七
科挙によって多少の人事異動はあったものの、治部省の忙しさは他の官庁に比べたら穏やかだった。中務省や式部省、税周りの管理に追われる民部省の忙しさはまさに猫の手も借りたい程らしい。
そう言う状況であったので、玄蕃寮の使部として採用された花巻────青幡があちこち見て回っていても、別段咎められることはなかった。勿論、咎められそうな場所に入る時は細心の注意を払ったし、青幡が採用されてまず行ったのは宮内の地図を頭に入れる事と、衛士の見回りの時間帯を把握することだ。ばれるようなヘマはしない。
しかし科挙の人員増加によって今は隠れられているものの、青幡としてはいつまでも此処に留まるつもりはない。調べられるだけ調べたら、さっさと退散する心算だ。
(東宮は宮に引き篭もって出てこない、ねえ)
当たり障りない会話の流れて東宮について同僚や先輩達に訪ねても、返ってくるのは城下で流れている噂の範疇を出ない。人嫌いだとか、陛下と仲が悪いからずっと引き篭もっているのだとか、そういったものだ。話を聞いている間、青幡は笑いを堪えるのに必死だった。
(ほんとにその通りだったらここまで苦労しなかったのになー)
ただの臍曲がりの引き篭もりの皇子であったなら殺すのもあれ程てこずらなかった。人嫌いに関しては面倒なのであまり深くつっこみを入れたくないが、あれは多分人が嫌いなのではなく他人との距離感を掴むのが極端に下手なだけだろう。花嫁行列の際、彼を観察していたのは何も鈴だけでではなかった。
青幡はすっかり入り浸っている図書室に、当直の人が交代する時間帯を選んで滑り込んだ。同じ時間に行けば顔を覚えられる危険性が増すからである。
といっても、青幡は特別目立つ容姿をしていない。細目の人懐っこい柔和な顔立ちは相手に不信感を与えないように常に努めて微笑んでおり、人当たりの良さを全面に出していた。体格には恵まれているが、体を作る線は細く、ゆったりとした衣からはわからない。
余程仲の良い間柄でもない限り、青幡が周囲に与える印象はそういえばそんな奴もいたな、といったどこにでもいる至って普通の青年である。勿論、術で周りの印象に強く残らないよう、多少底上げはしているが。
(昨日見た感じ、ここに目ぼしいものはないな……やはり人の目に触れるような安易な場所に置いていないか)
若宮が何故ああも血が濃い理由を調べろ、というのが巫女である少女と長から頼まれた青幡の任務だが、どう考えても機密事項に抵触する書物を誰も閲覧出来る場所に保管してあるわけもない。別件もあったので調べていたが、此処で得られるものはもうないだろう。
「何かお探しですか〜」
さてどうしたものかと顎に手をやって考えていた所に、ぼんやりとした声が掛かる。見れば数冊の書物を抱えた、まだ幼さを残した青年が声と同じく輪郭のぼやけた目で青幡を見ていた。
「ああ、すみません。玄蕃寮の者なのですが、ここに書かれた書物はどちらでしょう?」
「度牒発行の履歴を纏めたものですか〜それでしたらここではなく、あっちの左手突き当たりの棚ですよ〜」
「有難う御座います。何しろ新人なもので」
「先日の科挙で入って来た方ですか。懐かしいです〜僕もちょうど四年前に受けたんですよ」
「そうだったんですか。しかし此処、広くて管理が大変でしょうね」
「そうですね〜僕としてはたくさん知らない本が読めて、嬉しいですけどね。でも最近忙しいので、毎日一冊しか読めなくて……」
「毎日一冊読めたら十分では……?」
「その前は十冊読んでたので」
「本がお好きなんですね」
「うん、好き。だから官吏になったんですもん」
おっとりと話す青年はふああ、と大きな欠伸をして、そのままのっそりとした動きで身を翻して歩いて行った。図書寮にあんなのんびりとした青年はいなかった筈なので、恐らく資料を取りに行かされたどこかの官庁の使部だろう。
青幡がふっと息を吐いて、図書寮を出ようとした時、先程の青年が思い出したように振り返った。
「君が探している度牒の発行履歴、たぶん見付からないよ。海真教には発行されてないし、勿論記録なんて残ってないからね」
「!」
「あれ?違った?」
青幡の心臓が早鐘を打つ。どうして、何でバレたのか。
(────消すか)
ゆったりとした衣の中に隠したそれに指をかけ、いいやダメだ、と思い直す。ここでは目立ち過ぎる。青幡が此処へ入ったのを当直に見つかっているし、彼がどこの部署かもわからない。
なにより青年の顔は相変わらずのんびりとしており、彼がどういう意図を持って青幡に話しかけてきたのかも掴めなかった。
「君、玄蕃寮っていったろ?あそこは僧尼の名簿管理や法事の指揮を司る部署だから、てっきりうちから八年前の海真教について洗い直せって指示が下りたのかと思ったんだけど」
「うちって……」
「中務省。うちの大将っていうか、殿下が調べてるんだって。その為に今回九国から大将の母君もこっちに来てるし」
(こいつ、中務省だったのか)
中務省は八省の中でも帝の補佐を勤める最も重要な官庁だ。この時期、中務省は末端に至るまでとてもじゃないがこんな所でのんびり油を売っている場合ではない。
(それに……若宮くんが海真教について調べてるだって?ふうん……)
中務省長官は若宮の後ろ盾でもある九条空鷹だ。成る程、あいつが流した噂の裏はちゃんと耳に届いているらしい。
(無能ってわけでもないらしい。はー、より一層むかつく)
目の前で相変わらずぼんやりと突っ立っている青年も、案外抜け目ないなと青幡は内心舌打ちした。玄蕃寮だと名乗っただけでそこまで考えが回る下っ端はいないだろう。そもそも他部署の、更に言えば閑職にも近い仏僧に関しての寮など覚えている人間の方が少ない。青幡に事実確認をせずに聞いてしまうあたりが末端らしいが。
(しかしどうしようかな、ここで肯定しても後からそんな指示出てないとばれたら疑われるし、否定しても……)
面倒だなやっぱり消すか、と極論に辿り着きかけた時、正午を報せる太鼓が鳴った。青年は「あ、やば戻んなきゃ怒られる」と言って、青幡など初めからいなかったかのようにすたすたと歩いて行ってしまった。
「……なんだあれ」
なんて自由人なのだろうか。不意に謹慎を喰らっている知人が頭を過って、咄嗟に顔を顰める。
しかし、彼は思いもよらない情報を置いて行ってくれた。
(九条華織子が帝都にいる)
九条家前当主の妻であり、中務省長官と先代斎妃────暮星を産んだあの女がすぐそこにいる。これは好機だ。
(明日……いや、当主がいない方がいい。今夜だ)
中務省はまだ暫く落ち着かないだろう。ならば早いほうがいい。九条華織子が九国にいつ帰るかもわかならいのだから。
そう思いながらすぐさま踵を返すと、青幡は図書室を退室した。




