小さな手帳はそのまま何事もなかったかのように襟元へしまわれた。そしてそそくさと逃げる小鞠の肩を後ろから逃すまいと掴む。
「お許し下さい姫様……!これも人助けと思って!たくさんのお嬢様たちの命が助かるのです!」
「いやいや騙されないわよ!さあその手帳をお渡し!」
「そんな殺生なー!」
「おう、何か騒がしいな、どうした?」
段々と興が乗ってきた二人の後ろからひょっこり顔を出した松葉に、小鞠が即座に姿勢を正す。その変わり身の速さに鈴はこの幼馴染は只者ではないのでは……?とやや戦慄した。
「松兄さん、何仕事さぼってるの?茅羽夜はとっくに出仕したわよ」
「ちげーよ。俺は今日、春殿の番なんだ。ち……殿下には風早が付いてるしな」
「ああ、風早さん……」
茅羽夜の側近であり、松葉と同じく帯刀を許される東宮舎人である。茅羽夜の執務の補佐などあらゆる雑務も受けあっている為、大体茅羽夜のいる所には彼もいると思っていい。
しかし鈴は未だに、茅羽夜に付き従っている少し年上の人、くらいの認識でしかなかった。茅羽夜が鈴といる時はいつも部屋の外に出てしまうし、話したことも顔を合わせたことも片手で数える程だ。
「風早さんって謎よね」
「お、出たな鈴の悪い癖が。茅羽夜の次は風早か」
「悪い癖とはなによ!あ、でも言われてみればちょっと茅羽夜に似てるかも」
風早の顔をまじまじと見たことはないが、背丈も体格もそこまで大きく違わないように見える。茅羽夜が五つくらい実年齢より上くらいの外見をしているので、大体歳も同じくらいで、ともすれば年子の兄弟のようだ。
彼自身、口数も多くなく、静かに茅羽夜に付き従っている姿は花嫁行列の時の茅羽夜を彷彿とさせる。
「ああ、そりゃあそうだろ。そういう風に振舞ってるんだから」
「……うん?」
「風早は茅羽夜の影武者として拾われてるからさ」
そうやって、さらりと何でもないように言う松葉に鈴はどんな顔をしていいのか一瞬わからなかった。
高貴な身の上である以上命を狙われることも珍しいことじゃないのだろう。しかし影武者という非日常的な存在に、理解がうまく追い付かない。
しかし憐むのも怒るのも、どちらも風早にとっては侮辱だろう。風早にも彼の事情があるのだから。少し考えて、結局鈴は「そうなんだ」と相槌を打つだけに留めた。
「おう、あいつが鈴を迎えに来た時、東宮の振りしてここに残ってたのはあいつだぜ」
「そんなことになってたの⁉︎ ていうか気付かれなかったの……⁉︎」
「そりゃ、殿下として出るときは覆面してるからな。背格好と声音さえ近ければ案外バレねえぞ。結構それで入れ替わってたりするし」
「成程……」
茅羽夜が一月も出掛けてどうしてバレないのだろうと思っていたがそういうわけがあったらしい。茅羽夜が外に出るときは風早が東宮として宮に残り、前回はその護衛に松葉が当てられたのだ。
「風早さん、茅羽夜と付き合い長いの?」
「俺が中央来る直前だから七年前くらいか?そのくらいに、殿下がどっかから拾ってきたんだよな」
「ど、どっからって、どこ」
そんな犬猫じゃあるまいし。風早が外見通りの年齢ならば二十歳を少し過ぎた頃だろう。七年前頃なら十五やそこらの、大人とまではいかないけれど、迷子になる子供という歳でもないはずだ。
「さあ?ほんと、突然拾ってきたんだよ。そりゃもう、ひどい傷だらけでさあ。その時俺ら同室だったから部屋まで運んで、殿下が上に掛け合ってよ。そのまま士官することになったんだよな。今思えば九条家が噛んでたんだろうけど、まあ、そういう感じ」
「じゃあ、松兄さんは前から風早さんのことも知ってたのね」
「ちょっとだけな。数月程くらいか?でもあいつも茅羽夜以外には全く心を開かなかったからさ〜そういう点でも似た者同士だったのかもな」
「ふうん……」
「というか、鈴いいのか?そろそろ刻葉さんが怒り出す頃じゃね」
「……は!」
うっかり長々と話し込んでしまったが、今日は刻葉から国の歴史についてもう一度頭から叩き込みますと言われていたのだった。遅れたとなればどんな叱責と嫌味を聞かされることになるか。
鈴は慌てて真っ赤になったまま固まる小鞠を引きずって、殿舎へ駆け込むのだった。




